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「在特会(在日特権を許さない市民の会)」の正体
http://g2.kodansha.co.jp/1771/1931/1932/1933.html
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-3791.html
g2 月刊現代 後継 ジャーナリスト 安田浩一 :「日々担々」資料ブログ
第1回
Tの“飛躍”はいつから始まったのか
2両編成の筑豊電鉄は起点の黒崎駅前駅(北九州市)を出ると、じきに洞海湾に面した工業地帯と並行するように走り、途中で南に大きく逸れて筑豊方面へ向かう。車窓越しに見えるのは低い山並みと住宅地からなる退屈な風景だけだ。無人駅をいくつかやり過ごし、中間市に入ったあたりで下車すると、駅前から延びる緩くて長い坂道の両脇に、戸建の住宅街が広がっていた。かつては炭鉱町として栄えたというが、往時の面影はすでにない。
それでも、薄れゆく採炭地としての記憶を懸命に守ろうとするかのように、唯一この町で存在を誇示しているのが、町はずれにあるボタ山である。長年の風雨によって形をだらしなく崩し、いまや雑木に覆われた小高い丘陵でしかないが、古くから地元に住む人々にとっては“石炭の栄光”を振り返るべく、もっともノスタルジックな場所となっている。
その荒れ果てたボタ山と向き合うように、県立高校の校舎が建っていた。
Tがこの学校を卒業してから、すでに20年が経過している。
彼は影の薄い男だった。
「おとなしくて目立たない、クラスで最も地味なヤツでした」と、元同級生のひとりは言う。
「友達もほとんどいなかったんじゃないかなあ。いつも、ひとりで行動していた。3年生のとき、確か家出して1週間ほど学校を休んで話題になったこともありましたね。でもそれ以外、彼のことって全然思い出すことができないですね」
私が話を聞いた元同級生たちは、誰もが同じ印象を口にした。
「無口」「物静か」「気が弱そう」
かつての女子生徒のなかには「T? そんな名前の人、聞いたことがない」と、存在そのものを否定する者までいた。卒業アルバムを確認してもらってようやく出た言葉は「ああ、小太りの男。見たことはあるかもしれない」だった。
Tは一時期、生徒会の役員を務めたこともあるが、その事実すら覚えている者は少ない。「生徒会なんて誰もやりたがらない雑用係みたいなものだったから、みんなでTに押し付けたに違いない」と断言する元同級生もいた。
存在感のなさ―その一点のみで、Tは同じ教室で過ごした者たちの記憶の端に、かろうじてぶら下がっているだけだ。
卒業アルバムにはTのあどけない笑顔の写真が収められている。高校生にしてはやけに幼く、突けばすぐにでも泣き出しそうなその表情に、私は気の遠くなるような“距離感”を覚えた。
「ゴキブリ朝鮮人を日本から叩き出せ!」
「シナ人を東京湾に叩き込め!」
「おい、コラ、そこの不逞朝鮮人! 日本から出て行け!」
カン高い声で絶叫しながら街頭を練り歩く「ネット右翼のカリスマ」が、まさかこの写真のTであるとは誰も気がつかないだろう。
在日特権を許さない市民の会(在特会)会長・桜井誠(38歳・ペンネーム)―「地味で無口」な少年だったTの、現在の姿である。
在特会はネット上の政治サークルを出自とする右派系市民団体だ。ここ数年、急速に勢力拡大を果たし、世間の注目を集めるようになった。同会公式サイトによれば、会員数は9837人(11月15日現在)。北海道から鹿児島まで全国29支部を持ち、海外にも約250人の会員を抱える。会費を必要とせず、クリックするだけで会員資格が付与される「メール会員」がその大部分を占めるにしても、数ある保守・右翼団体のなかでも有数の規模を誇ることは間違いない。
その名称が示す通り、同会が最重要の政治課題として掲げているのは在日韓国・朝鮮人の「特権剥奪」だ。日本は長きにわたって在日の犯罪や搾取によって苦しめられてきたというのが同会の“現状認識”であり、日夜、「不逞在日との戦い」を会員に呼びかけている。
昨今では、糾弾対象はいわゆる「在日」のみならず、韓国、北朝鮮、中国といった同会いうところの「反日国家」や、それらに宥和的な民主党政権にも及び、各地で精力的な抗議活動を展開している。デモや集会では数百人規模の動員力を見せ付けることも珍しくない。
この在特会の生みの親であり、“理論的指導者”でもあるのが桜井だ。カリスマと呼ばれ、ときに「先生」と崇めたてまつられる人物である。サスペンダーに蝶ネクタイといった芸人のような出で立ちでありながら、「朝鮮人を追い出せ」といったヘイトスピーチを何のためらいもなく繰り返す。その特異なキャラクターはネットを通じて国外にも知れ渡り、最近では『ニューヨークタイムズ』など複数の海外メディアが、「外国人排斥を主張する、日本の新しいタイプの右派指導者」として彼を取り上げた。
ネットの動画サイトにアップされる桜井の映像には何万という再生回数がつき、その一挙手一投足に、いわゆる「ネット右翼」と呼ばれる者たちが「支援するぞ!」といった賛辞のメッセージを寄せる。
以前から私は在特会主催の講演会などに何度か足を運んでいるが、確かに桜井の姿には、芝居がかっているとはいえ、ある種のカリスマ性を感じたのは事実だ。蝶ネクタイ姿の桜井が登壇すると、会場からは割れるような拍手と声援が沸き起こる。饒舌で、澱みなく、緩急自在な桜井の話法は、まるで新興宗教の教祖そのものだ。脆弱な論理は力で押し切り、根拠の怪しい「事実」を平然とタレ流し、話の各所で「朝鮮人の悪行」や「シナ人の狡猾さ」を叫ぶように訴えれば、聴衆は大いに盛り上がる。本名や経歴を一切明かさず、謎のベールに包まれていることも、なおさら桜井の“神格化”に力を貸した。
しかし―。昔の級友たちが語る桜井の前身、つまりTは、饒舌どころか寡黙であり、その存在すら疑われるあやふやな印象しか残していない。外国人の排斥を主張した場面など誰の記憶にもなく、むしろ彼自身が「排斥」されていたのではないかと思わせるような人物像しか浮かび上がってこないのだ。
Tの“飛躍”はいつから始まったのか。何がそうさせたのか。
第2回
リアル社会に躍り出たネット右翼
私が桜井と初めて言葉を交わしたのは、今年9月のことだった。
