http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/404.html
Tweet |
近聞遠見:「自衛官の倅」という自負=岩見隆夫
http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
毎日新聞 2011年9月10日 東京朝刊
この5年間、5人の首相が1年刻みで入れ替わり、そのたびに期待と失望の繰り返しだった。6人目の野田佳彦新首相を別格とみるほど、世間の目は甘くない。
それでも、政権発足時の支持率は例によってまずまず(毎日新聞調査56%)だ。新首相の人間的魅力がどこにあるのか、だれもが知ろうとしている。
野田に初めて会ったのは9年前の02年9月、民主党代表選の直前である。鳩山由紀夫(当時代表)、菅直人(同幹事長)、横路孝弘(現衆院議長)と、若手が担ぐ野田の4人、鳩山が3選された。
この時、同僚から、
「徳川家康か、西郷隆盛のような男だ。若手の信望が厚い」
と誘われて、雑談した。家康と隆盛は異質のキャラクターだが、共通点があるとすれば包容力、人心掌握術といったことか。なるほど、そんな風貌と雰囲気だな、しかし、映像時代には向かないのでは、と思っていたら、野田が、
「先日、テレビで突然、『自民党顔だ』と言われた時は、返事に困りましてね」
と笑ったのを覚えている。いまも菅のような野党闘士のイメージではない。むしろ、<自衛官の倅(せがれ)>が野田の人格形成の原点になっているようだ。
父・義信は1930(昭和5)年暮れ、富山市八尾(やつお)の農家で生まれた。6人兄弟の末っ子、80歳のいまも千葉県船橋市の野田家に同居、脳梗塞(こうそく)を患い車イス生活だ。
義信15歳の時、満蒙開拓義勇軍に応募する。九州まで移動したところで終戦になった。当時、約30万人の開拓団員が満州、内蒙古に送り込まれ、ソ連の参戦によって約7万人が死亡した。大陸に渡っていたら、その先はわからない。
野田は著書「民主の敵−政権交代に大義あり」(新潮新書・09年刊)のなかで、
<父はこれからお国のために挺身(ていしん)しようとしたところで終戦、何かをやり残したという感覚があったのだろう>
と書いている。義信は高校卒業後、自衛隊の前身、警察予備隊の第1期生に応募、金沢の連隊に赴任した。その後、精鋭の陸上自衛隊第1空挺(くうてい)団で名高い千葉・習志野駐屯地に長年勤務、そこで野田は生まれ、育った。
<幼いころから、若い隊員が落下傘で降りてくる姿などは日常の光景です。出番がないとはいえ、有事に備えて厳しい訓練をしている精鋭たちの姿を間近に見てきたことは、私の安全保障観を支えており、原体験だと思う>
同書には<「自衛官の倅」の外交・安全保障論>の1章を設け、国連至上主義を排す、集団的自衛権を認める時期、田母神俊雄元航空幕僚長を英雄視してはいけない、などかなり踏み込んだ安保論を展開している。
野田が師と仰ぐ松下幸之助とめぐり合うきっかけを作ったのも義信だった。野田はジャーナリスト志望で、早大卒業時の就職活動はメディア関係を受験していたが、ある日、義信が、
「こんなのあるぞ」
と松下政経塾第1期生募集の新聞広告を見せたという。
義信は日ごろ無口で、理由は言わなかったが、松下幸之助は尊敬していたらしく、家の本棚に著書が何冊もあった。野田は軽い気持ちで応募し合格、政治家人生への転機になったのだ。
実弟の野田剛彦船橋市議によると、
「父はまだらな認知症で、首相になったことは話したが、大きくうなずいていた。『よくやった』ということかもしれない。自衛官なので、しつけには古風なところがありましたね」
と言う。父あっての息子、を感じる。(敬称略)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK119掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。