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ダイヤモンドオンライン 2011年9月14日 山崎 元
http://diamond.jp/articles/-/14014
メディアに刺された鉢呂前経産相。後任の枝野氏は適任か?
■ 鉢呂氏は「メディアに刺された」のか
野田内閣が発足して9日目に、早くも閣僚の辞任者が出た。鉢呂前経産相は、9月10日夜、福島第一原発周辺の視察の感想として述べた「死の町」、さらに、視察から戻って記者に囲まれた際に、記者を相手に「ほら、放射能つけるぞ」と衣服(防災服)を近づけたとされる言動に関して、「福島県民をはじめとする国民に、不信の念を抱かせた」との理由で引責辞任した。
鉢呂氏の言動は辞任に値するものだったのだろうか。
筆者は、「結論として、辞任は仕方がない」と思ったが、同時に釈然としない思いが確実に残った。
先ず、「死の町」については、その土地に愛着を持っている人たちに対して言葉が強すぎることと、その土地が人間の住める場所として回復できないのではないかというニュアンスを伴う点に於いて適切でなかった面がある。しかし、今回の原発災害の被害の重大性について実感を交えて表現したものとして、意を尽くして説明すれば、決して許容できないというほどのものではないだろう。
比較として乱暴かも知れないが、東日本大震災発生後に石原都知事が述べた「天罰」には、許せるような言い訳が考えられないが、鉢呂氏の「死の町」は言い訳が可能ではないか。
もちろん、政治家には個々に別々の考えがあっていいが、「天罰」の石原知事が再選に立候補し、「死の町」の鉢呂前大臣が辞任というのは、筆者にはアンバランスに思える。
これに対して、「放射能つけるぞ」という言動は、原発事故の被災地域住民に対する差別につながりかねない言動で、決して公共の場で許されるものではない。たとえば、テレビの番組であれば、ふざけてであってもやってはいけないことは理解できよう。公共の場に流れた以上、社会的な責任が生じる。その責任の取り方が、大臣辞任であると判断されたなら、それはそれで仕方がない。
ただし、釈然としない点が幾つかある。
先ず、福島県民に精神的な「被害」を与えたという意味では、鉢呂大臣の言動を大々的に伝えた記者達も加害者だ。
推察するに、記者達は、この問題が福島県民(だけとは限らないが)に与える被害よりも、鉢呂大臣が大臣に値しないと思われるくらいの見識・能力が不足した人物であることを伝えることの価値を重く見たのだ。それはそれで一つの判断だが、たとえば、その場で鉢呂氏を強くたしなめるというような行動でも良かったのではないか。
『朝日新聞』(9月13日)の後日報道によると、当日(8日、午後11時くらい)は、議員宿舎前で鉢呂氏を数人の記者が囲んで5分程度の取材があったとされるが、その時点で、記者から抗議は何もなかったし、9日朝の段階でこの件の報道はなかったという。しかし、「死の町」発言が問題になり、9日の夕方にあるメディアで「放射能つけてやる」が報じられ、その後、大きく取り上げられることになった。
当事者となった記者が普通の人なら、「大臣、私は構わないですが、これは、他の記者やカメラの前では絶対やってはいけませんよ」と忠告して、一方で、この大臣は資質に疑問があると頭にインプットして、終わり、ではないだろうか。その場で抗議も注意もせずに、時間が経ってから大問題だったと記事にするという行為は、通常の人間関係なら「卑怯」と言われかねず、他社の記者も含めて心情的に抵抗があろうかと推察するが、サラリーマン且つ記者というのは難儀な仕事だ。
経緯を考えると、メディアの判断・行動が鉢呂氏を辞任に追い込むに当たって大いに影響したことは否めない。
■ 辞任自体は結果として妥当
一方、鉢呂氏の側では、大臣として、記者と接触している状況は「公共の場」であるという認識が決定的に欠けていた。こうした認識、脇の甘さでは、大臣はおろか、議員も十分に務まるまい。