その日、大分市内で在特会主催の「(公費による)朝鮮学校(授業料)無償化反対」を訴える街頭宣伝活動がおこなわれたのだ。街宣が始まる前、私は桜井に名刺を手渡し、取材したい旨を伝えた。桜井はその申し出に特段の興味を見せることもなく、「ああ、そうですか」と無愛想に短く答えただけだった。
しばらくすると桜井はマイクを手にし、買い物客でにぎわうデパート前で、声を張り上げた。
「いいですか、皆さん。朝鮮学校というのは、まともな学校じゃないんですよ。我々の同胞を何百人と拉致した国家につながっているんです。そんな学校にいま、政府は税金を投入しようとしているんですよ。冗談じゃない。こんなこと許してはならない! 何が朝鮮人の人権だ!」
路上に置かれた2台の無線式大型拡声器から、意識的に抑揚をつけた独特の「桜井節」が響き渡る。即座に「そうだあ!」と唱和するのは、同会大分支部のメンバー十数人だ。その大半が20代から30代の若者で、それぞれ在特会の幟や日の丸、「在日特権」「横田めぐみさんを返せ」などと書かれたプラカードを手にしている。
桜井は周囲の反応を見ながら、攻撃の矛先を中国にも向けた。
「いま、大分県には大勢のシナ人が入り込んでいるんです。特に、お隣の別府! シナ人が入り込み、土地を買い漁っているんです。他人の財産を侵しても、屁とも思わないのがシナ人。恐ろしい連中だ。こんな状態を大分の皆さんは黙って見ているのか!」
ご当地ネタを織り込みながら、ときおり聴衆をも挑発する。これも桜井にとっては手馴れた話法である。人だかりができるというほどでもない。通行人の多くは「朝鮮人!」だの「シナ人!」といった言葉に一瞬ぎょっとした表情を浮かべ、あとはなにごとも聞かなかったような素振りで足早に通り過ぎるだけだ。
桜井にとっては、年寄りばかりが目立つ、地方都市での反応などどうでもよいのだろう。重要なのは、この「桜井節」が、リアルタイムでネット中継されていることなのである。後に詳述するが、若者たちが在特会へ入会するきっかけとなるのは、ネット上で「桜井動画」とも呼ばれる、これらの映像を観たからというケースが圧倒的に多いのだ。つまり桜井の視線の先には、振り上げる拳の向こう側には、パソコンに向かって快哉を叫ぶ多くの若者の姿がある。
初めて間近で目にした桜井は、前にせり出した腹を除けば、ぷっくりと膨らんだ頬も、短い手足も、実年齢を下回る印象を私に与えた。しかも、けっこう童顔なのである。だが、サスペンダーに蝶ネクタイという出で立ちのせいか、妙なアンバランスさを醸し出している。それは単なる演出というよりも、本来の自分を隠すための痛々しい変装にしか私には見えなかった。
そんな桜井をカリスマとして仰ぐのは、主に若者たちである。
ネットの掲示板やブログを通じて「愛国」と「反朝鮮」「反シナ(中国)」「反サヨク」を呼びかける者たちは、一般的に「ネット右翼」と呼称される。朝から晩までパソコンや携帯にかじりつき、「朝鮮人は死ね」だの「ブサヨク!」だのと必死に書き込む者たちの存在は、ネットが一般化した90年代後半以降、急速に目立つようになった。当初こそこの「ネット右翼」は、いわば変形型の「オタク」に位置づけられていた。匿名性を盾に差別的な言辞を繰り返す様から、攻撃的引きこもりと揶揄されることもある。
一方、今世紀に入った頃から、そうした「ネット右翼」のなかにも、キーボードを連打するだけでは飽き足らず、リアルな「連帯と団結」を目指す動きが活発化した。あくまでもネットを利用して情報収集、交流、呼びかけをおこないながら、「戦いの場」を街頭にも広げたのだ。
通常、彼らのほとんどは「右翼」と呼ばれることを極端に嫌う。実際、既存の右翼団体のように真っ黒い街宣車を連ねて街中を流したり、揃いの特攻服に身を固めるわけでもない。多くは街の風景に違和感を与えない程度のおとなしめファッション、つまりは何の工夫もない普段着姿でデモに参加する。早い話が日の丸を赤旗に持ち替えれば、即座に労組のデモ隊にも見えてしまうであろうありきたりな外見が特徴である。しかも彼ら彼女らは、あくまでも自分たちが「一般市民」であることを強調し、既存の右翼団体を「国家を貶める集団」「ヤクザの手先」などと罵る者さえ珍しくない。既存の右翼団体と一線を画すために、昨今は自らを「行動する保守」と称するようにもなった。
しかし「行動する保守」の運動スタイルは、バリバリの街宣右翼をして「下品」「品格がない」と言わしめるほど、過去に例のない奇妙な「過激さ」を“売り”としている。
前述したような「ゴキブリ朝鮮人」の連呼などはその典型で、国家的な主題を掲げながらも、ターゲットは常に「在日」や「シナ人」に向かう。ひとりでも身体を張って抗議の先頭に立つ、といった“国士的”発想はさらさらなく、常に集団で行動し、ハンドルネームで呼び合ったり、やたら動画や写真撮影にこだわるなど、運動の成果をネットに結びつける傾向がことさら強い。
また、一般的な右翼から連想されるコワモテは少ないぶん、世間の反応や警察権力に対する経験も免疫も不足しているので、何かあれば簡単に暴走するといった特徴を持つ。
たとえばデモの最中に沿道から批判の声が飛ぶと、「こら、朝鮮人!」「それともシナ人か?」「朝鮮人が妨害してるぞ!」などと口々に叫びながら集団で詰め寄ったりする姿は、もはやおなじみである。私も何度となく目にしてきた。よく見れば、まともにケンカもしたことのないような連中が、数の力で批判者を取り囲み、罵声を浴びせたり、小突いたりと、リンチまがいの行動に出たりするわけだが、いかんせん一人ひとりの「ひ弱さ」は隠すことができず、なにやら子どもの押しくらまんじゅうに見えなくもない。しかしその集団的狂気は、ときに女性や老人に向けられることもある。それだけをもってしても、既存右翼団体との違いは明らかだ。そしてデモを終えて帰宅すれば、自身のブログに「今日、不逞朝鮮人を退治しました」といった文言を嬉々として書き連ねるのである。
先鋭的な民族派組織として知られる統一戦線義勇軍の議長・針谷大輔(45歳)は、このような運動形態を「ネット言論をそのまま現実社会に移行させただけの運動だ」と批判する。
「要するにネットと現実の区別がついていないんです。すぐに暴走しやすいのは、日常生活のなかで物理的な衝突も経験していないのに、ネットの感覚で対処しようとするからですよ。あの人たちにとってみれば、ネットも現実も“地続き”なんです」(針谷)
キーボードを連打するだけで「相手を打ち負かした」と思い込む感覚を、そのまま路上に持ち込むのだ。針谷の言う「地続き」な関係によって、集団リンチも、ブログの「炎上」と同じ意味しか持たなくなる。
