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【松本浩史の政界走り書き】首相は「中庸」の意味をはき違えていないか
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110918/plc11091818000006-n1.htm
2011.9.18 18:00 産経新聞
「結局、大事なのは『中庸』なのです(略)。それは、徹底的な現実主義の道でもあります」
野田佳彦首相が先の民主党代表選に出馬するに当たり、月刊誌「文藝春秋」に寄せた「わが政権構想」の一説である。このほか、経済対策、財政運営、外交問題など万般にわたり、己の信ずるところを述べているが、いずれも、「ねじれ国会」下では、野党の協力がなければ実現はままならない。それかあらぬかことさらに、与野党で話し合い、「新しい日本」を作り出すべきだとも唱えているのである。
さて、「中庸」という言葉である。言うまでもなく、儒教の中心的概念であり、論語にある「中庸の徳たるや、それ至れるかな」とあるのが初出とされている。その言葉が意味するところについて、「落とし所は足して2で割った辺りで」「相反するものとものとの真ん中を進む」といった、どちらかといえば、後ろ向きの政治理念のようにとらえられがちだ。
しかし、ものの本によれば、この考え方ではまったくもって理解していないことになるらしい。「中庸」には、相反するもの同士を「足して2で割る」手法でも何でもいいが、引き寄せた後、さらに一歩進めて高みを目指す含意があるそうだ。
首相は「徹底的な現実主義の道」だと位置づけているようだが、現実に偏り、味わいのない政治を繰り広げても仕方あるまい。むしろ、理想を忘れず、現実をにらみながら、よりよき次の舞台に達する実践哲学であると見た方がいい。
とすれば、就任後の首相の振る舞いに思いを致すとき、このままでは、「中庸」の精神を発揮するどころか、「顔の見えない宰相」という批判を招くこと請け合いである。
案に違わず、首相の所信表明演説に対する各党の代表質問では、こうした懸念が図らずも現実のものとなった。鉢呂吉雄前経済産業相の辞任問題ではひたすら陳謝するしかなく、2009衆院選マニフェスト(政権公約)の見直し、自身の外国人からの献金問題、社会保障と税の一体改革など、通り一遍の答弁に終始した。
「閣議決定した文書を読まなければいけないので、多少、窮屈な、自分らしさが出ていないところがあったかもしれない」
首相は14日の党両院議員総会で、所信表明演説について反省の弁を述べた。それなのに、その後開かれた本会議でのやり取りでは、輪をかけて「自分らしさ」が出ていないのだから、嘆かわしいのである。
「ねじれ国会」下では、これからの政権運営はどう転ぶのか見当もつかない。是が非でも野党の協力を引き出すためには、低姿勢の答弁を繰り返し歩み寄ってくれるのを期待するしかない−。これが首相の現実主義だとすれば、もはや首相の権威は地におち、政権運営がほどなく行き詰まるのは自明である。
あろうことか、鉢呂氏のみならず、他の閣僚にも、時局困難極まる折節に、国政に携わる自覚のかけらもないからやっかいなのである。
一川保夫防衛相による「安全保障は素人」という暴言、閣僚に就任した高揚感からか、唐突に打ち上げた小宮山洋子厚生労働相のたばこ税を増税するとの放言…。ことのほか、平野博文国対委員長の「(内閣の)態勢が不十分」だとして、今国会の会期幅を4日間でごり押ししようとしたのには、開いた口がふさがらない。のっけから、野田政権の生命線である野党との協力態勢構築に暗雲が立ちこめるさまを呈している。
小利口だから言葉巧みに野党の追及は難なくかわせるし、小才もきくのでその場を無難に取り繕うまねもお手の物。へ理屈をこねて正当化しようとする小ずるさも備え持っていて、少々のことでは非を認めない。いや、認めたくない。首相を支える政治家は、いずれもそんな輩ばかりである。「適材適所」とは聞いてあきれる
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