経産大臣としては、たとえば通商交渉に臨む外遊の際に親しい記者に外国の不用意な感想を漏らしてはいけないだろうし、議員としても、重要な法案の成立に尽力する際に、急所のタイミングで、反対陣営から失言を暴露されるようでは、有権者の代理人が務まらない。
お気の毒ではあるが、資質の点で、鉢呂氏が結果的に大臣を降りたことは良いことだ。
但し、野田首相が、事実関係を明確に説明せずに、鉢呂氏に辞表を提出させたプロセスには問題があったと思う。
少なくとも建前上は適材適所を目標にベストを尽くして任命した大臣の辞任を認めるのだから、事実関係の確認、辞任を妥当と認めた理由と判断基準について、具体的に説明すべきだった。
鉢呂氏の会見によると、野田首相は辞表を受け取る際に鉢呂氏と数十分話しているというが、この際に事実関係を確認しているものと思われるが、説明抜きの状況では、国民は、野田首相が、
(1)鉢呂氏の言動のどの部分をどんな基準で大臣不適格と判断したのかが分からないし、
(2)単に騒ぎが大きくなったから支持率や国会対策のために辞任させたのか、
というそれこそ「不信の念」を抱くことになる。後者の場合、新聞、テレビ局等のメディアが政治を大きく左右していることになり、これは、政治にとってもメディアにとっても健全なことではあるまい。
■ 囲み取材・オフレコ懇談はもういらない
今回の問題は、問題の性質を考えると、何新聞の記者に対して鉢呂氏がどう言って何をしたのかに関して、もっと具体的に伝えるべきだったと思う。朝日新聞の記事を見ると(経産相担当とみられる記者5、6人が半円形に鉢呂氏を囲み、朝日とNHKの政治記者がその後取材に加わったという)、その場に記者がいないメディアも後日報じているのではないかと思われるが、せめて、取材ソースを明確にすべきだろう。
尚、鉢呂氏の辞任会見の場では、社名も氏名も名乗らずに、一部は鉢呂氏が発言中であるにもかかわらず、これを遮って乱暴な言葉を浴びせる記者がいて(「自分でちゃんと説明しなさいよ。最後くらい」、「説明しろって言ってるんだよ」等)、別の記者にたしなめられる場面があった。近年の政治報道の現場のレベルを窺わせるものとして象徴的だった。
政治家の側でも、メディアを自分に都合よく使おうとすることがあるから両者の関係は微妙だが、要職にある政治家は、今後、囲み取材やオフレコの懇談会に応じる必要はないと筆者は考える。政治家の発言は「全て公式発言」でいい。
これは政治家の側の自主規制として、直ちにやって貰って構わない。結果として、政治家本人の発言として信頼に足る公式発言の量が増えるのではないか。政治家は「自分の発言、行動は、全てテレビカメラに写っている」と思って行動してくれればいいのだから簡単だ。
情報源も分からず、従って発言の真偽を判断する手掛かりもないような「政局記事」を読んでも、読者は得るものがないから、囲み・オフレコ廃止によって読者の側で失うものは殆ど何もない。
その代わり、記者会見は、記者クラブのメディア以外にも解放して、頻繁且つ丁寧に行うべきだ。ネットの環境を考えると、全ての公式発言を正確に報じ、かつ保存する条件は十分整っている。もちろんジャーナリストは、独自に取材を行えばいいし、その結果を発信してくれればいい。総合的に見て、国民が得られる情報の質は大幅に改善するだろう。
■ 枝野新経産相は「不適任」
鉢呂前経産相が、いわば「メディアに刺された」形で辞任に至ったことに関して、一つの大きな疑念が残った。それは、鉢呂氏が、メディアと近い何らかの勢力に嫌われてはじめから狙われていたか、あるいは、ボロを出した時に、この利害が背景となって強く攻撃されたのではないか、という可能性が否定できなかったのだ。もちろん、推測だけでこうした背景があったと断じるわけにはいかない。
但し、鉢呂氏が経産相に就任後、「原発は将来ゼロになる」と原発の縮小を急ぐ姿勢を明確にしていたことを考え、原発を推進ないしは維持することに利益のある人々の経済的利害を考えると、「鉢呂(氏)を早く降ろせ」という意志の働きと影響があった「可能性」は否定できない。
ここで、後任の経産大臣として誰を任命するかによって、こうした意図が働いていたかどうかについて、「ある程度」推測が深められるかも知れない、というわけで後任人事には大いに注目していた。