統一戦線義勇軍で情宣局長を務め、07年に防衛省内に侵入し、火炎瓶を投げて逮捕されたこともある山口祐二郎(25歳)も「国家を批判するならともかく、人間をゴキブリ呼ばわりするような運動など、それこそクズだと思う」と吐き捨てるように言った。
「もしも、その程度の運動で日本が良くなるというのであれば、僕にはそんなカッコ悪い日本なんて必要ありません」(山口)
しかしこうした言葉は、ネットを出自とする「行動する保守」の面々には何の影響も与えない。そればかりか「既存右翼が、これまで何か世の中を変えることができたのか」といった文言が、ネット上にはあふれている。
第3回
「在日特権」とは何か
その「行動する保守」の“最大手”が、桜井率いる在特会だ。同会が設立されたのは07年。
「もともとは『2ちゃんねる』などのネット掲示板で、保守的な意識をもって“活動”してきた人たちが集まってできた組織なのです」
そう話すのは同会広報局長の米田隆司(48歳)だ。私は10月半ばに、同会本部のある東京・秋葉原の雑居ビルで米田を取材した。いまは私に「在特会への出入り禁止」を通告しているが、その頃の米田は、クッキーを手土産に部屋を訪ねた私に対し、終始人懐っこい笑顔で接してくれた。
6畳一間ほどの質素な事務所である。すでに夜の10時を過ぎていた。米田は「会社の仕事を終えて急いで来た」と話しながら、額にうっすらと浮かぶ汗を拭った。仕事で疲れているだろうに、無理して取材に応じてくれた米田に、私はいまでも感謝している。
「ウチは専従なんていませんからね、取材を受けるのも、活動するのも、みんな仕事の合間を縫って、やりくりしてるんです。日当を払ってデモ要員をかき集める労組のような左翼団体とは、そのへんが大きく違うんですよ」
手弁当の活動こそ強いのだと、米田は何度か強調した。「嫌韓(朝)」「反中」といった点については、ある意味、米田は筋金入りだ。
「韓国料理の店には絶対に行きません。中華料理も、シナ人の店員がいない店を選びます」
その後、話はネット上の“有志”による「在特会設立」の経緯へと移った。
「中心となって動いたのが現会長の桜井です。彼はその前から東亜細亜問題研究会という勉強会を主宰し、やはりネット上で活躍していました。それまで日本の近現代史の主流であった“自虐史観”“謝罪史観”といった考え方に異を唱え、歴史の真実について研究を重ねていたんです」
歴史教科書に記された従軍慰安婦の「悲惨な境遇」など、まったくのデタラメであること。「南京大虐殺」など、虚構そのものであること。さらに、「虐げられた存在」として語られる在日韓国・朝鮮人は、実は弱者を装った特権人種であること―これら「歴史の真実」を桜井は訴え、保守系ネットユーザーを糾合していく。
その桜井を中心に創設されたのが、在特会であった。発足当時の会員数は約500人。07年1月におこなわれた設立集会には100人ほどが参加したという。
しかし当初から現在のような「デモ・集会」を中心とする路線を取っていたわけではない。「当初はどちらかといえば、勉強会みたいな雰囲気だった」と米田も指摘する。その穏健路線を一変する出来事が、その年の夏に起きた。
「行動する保守」の先駆者ともいえる西村修平(61歳)との出会いである。西村は「主権回復を目指す会」という右派系団体のリーダーで、長きにわたりチベット解放、反中国といった保守運動に関わってきた。私は在日中国人関連の取材で、何度か西村とは会ったことがある。本人は肯定も否定もしないが、学生時代は毛沢東主義を掲げる左翼運動団体にも出入りしていたと噂されている。実際、西村の事務所の書棚には毛沢東の著作が並び、それも相当に読み込んだ形跡があった。文学やクラシック音楽にも通暁し、普段は物静かな雰囲気を漂わせている。しかしひとたびデモの現場に立つと、これがまた凄まじく強烈なアジテーターに変わる。
「桜井はその西村と出会ったことで豹変するんです」とは、ある在特会関係者の言葉である。
「要するに西村から“街宣テクニック”を学び取ったのですよ」(同)
その頃の貴重な動画が、まだネット上に残されている。「河野談話の白紙撤回を求める署名運動」と題された動画だ。これは1993年に従軍慰安婦への謝罪を表明した当時の河野洋平官房長官の「談話」に対する抗議活動の一環として07年7月8日に東京・銀座で実施されたものだ。このなかに、署名活動を中止しろと迫る警察官に対し西村が猛然と抗議するシーンがあるが、そこには、まだサスペンダーも蝶ネクタイもない桜井の姿が映り込んでいる。いまであれば「キミたちは朝鮮人の味方か!」と怒鳴りまくっているはずの桜井だが、このときの彼はまるで助手のように西村のそばへ張り付き、注意深い視線を向けている。
先の関係者は「桜井はこのときを境に、まるで西村が乗り移ったかのようなアジテーションをするようになった。おそらくは西村の“激しさ”に感化され、必死になってその話法を学んだのでしょう」と語る。
その後、桜井は日増しに西村ばりの“激しさ”を身につけていく。そして在特会もまた、桜井の変貌に合わせるかのように、勉強会から行動団体への脱皮を図っていく。
第4回
我々は一種の階級闘争を闘っているんです。
米田の話に戻ろう。私が疑問に感じてならないのが、その「在日特権」なるものである。これについて米田は次のように話す。
「外国籍を持つ外国人でありながら、なぜ在日だけは日本人と同等の権利が与えられているのでしょうか。在日だけが他の外国人よりも優遇されなくてはならない理由などないでしょう」
米田が指摘する「特権」とは、たとえば戦前・戦中から日本に居住していた在日韓国・朝鮮人とその子孫は外国籍のまま何代にもわたって日本に住むことができるという「特別永住者」資格の付与であり、あるいは通名の使用が許されていたり、外国籍であるにもかかわらず生活保護が支給され、しかも「その支給率は日本人を上回る」(米田)といったことである。
果たしてそれが本当に糾弾対象としての「特権」にあたるものなのか、私には理解しがたいのだが、米田ら在特会会員に言わせれば「特権を享受しながら、差別反対運動や戦争犯罪追及など、事実無根の反日活動をおこなっている在日が日本人の生活を脅かしている」のだという。
「要するにですね」
米田はそこで一呼吸すると、私を正面から見据えたうえで、一気呵成にまくしたてた。
「我々は一種の階級闘争を闘っているんです。いまや左翼なんて権力そのものじゃないですか。在日も労働組合も、あるいはマスコミだって同じ。みんな社会のエリートなんです。特権批判というのはエリート批判でもあるんです」
