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原発、消費者金融、パチンコ・・・依存者を食い物にしてきた日本の「グル」の構造
2011.09.13(火)
川井 龍介
「グル」という言葉がある。「みんなでグルになって弱いものをいじめる」といったように使われるあの“グル”である。手元の辞書によれば「悪いことをする仲間。悪だくみの相棒、一味」とある。
原子力発電所をめぐる問題をはじめ、近年のいくつかの社会問題を考えるとき、私にはこの“グル”という言葉がしばしば浮かんでくる。
いくつかの重要な問題が根本的に解決できない大きな理由として、企業や官僚、政治家、そしてマスコミなどが利害を共有しているという事実がある。この点を私は言葉は悪いが、グルだと思うのである。
このグルであることが罪深いのは、1つには言うまでもなく彼らは、社会をリードし、あるときは批判していく重要な役割を担う組織や人間だからだ。もう1つは、彼らは社会的な地位があり経済的にも安定している、いわば社会的強者だということにある。
そして、グルの構造が、結果として社会的弱者を、これも言葉はきついが、食い物にしているところがある。ノーブレスオブリージュという言葉は、身分の高いものは果たすべき社会的責任があることを意味するが、グルの構造は、この言葉とは真逆に相当する。
原発、消費者金融、パチンコの問題を提起した3冊の新書
もちろん彼らがすべてグルなどという乱暴なことを言っているのでなく、同じ政治家、同じ官僚、同じマスコミのなかでも、党派や部署などによっては1つの問題をめぐって異なる立場、利害はあるし対立する場合もある。また、意図して食い物にしようとしているのではないかもしれない。
だが、全体として見れば彼らの利害が問題解決を妨げていると言える。このことを、原発、消費者金融、パチンコという3つの問題について書かれた3冊の新書が提起している問題を参考にして考えてみたい。
まず、原発事故以後緊急出版された『東電帝国 その失敗の本質』(志村嘉一郎著、文春新書)である。かつて朝日新聞経済部にいて電力業界を担当したこともある著者が、東電を中心とする日本の電力業界が、政界、官僚、マスコミとの関係のなかで一大権力を築いていくさまを批判的な見地から明らかにする。
例えば、政治部の記者が取材先の政治家に取り込まれて政治家の道へ転身するように、企業取材をしていた記者がその業界の関連団体などに再就職していくことはよくある話だが、電力業界を取材してきた記者は、退職後に電気事業連合会や電力中央研究所、日本原子力文化振興財団など電力会社の関連団体で職を得ることがある。
さらに、在職中はもとよりかつて記者クラブに所属していた記者たちが、電力会社から接待を受けることもある。原発視察旅行などという名目の旅行にも出かけるのだ。
こうした関係のなかで健全な批判が生まれ得ないことは明らかである。批判は経済部ではなく、社会部が扱うことになっているという棲み分けもたいていの会社で、結果として行われてきたことである。
背に腹は代えられない新聞社が原発広告を解禁
記者個人と担当業界という関係で言えば、長いつき合いになれば個人的な関係も深まる。が、取材・被取材という面では緊張関係は損なわれる。
どんな業界であろうと、取材先と一定の距離を保てなければ、適正な批判ができないのは言うまでもないが、こうした構造をマスコミは黙認してきた。
広告と批判との問題もある。当初原発に批判的だった朝日新聞や毎日新聞が原発広告を解禁していくようになり、テレビ、週刊誌にも原発関係の広告が登場。これらには、年間3000億円とも言われる原発PR費が充てられていると本書にある。
原発の安全神話がおカネによって作られ、さらにそれがメディアの広告という形で宣伝されていく。電力会社は官僚の天下り先の1つだから、どうしても監督が甘くなる。
また、行政の内部にあっても本来厳正に安全規制を行うべき原子力安全・保安院が原発を推進する側である経済産業省(旧通産省)の機関であったように、取り締まる側とされる側が同じ利害を持っているのだからこれも適正な措置が取られにくい。
おカネに誘惑された地元が悪いのか?