後任の経産大臣は、枝野幸男前官房長官に決まった。しかし、残念ながら、この人事が良いとは思えない。
批判の前に、長所から述べると、枝野氏は弁護士の前歴に加えて前官房長官の経験があり、発言のトレーニングが十分なので、失言を繰り返す可能性が小さいだろう。政権の安定にとっては、この程度のアドバンテージでも今は安心材料だ。事故処理への関わりによって、原発・原子力に詳しくなったであろうこともプラス材料であろうか。
しかし、震災および原発事故処理の不手際を問われて総辞職した前政権にあって枝野氏は、官房長官の要職にあって原発事故への対処に当たった。しかし、たとえば、国民への情報の発表にあたって、それが十分であったか、その不十分の故に余計な被爆や放射能被害を受けた国民が多数いたのではないか、という点について大きな疑問を持たれている。彼は菅元首相や海江田元経産相らと共に、今後は当時の行動の責任について検証を受けなければならない立場の人物だ。こうした人物が、事故処理にもエネルギー行政にも関わるというのは、健全なこととは思えない。
一般論として言うと、過去にまだ暴かれていない悪事を持つ者が、継続中の関連事案に再び関わると、暴かれていない悪事を持つ者同士で、過失を暴かれないことに関して結託する誘因が存在する可能性がある。枝野氏の場合、過去の弱みのせいで、原子力行政に歪みが生じる誘因が働く可能性があり、外から(国民から)見て、この可能性が排除しきれない立場にある、ということだ。
枝野氏が経産相に就くことにより、新内閣が前の菅内閣と変わり映えがしない印象になることも含めて、「一回休み」が妥当なところなのだ(同じことは、経済の失策に関して野田首相にもいえるが、経済政策はそれがオープンである点で枝野氏のケースよりもましだ)。
■ 枝野氏の体裁のいい二面性を危惧する
では、「脱原発」はどうなるのか。
枝野氏の経産相就任を伝える13日の新聞報道では、枝野氏について「『脱原発』官僚・業界警戒」(朝日、13日朝刊)と、枝野氏が原発および電力業界に対して強硬であるかのような報道がある。
また、将来のエネルギーについては、原発をゼロにするかという問いに「ゼロにしても大丈夫な状況にしないといけない」と答え、「できるだけスピード感を持って新エネルギー開発を進める」と述べている。
しかし、新エネルギーが十分開発されるまで原発を稼働させるということであれば、枝野大臣の在任中は現状を維持すると言葉を変えて言っているに等しい。たとえば、建設中の原発についてどう判断するのかを見てみないと、現段階で「脱原発を目指している」とは言えないだろう。
また、東京電力による原発事故の賠償に関して、枝野氏は、金融機関に応分の負担を求める意見を持っていると伝えられているが、そもそも東京電力を現状の企業体として存続させ金融機関に債権放棄をさせず、将来の電力料金に全ての負担をつけ回すことを可能にした、原子力損害賠償支援機構法案を国会で通した内閣の官房長官は枝野氏だ。枝野氏は、元弁護士として、会社更生法等による通常のフェアな破綻処理を主張しても良かったのではないか。
彼には、勇ましい改革者のポーズを取りながら、肝心のところで長いものに巻かれることで、改革すべき対象の温存に加担する「二面性」があるのではないか。お名前にちなんで言うと、枝には噛みついても、幹は動かそうとしない。これも再び「疑い」の段階だが、十分注意して今後を見たい。
枝野氏には、新大臣に就任早々ケチを付ける形になってしまったが、筆者も国民の一人として、彼が、経産相の仕事で大きな成果を上げてくれることを心から期待している。
具体的には、先ず、脱原発の手順について、会議などを作って「検討中」の形でお茶を濁すのではなく、具体的な法律に書き込んで不可逆的に定めることだ。加えて、TPPへの参加も早期に達成して欲しい。「直ちに影響の出ない」成果ではなく、現在と将来を確実に変える仕事をして、具体的な法律や条約の形で直ちに形にして欲しい。
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