少し前まで穏やかな表情を見せていた米田は、このときだけ、顔に険しさを浮かべていた。ちらりと覗く憎悪の色は、納得できない表情のままにペンを動かす私へ向けられたものかもしれなかった。
第5回
無機質な憎悪
米田の話を聞きながら、私は前述した在特会の大分街宣を思い出していた。手馴れた感じの桜井の演説はともかく、マイクを握る会員たちの声や表情から垣間見えたのは、怒りというよりは、得体の知れぬ憎悪のようなものだった。
その日、桜井の次に演説した30代の男性は、次のように声を張り上げた。
「生活保護など、日本人にはなかなか支給されないのに在日だけは優遇されているんです。通名制度だって、在日だけに許されているんですよ。日本人になりすますことができるんです!」
50代と思しき男性も、怒気を含んだ声のアジテーションを披露した。
「これまで朝鮮人は出て行けと言える団体はなかったんですよ。なぜか? 朝鮮総連や韓国民団が怖かったんです。でも、もういい加減にしてほしいと思って立ち上がったのが、我々在特会なんです。みなさん、本当に従軍慰安婦なんて存在したんですか?(「いませ〜ん」と、合いの手)いま、この大分にも韓国人の売春婦がいっぱいいるでしょう。慰安婦なんてのは、それと同じなんですよ。そんな女性たちに、なんで謝罪や賠償をしなければならないんですか! 日本人をナメるなと言いたい!」
参加者のなかで私が最も注目したのは、ボーダーのTシャツにジーンズというラフな格好で来ていた29歳のOLである。くりくりとした二重の目には幼さが残り、「少女」と表現してもおかしくないような顔立ちである。
「みなさ〜ん、ご静聴をお願いしま〜す」と、かわいらしい声で切り出した彼女であったが、話が「在日特権」に及ぶと、声色に突然、凄みが加わった。
「お前ら在日は、差別だ人権だと騒ぐばかりで、何かあれば顔を真っ赤にして金を要求する。それが人に物を頼む態度か! 高校サッカーの全国大会に、高校でもなんでもない朝鮮学校が出場している。それが特権なんですよ。朝鮮学校なんて得体の知れないものに、大学の受験資格まで与えている。そのうえ授業料の無償化ですかぁ? どこまで厚かましいんですか! いままで一度でも日本人に『ありがとう』って感謝したことがあるんですか? この恩知らず! 恥知らず! 礼儀知らず!」
私は演説を終えたばかりの彼女に話しかけた。わざわざ福岡市から駆けつけたという彼女は、1年前に在特会へ入会したという。
「『嫌韓流』を読んだり、2ちゃんねるで情報を集めていくなかで、在日特権の存在を知ったんです。外国人として日本に住んでいながら、反日ばかりを訴える在日に、ものすごく腹が立ちました。それに、私の住んでいる福岡でも、最近はハングルや中国語で書かれた標識や看板が増えてきたんです。なんだか街が汚されていくようで悲しいんです」
まるで故郷が外国の軍隊から侵略を受けたかのような、それこそ「悲しい」表情を浮かべながら、彼女はそう訴えた。
彼女が在特会に入る直接のきっかけとなったのは、動画投稿サイト「YouTube」にアップされた一本の動画だったという。
「在特会によるカルデロン一家への抗議デモ。この様子を映した動画を目にして、日本に居座る外国人に対して、強い憤りを覚えたんです。同時に、堂々と声を上げて抗議デモする在特会の姿に共感を覚えました」
これは09年4月におこなわれた、いわゆる「カルデロン一家追放デモ」と呼ばれるものだ。
その頃、不法滞在を理由に入国管理局から強制送還を迫られていたフィリピン人のカルデロン一家(当時、埼玉県蕨市在住)の問題は連日、大きく報道されていた。両親と娘から成る3人家族のカルデロン一家は、中学生の娘だけが日本生まれだったため、彼女自身は「友達と離れたくない」と、涙ながらに両親への送還処分撤回を訴えた。しかし結局、入管当局は両親だけをフィリピンへ送り返し、家族は離れて暮らすこととなった。支援団体は入管の処置を非人道的な行為であるとして強く抗議し、メディアの多くも「引き裂かれた家族の悲劇」を報じた。
ところが、問題発覚時から一貫して「強制送還支持」を訴えていたのがネット言論である。ネット掲示板には「処分は当然」「お涙頂戴の報道はやめろ」といった書き込みが殺到した。そして在特会を中心とする「行動する保守」は、カルデロン一家の居住地である埼玉県蕨市において、大々的な抗議デモを展開したのである。
約200人のデモ隊は「不法滞在者を追放せよ」「カルデロン一家を叩き出せ」といったシュプレヒコールを上げながら市内を行進した。しかもデモのコースには、当事者である娘が通う中学校前も含まれていた。いくらなんでも中学生の少女に対して「叩き出せ」はないだろうと、後に在特会がアップした動画でこのデモを知った私は、吐き気に近いものを覚えた。
だがネット言論の世界ではデモを称賛する声が相次いだ。しかもこの「追放デモ」は在特会に急成長を促す原動力ともなったのであった。
在特会広報局長の米田は言う。
「エポックと言ってもよいでしょう。このデモの動画が評判となり、会員が爆発的に増えたのです。しかもこれをきっかけに海外メディアからも注目されるようになり、ますます在特会は知名度を高めていったのです」
このように、在特会にとってデモや集会を撮影した動画は、“集客効果”を高めるための最大のツールとして機能している。実際、私が取材した在特会会員のほとんどが“入り口”として動画の存在を指摘した。
大分支部に所属する自動車整備士の男性(39歳)は、愛車である白いミニバンの中に、約100枚のDVDを積んでいた。なんとこれ、すべて在特会の動画を「焼いた(ダビングした)」ものだという。彼もまた、桜井の演説動画を目にしたことが在特会入会のきっかけとなったひとりだが、自宅のパソコンで動画を視聴するだけでは飽き足らず、車載のDVD再生機を用い、毎日の通勤時間をも動画視聴にあてている。
「動画の力はすごいと思う。ストレートに言葉が伝わってくる。僕も初めて在特会の動画に接したときは衝撃を受けましたよ。堂々と『朝鮮人は出て行け!』なんて叫ぶ人、見たことありませんでしたからね」
ちなみに、もともと朝鮮人に対する恨みや反発があったわけではないと彼は強調する。
「北朝鮮のミサイル実験や、なんといっても拉致問題。これだけはどうしても許せなかった。そうした思いをずっと抱いていたときに、ネット検索の過程で出会ったのが在特会。北朝鮮だけではなく、在日の存在も日本を危機に追いやっているのだと理解することができました」