公聴会におけるやらせ問題では、電力会社だけでなく国までもが荷担している。原発建設の是非はともかく、それを議論する過程で身分を保証されている公務員が仕事の一環で一方の側のために労力を使うのだから公正さに欠けるどころの話ではない。
そして建設の受け入れ先となる自治体や地元住民、漁協などに対しては、交付金や固定資産税など、これでもかというくらいの額のおカネで懐柔をしていく。
「おカネの力に誘惑された地元が悪い」という声もあるが、人はそれほど強くない。公共性の高い事業を国や大企業が一緒になって人の弱みにつけ込むような形で押し切るということが適正かどうか言うまでもない。
我々日本人はグーグルに対する規制や高速鉄道の事故処理方法に際して、中国が非民主的だと、半ば馬鹿にするように批判するが、進んだ民主国家から見れば原発をめぐる監視体制について日本も同様に笑われても仕方がない。
『東電帝国〜』の著者は、この安全神話をでっちあげた背景として「政・官・財はもとより、関連業界やマスコミにまで版図を拡大しつづけ、強大な電力帝国を築き上げた『驕りとプライドの高さ』があったといえよう」と、まとめている。
弱者から資産を奪い取る消費者金融
政・官・財・マスコミが一体となった構造的な弱者への圧力という点では、消費者金融業も同様だ。
改正貸金業法や改正割賦販売法によって、消費者金融をめぐる諸問題は昨今それほどメディアで取り上げられなくなったが、根本的な問題は2006年にジャーナリストの須田慎一郎氏が出版した『下流喰い』(ちくま新書)で指摘されていることと変わりない。
本書は、消費者金融というビジネスそのもののあり方が、ビジネス倫理からも社会倫理という観点からも問題ありとしてこれを「悪魔的ビジネスモデル」と断罪する。
その仕組みなど詳細は本書をぜひご覧いただければと思うが、分かりやすく言うと、これもまた人の弱みにつけ込んで、商売にしている点である。低所得者層を対象に、借金生活から抜けられないようなことを理想としてビジネスが展開されている。
利用者のうち返済不能となる人の率、つまり貸し倒れの率はあらかじめ計算して金利に上乗せされている。メーカーで言うならば不良品の率と同じだがこれが、ほかのビジネスとは比べものにならないくらい高い。つまり返済できない人がとても多いことを前提としている。
社会的弱者と長いおつき合いをしたい消費者金融
「返済できない」と、ひと言で言ったが、人が借金を返済できない場合、簡単に自己破産してしまえば済むなどという話ではない。家族を巻き込んで借金苦に悩んだり、時に自殺にまで追い込まれることがある。
また返済のために借金を繰り返すことで起きる多重債務が社会問題化されたことは誰もが知っている。こうした人々が増えれば社会が不安定化するのは言うまでもない。それが社会的なコストに跳ね返ることは容易に想像できる。
須田氏は本来の社会福祉が機能していないために、消費者金融に頼らざるを得なくなり、結局は破綻する例があることを指摘する。一方で、言うまでもなく使途目的など関係なく、遊興費でもなんでも、そして返せるあてがあろうがなかろうがカネは借りられる。
しかし、不思議なことにおカネは完全に返してもらって、それで終わりとなってはこのビジネスとしてはうまみはない。「できるだけ長くおカネを借りていただきおつき合いいただく」ことがいいのである。
考えてみれば恐ろしい仕組みであり、言葉は悪いがやくざが麻薬中毒者に麻薬を断ち切れないようにする“シャブ漬け”と変わりない。さらに言えば、原発の交付金や固定資産税をあてにして、やがて抜けられなくなる受け入れ自治体と似ている。
借りる方がバカなのか、貸す方がずるいのか
「借りる方がバカなのだ」という意見もあるだろう。しかし、バカだと分かる人間を相手におカネを稼ぐことが立派なビジネスと言えるのかどうか。
「消費者の需要があるからだ」という理屈もあるだろうが、だとすれば児童ポルノや麻薬も、解禁すればそれこそ需要はあるだろう。それをしないのは社会道徳に反するからである。
