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投稿者msehi
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新自由主義推進路線を採る朝日新聞は、2011年元旦付け8回シリーズで「教育あしたへ」を連載した。
今やそれは、新自由主義が日本の明日の教育をどのように導こうとしているかを探る資料でもある。
しかし日本の教育は、既に新自由主義教育によって完全に支配されていることから、連載は新鮮さを欠き、ひたすら産業に奉仕する教育、新自由主義に順応する教育を求めていた。
特に印象的であったのは、生活保護を余儀なくされた19歳の父親と20歳の母親が取り上げられ、生活保護の若者を生みだす社会や教育に目を向けることなく、この夫婦が授かった新しい命を守ることが、「教育の出発点だ」と述べていたことだ。
しかも資料では、教育などを受けていない人たちのために国の負担は、約1兆530億円の社会保障費などが必要であると述べていた。
それは、教育がお金を稼ぐ道具であり、生活保護をなくす手段であることを強調するかのように思えた。
戦後の社会に理想を求めた教育が、ここまでお金に隷属させられてしまったのだろうか。
私自身、戦後教育に理想を求めた教育基本法が施行された1947年に生まれ、国家が教育のために奉仕することを求めた教育基本法のもとで教育を受けてきた。
戦後のベビーブームであったことから、小学校の校舎が不足し、1年生は2部授業で午後から登校する有様で大変であった。
しかし今から思えば、教師は二度と戦争という悲劇と過ちを繰り返さないため、全身全霊で新しい民主教育に取り組んでいたことから、活気に満ちていた。
2年生から2部授業が解消されると、教師は生徒と給食をともにして、食事の時さえ自らの戦争体験や民主教育の理想を一生懸命話していた。
今振り返れば教師たちは、教育基本法の前文にある「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」という教育理念を、各自の創意工夫で実現しようとしていた。
何故なら、当時の教師が自らの戦争体験を話す真剣さが、今も私の記憶に焼き付いているからだ。
しかし1950年の朝鮮戦争によって、アメリカが日本の平和を希求する民主化政策から共産国に対する防波堤を求める政策に大転換すると、教育においても大きな転換があった。
例えば1949年の文部省方針では、民主教育の理想が強く打ち出されており、高校の入学選抜試験を以下のように否定していた。
「新制高等学校では、入学選抜は、それ自体望ましいものであるという考えを、いつまでも持っていてはならない。ーーー選抜しなければならない場合も、これはそれ自体として望ましいことではなく、やむを得ない害悪であって、経済が復興して、新制高等学校で学びたい者に適当な施設を用意することができるようになれば、直ちになくすべきものであると考えなければならない」
(文部省・新制高等学校の望ましい運営の方針・1949年)
しかし私が小学校を卒業する頃(1958年)には、教師が学校を挙げて私立中学への受験に一生懸命取り組むほどに変化していた。
すなわち朝鮮戦争によって日本の産業が蘇えると、さらなる産業発展を求めて競争原理が最優先されたからに他ならない。
教師は1956年の勤務評定の成立により管理され、生徒は61年の学力テストの全国一斉実施を皮切りに、能力主義という競争原理によって序列化され、学校間の格差も増大されていった。(堀尾輝久『教育入門』)
この時すでに、国家が教育のために奉仕する「教育基本法」の理念が失われ、実質的には教育が産業発展という国家利益のために奉仕する立場へと逆転したと言えよう。
それは60年の安保、三池闘争の終結によって労働組合が御用組合化し、大量生産による品質管理を強化する生産方式へと傾斜したことに呼応するものだった。
一方ドイツや北欧諸国では、大量生産方式による「労働の非人間化」が問われ、60年代より人間性を尊重する「労働の人間化」を求める運動が世界的に高まり、日本とは逆に民主教育が押し進められた。
もちろん日本においても、教育政策こそ大転換されたが、民主教育に取り組んだ教師や民主教育で育った多くの学生は、世界的な学生運動の波に呼応して、人間中心の社会変革を求めた。
私自身について言えば、69年は大学の封鎖の中で学生の自主管理を通して卒論実験をしていたが、将来のことを優先させていた。 もっとも鶴見俊介、矢内原伊作、山田慶児など社会変革を求める教官たちの自主講座も活発に行われ、大学の理想、そして社会の理想が求められていた。
そうした大学では、私を含めて大部分のノンポリ学生も、教育が社会に理想を求めることを当然であると思っていたし、理想が求められなくてはならないと思っていた。
しかし機動隊が大学に導入され、大学が管理されるようになると、そのような理想も徐々に失われていった。
そして理想の喪失と平行するかのように、社会全体がよりよい学歴を求める親達によって学校化されていった。
そこでは、競争教育こそが公平で民主的であると言われる程に変質していき、いじめや登校拒否も増大した。
こうしたなかで文部省が80年代から一貫して採ってきた政策は、競争原理を追求する教育改革だった。
この教育改革こそは、サッチャー政権やレーガン政権の競争原理を最優先する新自由主義に他ならない。
日本では84年の中曽根新自由主義政権の臨時教育審議会に始まり、中央教育審議会に受け継がれ、偏差値教育の解消、ゆとりある教育、学歴一辺倒社会からの転換、豊かな人間性と創造性を育む教育といったバラ色の目標が掲げられていった。
実際の処方箋は、教育の多様化、自由化、個性化であり、具体的には高校入試の偏差値による指導を廃止し内申書重視、学校週五日制の導入、中高一貫校、単位制高等学校、職業科と普通科の壁をなくした総合高校など多様な公立高校をつくることであった。
また大学に関しても設置基準の自由化に始まって、カリキュラムなどの自由化を進め、多様な新しい学部や学科が誕生させた。
しかしこうした教育改革には、自由と多様化という言葉が連発されているが、たとえば内申書重視は、クラブ活動から新聞を読むことにいたるまで点数化されることに他ならない。
そして大学は企業目的に沿って多様化されると同時に、徹底して管理され、経済のグローバル化に伴う競争原理の追及によってますます格差が増大された。
99年の小渕首相の諮問機関として発足した経済戦略会議の答申では、全面に競争原理を打ち出し、教育改革では競争原理を義務教育にまで求め、国立大学にも民営化することを求めた。
そして2004年国立大学は、独立行政法人に移行された。
独立行政法人制度とは、国の行政機関が直接担当する機能を企画立案に絞り込んで減量化をはかる一方、事務事業の実施は独立行政法人に委ね、民間企業の経営手法を採用する民営化である。
そうしたなかでは、民間企業の社長にあたる学長と取締役会にあたる理事会の権限が強化され、この理事には必ずと言っていいほど文部科学省からの天下りがなされている。
しかも大学の予算は文部科学省官僚の裁量によって決められていることから、天下り理事の権限は絶大である。
すなわち国立大学の独立法人化は、実質的に教授会や学長選考の従来の学内選挙を無力化させ、大学の中央支配を完結させたと言っても過言ではない。
実際学長選出では、新潟大学、高知大学、九州大学など多くの大学で従来の学内選挙が無視され、学長選考会議によって決定された。
また山形大学では、天下りの元文部科学省事務次官が学長に選出されている。
このように新自由主義は日本の教育を支配し、その総括として教育の理想のシンボルである「教育基本法」の解体に取り掛かった。
(第4回日本の教育後半『監視社会と克服への道』へ続く)
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