在日の友人もいるが、「朝鮮人を叩き出せ」という主張に違和感はないと話す。
「刺激が強すぎるかもしれないけれど、その言葉によって、多くの人が在日特権について興味を持ってくれる。注目してもらえる。実際に一人残らず叩き出すことなんて不可能であることは知っていますが、せめて人々に在日特権のことを知ってもらいたい」
その日初めて街宣に参加したという農家の男性(32歳)は、「従来の保守は手ぬるい。在日問題を避けてきたとしか思えない」と話す。
「在日ほど矛盾した存在はないと思うんです。知り合いの在日は『祖国(韓国)に誇りを持っている』と言うのですが、それではなぜ日本に住んでいるのか。それは、日本で彼らが優遇されているからなんですよ。出ていけとまでは僕は言いませんが、もっと謙虚に暮らしたらいい」
それぞれが熱っぽく訴える。在日は恵まれている。普通の外国人になれ。日本に感謝しろ。
私は彼ら彼女らが口にする「在日」なる文言が、無機質な記号のようにも感じた。在日と一括りにされる人々の顔も、表情も、生活も、歴史も、風景も、そこからはまるで浮かび上がってこない。日本の危機をあらわす、あるいはすべての矛盾と問題を紐解くブラックボックスのような存在として、都合よく使われているような気がした。
第6回
大手メディアへの不信も
大分街宣を皮切りに、私はいくつかの街宣現場をまわり、できるだけ在特会会員の「生の声」に接した。差別主義者、レイシストだと毛嫌いするのは簡単だが、少なくとも在特会が社会に一定程度の影響を与えていることだけは認めなければならない。さらに認めた以上は、「知る」「伝える」ことが私の仕事でもある。
9月下旬、札幌市―。大通公園に面した路上で、在特会北海道支部による街宣がおこなわれていた。道内各地から集まった約20名の参加者が、それぞれマイクを握って「在日特権の廃止」や「中国の軍事的脅威」を訴えた。
ここでも一番に目を引いたのは、「中国の脅威」をなめらかな口調で説いていた、ひとりの女性である。高橋阿矢花(27歳)。最近、勤めていた企業を退職し、現在は求職活動中だという。大きめのイヤリングと、膝上丈のスカートで決めた高橋は、むさくるしい男たちの中にあって、ひときわ目立つ。
「もともとは政治なんかに興味はなかったんです」と高橋は言う。イデオロギーとは無縁の「普通のOL」だった。そんな高橋の目を政治に向けさせるきっかけとなったのは、08年の国籍法改正だった。これは、外国人との間で婚姻関係のないままに出生した子どもであっても、親が認知すれば日本国籍の取得が可能となるよう、法改正されたものだ。
「直感的に何かおかしいのではと思ったんですね。国籍というものが、こんなにも簡単に付与されていいものなのかと」
ネットで調べた。そこには「改正反対」の声があふれていた。同じ意見の者が大勢存在することを「発見」し、それまで意識する機会の少なかった「国家」というものに強い関心を抱くようになる。保守系の衛星テレビ局である「チャンネル桜」の番組を視聴したり、ネットで知った在特会の動画を観る機会が増えた。
「動画を視聴しているうちに、いま日本が置かれている状況に危機感を覚えたんです。中国や韓国の言いなりになっていたら、日本が植民地化されてしまう。私も何かできることをしなければならないって」
そして気がつけば、日の丸を掲げて街頭に立つようになっていたのだという。
いま、彼女の危機感は、国家のみならず、目の前を足早に通り過ぎる人や、友人、同居する両親にも向けられている。
「無関心な人が多すぎる。必死に訴えているのに目の前を素通りされると、少しばかりイラつきます。友人や両親も、まるでダメですね。
友人に外国人参政権の問題点などを話すと、不思議な顔をされてしまうんです。『どうかしたの?』って感じで。両親にいたってはネットに書かれたことを信用しないんですよ。『チャンネル桜』の番組や、在特会のサイトなどを両親に見せてはみたのですが、まるで怪しい宗教のようなものだと決め付けられてしまいました」
ある程度予測はしていたが、私が接した在特会会員は、友人や家族には活動のことを隠していたり、または最初から理解させる努力をあきらめているケースがほとんどだった。
この運動は、あくまでもネットを媒介として進められる。けっしてリアルな人間関係から生まれたものではない。ネットという広大な空間のなかで、分断されていた個と個が結びつき、属性とはまったく関係のない者同士が団結していく。友人同士で誘い合って参加するようなケースは皆無に近いだろう。だから同じ会員であっても互いの本名や住所を知らなかったりすることが少なくないのだ。
北海道支部長を務める藤田正論(デザイン会社経営・自称30代後半)は、「だからこそネットの力は軽視できない」と話す。
「ネットがなければ、不満や危機感を持つ者たちを結びつけることはできなかった。私はそれほどネットに依存はしていませんが、それでも、学生の頃にネットという入り口が存在すれば、もっと早く運動に参加できたかもしれません」
藤田自身、ネットが普及していなかった学生時代に、「誰とも怒りを共有できない寂しさ」を感じていた。
「私は保守的な家庭で育ったので、子どもの頃から国や民族というものをずっと意識してきました。ところが北海道はかつて社会党天国とも言われたくらいにリベラルな風土です。とても自分のなかにある愛国心や天皇陛下に対する敬愛の念を、披露できる環境にはない。大学生の頃、仲の良い友人と歩いていたら、たまたま『憲法九条を守ろう』とスローガンの書かれた平和団体の宣伝カーが通り過ぎたんです。私は思わず『ひどい主張だよなあ』と漏らしてしまったのですが、隣にいる友人が、ものすごく驚いた顔をするんですね。しかも、『おまえ、戦争好きなの?』って真顔で聞いてくるのです。ああ、そういう捉え方をされるのであれば、誰とも議論できないなあと感じましたね」
以来、大学でも、社会人になってからも、政治的な話題について自分から持ち出すことは避けてきたという。
「酒の力を借りて、居酒屋のマスター相手につぶやいてみるくらいでしたよ。ですからネットを通じて自由に発言することが可能で、しかも同じ問題意識を持った仲間を見つけることができるいまは、ものすごく幸せだと思います」
過去の自分が抱いた苦悩を隠すことなく聞かせてくれた藤田は、街宣時の激しさとは対照的に、穏やかで礼儀正しい人物だった。
「どうか批判も自由に書いてください。私たちの主張を聞いてくれるだけでも嬉しく思います。ただし、デタラメを書かれたら、私はしっかり抗議します」