これだけの問題を抱えながらも、このビジネスはあたかもクリーンなビジネスのように、テレビをはじめメディアで宣伝される。まるで原発が安全で健全で、クリーンなようにである。
「計画的に借りましょう」は、いつまでも借金し続けて下さいということでもある。また、テレビは多重債務の問題などをニュースで取り上げる一方で、背に腹は代えられないとばかりに広告を取る。テレビ局内ではこうした矛盾を追及する動きはこれまでなかったのだろうか。
法改正によって返済能力に見合った借り入れをするようになったり、グレーゾーン金利が見直されたりと時代とともに健全化されてはいる。しかし、その一方で「借金で困った人はご相談下さい」といった、今度は法律事務所の宣伝が目につき始めた。
法律事務所までが弱者からカネを巻き上げる時代
借金苦の人の多重債務問題処理や過払い金の返還は、弁護士業務としては、難しいものではなく、ビジネスとしてはうまみのある事件である。
これをいいことに、なかには異常に高い報酬を得ている弁護士や司法書士がいることが問題になり、日弁連でも深刻に事態を受け止めていた。
ところで、消費者金融に旧大蔵省時代から多くの天下りがあったことは周知の事実である。また、メガバンクが高い収益力のある消費者金融を傘下に収めている。
須田氏が言うには、かつて銀行は住宅ローンの貸し出しに際して、「消費者金融からカネを借りているような人に住宅ローンが返済できるわけがないじゃないですか」と言っていたのが、「その舌の根も乾かぬうちに、消費者金融自体を本業収益の柱に据えた」ことになる。
旧大蔵省、そして財務省、金融庁からの金融機関への天下りもまた続いてきた。
パチンコを全廃した韓国
これらを見て分かるだろうが、社会的に立派な立場にあり権力がある組織や人たちが、構造的に見ればよってたかって、借金する人間を食い物にしているのだ。
最後にパチンコ産業について『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健著、祥伝社新書)を参考に考えてみる。
メダルチギと言われる韓国のパチンコをめぐっては、当時の盧武鉉政権を揺さぶる贈収賄事件へと発展したこともあって、依存症を増やすなど社会的にも問題であるとされてきたメダルチギは全廃となった。
これに対して依存症や借金問題へと発展している日本でのパチンコがなぜ規制されないのかという問題意識のもとに本書は書かれた。
私も20歳前後、一時パチンコ屋に足繁く通ったことがあるが、とてつもなく勝ったり負けたりすることはなく、出玉をチョコレートやタバコに換えたりと、まだ牧歌的な暇つぶしの遊技として楽しんでいた。
年金を注ぎ込んで生活苦にはまる高齢者
それがいまは、へたするとあっという間に数万円をすってしまうこともあり、おまけにおカネがなくなれば店内のATMで下ろせたり、カードで借金することも可能になっている。
動かす金額が多くなればより射幸心を煽られ、依存症に陥るのはギャンブルの常だ。若者や主婦だけでなく、最近では高齢者がパチンコに熱中し、年金を注ぎ込んで生活を圧迫させている。
60歳以上のパチンコ人口は急増しているというデータも出ている。言うまでもなくパチンコはゲームセンターとは違って賭博の1つである。賭博にはまって身を滅ぼす人はいくらでもいる。
アメリカのカジノのように特定地域に囲われているならまだいい。それでもカジノ中毒は結構いる。
十数年前に東海岸のカジノのまち、アトランティックシティーに取材に行ったとき、目のトロンとした“カジノジャンキー”に何度かカネを貸してくれないかと頼まれたことがある。
背に腹は代えられずパチンコ広告を解禁
日本では駅前といい、郊外といい、田舎では田んぼのなかといい、いたるところにパチンコはある。そこには景気とは関係ないように平日でもたくさんの人々が集まる。
ほのぼのとしたゲームのようにテレビでも消費者金融同様、いまや頻繁にパチンコのCMが流れる。新聞もパチンコの広告を掲載する。かつてはこうした広告はなかったのである。自己規制していたものが、背に腹は代えられないとばかりに解禁となったのだ。