別れ際、藤田はそう言って深く頭を下げた。
在特会宮城支部の街宣を取材したのは10月10日のことである。
街宣前の集合場所に足を運び、参加者へ挨拶していると、そのうちの一人が、やや挑発的な言葉を私に投げかけてきた。
「マスコミなんて信用していないんですよ」
ヨットパーカにカーゴパンツの若い男だ。
「悪いですけど、講談社って小沢一郎の言い分を垂れ流しているだけですよね」
どうやら『日刊ゲンダイ』のことを言っているらしい。確かに同紙はメディアのなかでも数少ない“小沢擁護”の論陣を張っていたかもしれない。だが、そもそも同紙は講談社とは別会社であり、私自身もフリーランスなのだから講談社の「社論」(なんてものがあるのか知らないけど)とは関係ないと説明した。
それでも彼は一方的にメディアの左翼偏向についてまくしたてる。語彙は豊富だし、根性も据わっている。面白い男だなと私は思った。年齢を聞いて、ますます興味を持った。なんと14歳。中学2年生である。彼もネットを閲覧していくなかで「在日の悪行を理解」し、次いで在特会の存在を知って入会したという。
「学校ではいまだに『在日は可哀想な人たち』みたいな教え方をしてるんですよ。まったくもっておかしいですよね。そもそも在日は、日本がイヤであるならば祖国に帰ればいいのに、それをしない。矛盾もいいとこですよ。まあ、学校ではこんな話はしませんけどね。学校ってのは政治の場じゃないでしょう? そんなことくらい僕だってわかってますよ」
仲の良い友人とも政治の話はしないそうだ。
「みんな無関心ですからね。どうせ『そんなこと高校受験には関係ないだろう』って程度の反応しかありませんよ」
背伸びしたくてたまらない年代なのだろう。大人に混じり、政治を語り、日本の危機を訴える中学2年生は、生意気な口調で私に突っかかりながらも、どこか楽しげな様子であった。
第7回
若い世代を積極的に“リクルート”
この日の街宣では、ちょっとしたハプニングもあった。銀行マンでもある支部長(当時)の菊地内記(26歳)が演説していると、自転車に乗った50がらみの男性が突然に近寄って、「了見が狭いねえ」と声をかけてきたのだ。
「人間、どこの国の出身でも仲良くしなくっちゃ」「特権なんて、本当にあるのかい?」
案の定、男性は激昂した会員らにたちまち取り囲まれた。
「お前、朝鮮人か?」
「ふざけるな、日本から出て行け!」
このとき、男性に対して最も激しく怒りをぶつけていたのは徳部㐂久夫(40歳)である。ダンプの運転手をしているというタオル鉢巻姿の徳部は、見た目も勇ましい。「頭に来ることが多すぎる」と徳部は声を張り上げる。
「在日なんてね、生活保護もらって、高級車乗り回してるヤツがいるからね。直接見たことはないけど、そういう話、ごろごろしてますよ。それにね、シナ人もどんどん増えてきて、このままじゃ日本は連中に占領されちゃうよ。仕事だって、ますますシナ人に奪われていく。なのにテレビなんかは、相変わらず呑気に韓流ドラマなんか流しやがって。あれはね、電通によってつくられたブームに過ぎないんですよ。テレビなんて信用しませんね。ネットで十分です」
ネットだけで流通する話題が、自身の論理に乗り移ったかのような話である。
この日の紅一点である30代のOLも、私に対してメディアの偏向を訴えた。
「左翼のデモならば、規模が小さくとも報道するのに、私たちのような保守系団体だと、少しも報道されることがない。一切無視されてしまうんです。こうやって一般の人々は、偏向マスコミの影響を受けてしまうのでしょうね」
支部長の菊地はさすがに銀行マンらしく、物腰も柔らかく、言葉遣いもていねいだった。
「メディア批判が出るのは当然だと思います。我々は基本的に大手メディアを信用していません。スポンサーであれ、外国勢力であれ、圧力を受けたら何もできない。結局、恣意的な報道に国民は踊らされているのではないでしょうか。在日の問題だって、メディアはまったく報道してきませんでしたよね」
街宣が終わって現場を離れる際、私はもう一度、あの小生意気な中学生に声をかけた。
―将来、どんな仕事をしたいと思ってる?
少年は表情ひとつ変えずに、さらっと答えた。
「中学生ですから、先のことはわかりませんよ。ただ、公務員には絶対ならないと思いますよ。ほら、公務員になってしまったら政治活動を制約されるじゃないですか」
最後までクソ生意気ではあったが、けっしてイヤな気持ちにはならなかった。
彼に限らず、私は何度か在特会関連の集会やデモで、高校生などの未成年者を見かけたことがある。いずれも真面目そうで、頭の回転も速く、ただし「友人や親には(活動のことは)言えない」と話していた。
在特会の側も、そうした若い世代を積極的に“リクルート”するかのような動きを見せている。たとえば9月には佐賀と東京で、それぞれ未成年者のみを対象とした桜井の講演会を開いている。これは完全にクローズドの催しで、事前に予約しなければ参加が許されないものだったが、この集会へ参加したある少年から、私は話を聞くことができた。彼によると「まるで日本史の授業のような歴史話が延々と続き、瑞穂の国がどうしたこうしたとか、とても退屈で、眠たくなるのをこらえるのに精一杯だった」という。相手が未成年者ということで、桜井も得意のヘイトスピーチは遠慮したのだろう。
第8回
逮捕された者たちの主張
排外主義的な言動を「売り」とする在特会だが、度が過ぎれば警察の介入を招くこともある。なかでも昨年来、在特会が京都と徳島で起こした二つの事件は、述べ十数人の逮捕者を出し、世間に大きな衝撃を与えた。
最初の事件が起きたのは昨年の12月4日午後である。京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)に在特会のメンバーら十数名が押しかけ、校門前で突然騒ぎ出したのだ。
第一初級学校の向かい側には、勧進橋児童公園という公共の公園がある。在特会メンバーらは、「朝鮮学校が50年ものあいだ勧進橋児童公園を不法占拠している」として、突発的な街宣活動を始めたのであった。
実際、運動場を持たない同学校が創立以来、公園を運動場代わりに使用してきたのは事実である。だが、「京都市当局や周辺住民との間で、ずっと公園使用についての協議を進めてきた」というのが学校側の言い分だ。
しかし、在特会はこれを「不法占拠」「日本人の土地が奪われている」として、直接行動という強硬手段に出たのであった。