『なぜ韓国は、〜』では、こうしたマスコミ、政界のパチンコ業界への“支援”の実態を記し、犯罪や家庭崩壊などパチンコ依存症が関係すると思われる事例を挙げている。
また、昔から言われていることだが、パチンコ業界は警察官僚の天下り先でもある。本書では、パチンコ・パチスロの遊技機の検査などを行う財団法人保安電子通信技術協会の会長は元警視総監であることなどを指摘する。
このあたりは、多くの人が知っている事実かと思うが、本書により初めて知って驚いた事実は、パチンコ産業と政治家との関係の実態である。
パチンコ産業を応援する民主党
与党民主党には、パチンコ産業を応援する「民主党娯楽産業健全育成研究会」や「民主党新時代娯楽産業健全育成プロジェクトチーム」なる組織があり、このチームの活動目的として、なんと「パチンコ店内での換金を認めることを法律上明記する」「ギャンブルではなく遊技であると明確に位置付け、依存症対策などの社会的使命を免除する」「遊技場の検査機関から警察庁の影響力を排除し、賭博性の高い機種の検定通過を容易にする」が掲げられていることが記されている。
政治ができるだけ多くの人たちの利益を守ることを使命とするなら、以上の点は一業界の利益を優先するだけでその弊害を無視しているという点で、とても政治とは言えない。
原発、消費者金融、パチンコ産業は、ともに社会的な問題をはらんでいるにもかかわらず、根本的な解決策がなかなか取られてこなかった。その理由として、政・官・財、そしてマスコミがこれらによってなんらかの利益を得てきた利害関係者であるという点が共通する。
そして非常に嫌な感じがするのは、社会的に立派な政・官・財・そしてマスコミの人たちは、原発問題に関していえば、おそらく原発立地の町で暮らすこともないし、消費者金融を頻繁に利用したりパチンコに入れ込むこともないだろうということだ。
一方、原発では建設地やその周辺という過疎地は多額のカネで動かされ、人心が惑わされる。消費者金融とパチンコでも、またカネが人を翻弄する。
公共性の認識が欠如した政・官・マスコミ
立派な人たちはどこか問題ありとしてこれらを忌避しているのに、そこから構造的に利益を得ている。それで自分のビジネスに胸を張れるのだろうか。メガバンクの役員は、自分の家族などに「消費者金融からおカネをもっと借りよう」と言えるのだろうか。
これは、自動車メーカーの役員が、自分の家族に自社の車を自信を持って勧める(とまず推測される)のとはえらい違いだ。
マスコミのなかで、これらの広告をやめることで収益が減り、給与が下がったとしても、「社会的に問題があるのだから広告はやめるべきだ」という声が出ているなどという話を残念ながら聞いたことがない。
みんな自分の身がかわいいということで、話は落ち着いてしまっては困る。少なくとも政・官・マスコミはその公共性からしてそんなことでは許されない。「財」だけは、社会性を帯びていると言ったところで所詮ビジネスである。
だから、これに適正な歯止めをかけるのがその他なのだが、それらが一体となっていては、社会的リーダーに重要な決定を託している普通の人々は救われない。
これまで原発、消費者金融、パチンコ産業そのものについても問題点を挙げたが、1つ最後に言っておきたいのは、現時点でこうした業界、分野で働く人たちはたくさんいるわけで、そうした個人が一生懸命働いていることに対してはなんら批判する意図はない。
とは言ってもだれだって自分の所属する会社や業界が問題ありと批判されたらいい気はしない。
したがってこうした個人の方々には申し訳ないのだが、社会的に問題のある業態やプロジェクト(原発建設)については、やはりそのあり方を変えてどこか別の形で軟着陸させるような方法を、それこそ、政・官・財・マスコミがまず考える責任があるのではないか。
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