学校が公園内に設置していたスピーカーの電源コードを切断し、体育の授業に使用していたサッカーゴールや朝礼台を「返す」として、初級学校の校門前まで移動させた。そして授業中にもかかわらず拡声器を使い、その後1時間にわたって朝鮮学校および在日朝鮮人を非難する過激な抗議活動を繰り広げたのだ。
「朝鮮学校、こんなもんは、ぶっ壊せ!」
「日本に住まわせてやってんねや。おまえら端っこのほう歩いとったらええんや」
「(朝鮮人が)日本の女の人をレイプして奪ったのがこの土地や!」
「キムチ臭いでえ!」
同校の教師らが「子どもがいるから静かにしろ」と注意しても、「なにが子どもや。スパイの子やんけ」とやり返すばかりである。
龍谷大学法科大学院教授の金尚均は、学校側から連絡を受け、研究室を飛び出して現場へ向かった。3人の子どもが同校に通っているのだ。子どもを守らなければ、という思いで駆けつけてみれば、校門前では男たちが「朝鮮人はウンコ食っとけ」などと怒鳴っている最中だった。
「実は、なんとか彼らを説得できないものかとも考えていたんです。議論すればわかってもらえるかもしれないと。ところが、ウンコだ、キムチ臭いだと、そんな言葉をぶつけられたらとても議論になどならない。正直、戸惑ってしまいました。罵声を聞きながら、なんとなくわかったんですよね。彼らはけっして公園問題に怒っているわけではないと。公園問題を口実に、朝鮮人そのものを差別したかったのでしょう」(金氏)
校内では罵声に脅えて泣き出す子どももいたという。学校側は即座に主要メンバーらを威力業務妨害等の罪で刑事告訴した。
これまで「在特会には甘い」と言われてきた警察も、さすがに動かざるを得なかった。今年8月、右の容疑で西村斉、川東大了、荒巻靖彦、中谷辰一郎の4人が京都府警に逮捕されたのである。
事件はこれだけではない。
前出のメンバーを含む在特会会員らは、4月に徳島県教職員組合(徳島市)の事務所に乱入、日本教職員組合が主体となって集めた募金が朝鮮学校へ「献金」されたとして、事務職員らにやはり罵詈雑言を浴びせたのである。
「お前らは国賊だ!」「ネコババ日教組!」と室内にもかかわらず拡声器で叫び、書棚の本をいじったり、電話していた職員の手から受話器を奪ったりと、やりたい放題の乱暴狼藉をはたらいた。当然これも刑事告訴され、9月に7名が威力業務妨害等の容疑で逮捕された。
私は、この二つの事件の主犯格である4人をそれぞれの自宅に訪ねた。大阪市内でバーを経営する荒巻靖彦は、「いまでも間違ったことをしたとは思っていない」と話した。
「むしろ、やってよかったと思っています。僕らのやり方には批判も多いと思いますが、それでも僕らが行動したことで、朝鮮学校の不法行為を世間に周知することはできたと思うんです。徳島の問題も同様です。募金で集めた金を朝鮮学校へ流すことの是非は議論されてもいい」
中谷辰一郎(京都事件のみ参加)は逮捕後、勤務していた会社を退職し、いまは自宅で次の仕事に備えているという。私が訪ねると、きちんと正座し、穏やかな口調で応対した。
「反省すべき点はあったと思います。僕らがやろうとしたのは、あくまでも問題提起でした。しかし、法に触れたというのであれば、法治国家の国民として謝りたいと思っています」
意気軒昂な荒巻とは対照的に、中谷は「運動に復帰するかどうかはわからない」と漏らした。
「いま、色々と考えているところなんです。どんな運動であれば、人々の理解を得ることができるのか。少なくとも、暴走族にも間違えられてしまうような運動とは距離を置くと思います」
川東大了は実家の電気工事業を手伝っていた。
「保釈中だから事件についてはお話しできない」と、ていねいな口調で答えたが、私が「あの乱暴な振る舞いは動画で観ていても不愉快だった」と伝えると、少しばかりむっとした表情を見せ、このときばかりは「それはもう、人それぞれですから」と、ぞんざいな口調で返した。
一方、西村斉だけは「直接取材にはお答えできない」と連絡があり、いまの心境についてメールで回答してきた。以下、西村から届いたメール文面の一部である。
〈主張の正当性に揺らぎはありません。問題提起を主に狙っており、狼煙を上げる為にある程度の覚悟で行っているので反省点もありません朝鮮総連も似非同和団体も行政に多数で押しかけ、恫喝し、脅し言い分を呑ましてきたのが現状です〉(原文ママ)
彼らの主張が裁判で受け入れられるとは到底思えない。厳しい判決を予測する向きもある。
その反面、在特会の活動は従来の「過激路線」をいまだ維持したままだ。逮捕者が出たことによって少しは穏健路線に戻るかという見方もあったようだが、少なくとも私の目には以前と何も変わってはいない。むしろ開き直ったかのような暴走ぶりも、目立つようになっている。
火をつけたのは「尖閣問題」だ。在特会など「行動する保守」は連日、これに抗議する街宣を展開中である。街頭で「シナ人は人殺し」などと叫びながら、たまたま目の前を通り過ぎた無関係な中国人に対して「日本から出て行け」と怒鳴りつける。そんな光景も珍しくない。
私が会った在特会など「行動する保守」の面々は、一対一で向き合ってみれば、きわめて普通の人ばかりだった。日常生活においてはおそらく声を荒らげてケンカする機会もなさそうな、おとなしそうな人々ばかりである。
「だからこそ、暴走するんですよ」
そう私に打ち明けたのは、かつて桜井と親しかった時期もあり、いまは活動から離れた元在特会関係者だ。
「みんなで日の丸を持つと、自分が強い人間になったように錯覚してしまうんですよね。自分を国家そのものに重ねてしまう。だから気分も高揚する。つまりね、日本人という属性をはずせば、それ以外に自分を奮い立たせる機会を持たないからなんですよ。僕が見てきた在特会というのは、そんな人ばかりの集まりでしたね」
こうした内実に嫌気が差して、活動を離れる者も少なくないという。
それでは今後、在特会はどこへ向かおうとしているのか。ここはやはり、会長である桜井に直接尋ねてみたいと私は思った。
ところが肝心の桜井は10月以降、なぜかメディア対応をすべて広報に任せ、自身は「会長職に専念する」と言い出したのだ。
私には桜井に聞かなければならないことが、まだ他にも残っている。
いったい、あなたはなぜ、なにをきっかけに、そしていつ、「無口でおとなしいT」から「カリスマ」へと変わったのか―。
第9回
脅えるカリスマ
「桜井誠の前身」であるTが通っていた高校からさほど遠くない場所に、かつての実家があった。近所で聞き込みを続けても、旧友たちの口から漏れた人物像以上の話は出てこない。唯一、T家とわずかに交流を持っていたという主婦だけが、Tの記憶を無理やりに搾り出してくれた。
「お母さんとの間では、いろいろと問題があったみたい。衝突して彼が家を飛び出したこともあったわね。高校卒業後は進学することもなく、地元でアルバイトしていたと思いますよ。その後、彼だけ東京へ移りましたが、警備員をやっていると聞いたことがあります」
実家は、すでに人手に渡っていた。この土地に係累は残っていない。Tに父親はなく、地元でスナックを経営していた母親は10年ほど前に亡くなっていた。Tが東京に出てからしばらくは彼の弟夫婦が住んでいたというが、現在は県内の別の場所へ転居している。
実家のある地域は、九州でも有数の在日韓国・朝鮮人集住地区に隣接していた。地元の人によると、この近くには1950年代まで「朝鮮部落」と呼ばれるバラック小屋の並ぶ一帯があったという。その後、公営住宅の建設によって街路は整備され「混住化」も進んだが、現在でも在日の人々が多く住む場所として知られている。九州にただひとつの朝鮮学校も至近距離だ。
「朝鮮人を叩き出せ!」「ゴキブリ!」と鬼のような形相で叫ぶ「桜井誠」を“つくり上げた”のも、あるいはこうした環境と無関係ではないだろう。
「あの子、どうして、こんな風になっちゃったんやろねえ」
北九州市内の寂れた飲み屋街。10人も入れば満席となるような小さなスナックで、この店のママはグラス片手に深いため息を漏らした。
ママは独立する前、Tの母親が経営する店で働いていた。Tに関する証言を求めて走り回るなか、最後にたどり着いたのがこの女性だった。彼女には私が知っている限りのTの姿を話した。
「朝鮮人と戦って、世の中の何が変わるっちゅうのかねえ。おかしな子やなあ」
カウンターで頬杖をつきながら、ママは何度も「おかしいねえ」と呟いた。
彼女によると、Tの母親は「家族思いで働き者の女性」だったという。
「商売上手だったわ。お店には筋の良いお客さんがいっぱいついていた。あの人、日舞もできるし、ゴルフも上手やったし。大昔、結婚してたけど、いろいろあって別れて、それ以来、女手一つで2人の子どもを育てたんだからねえ。立派なもんよ」
10年ほど前に店の中で突然倒れ、運び込まれた病院で亡くなった。
「過労だったのかもしれませんね。手抜きしないで働く人やったから」
その母親が亡くなる直前まで頭を悩ませていたのが、他ならぬTのことだったという。
「よく嘆いていたんですよ。ウチの子、だんだんと別れた夫に似てきたって。何があったのか知らないけれど、しょっちゅう衝突していたみたい。何度も家出するものだから、そのたびに探しにいくのが大変だって話していたわね」
何の特徴も掴むことのできないTの人物評にあって、どこに行っても一度は耳にするのが、この「家出話」である。
Tは、どこに行きたかったのか。何から逃れようとしたのか。何を目指していたのか。
第10回
私はこの男に失望した。
地元を離れてから10年以上の歳月を経て、彼は「桜井誠」として生まれ変わる。
私は東京の下町にある桜井のアパートへ何度も通ったが、いつ訪ねても彼の姿はない。しかたなく、11月7日に名古屋で開催された桜井の講演会に足を運ぶことにした。
講演会場へ早めに到着し、パソコンをいじっていた桜井に私は挨拶した。ところが、桜井は私の顔を見るなり激昂したのである。
「あなたねえ、私の親族まで取材したでしょう。あなたの取材は受けない。出ていってくれ」
何を話しかけても桜井は応えない。私は気になってしかたのなかった桜井の「本業」についてだけ、早口で質問した。
―『ニューヨークタイムズ』の取材では、桜井さんは自身の本業を「税理士」だと答えていますね。それは本当ですか?
桜井は「そんなこと答えた覚えはない」とだけ吐き捨てるように返答した。そして私と目を合わせることもなく、そばにいた若い会員たちに「これ、叩き出して!」と命じたのだった。
桜井の命令は絶対である。会員たちは自らの身体をぐいぐいと私に押し付け、私を無理やり部屋から排除した。そして、その後、おこなわれた講演において、桜井は「私は安田という男に殺されるかもしれない。しかし、私が死んでも後に続く者が必ず出るはずだ!」と語った。
大げさな男である。
椅子に座ったまま、「叩き出して!」と年下の会員たちに命じた桜井を見た瞬間、私はこの男に失望した。日頃から「立ち上がれ」「覚悟を持て」と会員たちをけしかけている桜井自身は、なぜ自らの手で私を排除しなかったのか。
私は在特会の会員たちを取材しながら、彼ら彼女らの唱える主張の大部分に賛同はできなかった。なにがあろうと排除の論理は息苦しい。在日は生活保護が優先的に支給されるとか、在日は優遇されているとか、本気で考えているとすれば、どうかしている。1万人近くも会員がいながら、一人として厚生労働省などで確認作業する者はいないのか。特別永住者資格にせよ、それが本当に特権と呼べるものなのか。
そもそも在日の存在が、日常生活のなかで、我々にどんな脅威を与えているというのだろう。どんな権力を持っているというのだろう。
そんな疑問を持ちつつ、それでも私には、会員一人ひとりの苛立ちだけは切実に伝わってきた。それは在日や「シナ人」によってもたらされるものではなく、社会の中で器用にふるまうことのできない自分に対する苛立ちではないかと、あらためて会員たちに問うてみたい。
ある女性会員に、在特会に入ってよかったことは何かと訊ねたら、次のように答えた。
「いま、楽しくてしかたないんです。やっと本当の仲間ができたような気がするんです」
おそらくは人生の中で初めて手に入れた「連帯と団結」であろう。
友人もなく、いつもひとりでいるしかなかった桜井が欲しかったのも、実は、この「連帯と団結」ではなかったか。桜井がどんなに激しい物言いをしても、私の網膜に焼き付いているのは、寂しそうに微笑む「T」の姿だけである。
(文中敬称略)
了
安田浩一
Koichi Yasuda
ジャーナリスト
1964年静岡県生まれ。週刊誌、月刊誌記者などを経て2001年よりフリーに。事件、労働問題などを中心に取材・執筆活動を続けている。著書に『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)、『外国人研修生殺人事件』(七つ森書館)ほか。Twitter ID: @yasudakoichi
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