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「脱世論調査」と言い出した毎日・与良正男? どこかが変なコラム
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/5f5baaccfc6f6ce6b03b89a88807902e
2011年09月08日 世相を斬る あいば達也
「みのもんたの朝ズバッ!」でお馴染の捏造常習犯・毎日、TBSの与良正男がしおらしく「脱世論調査」なるコラムを書いている。まずは読んでいただこう。
≪ 熱血!与良政談:「脱・世論調査」政治=与良正男
先週、民主党の新しい幹事長に輿石東氏が決まった翌朝、出演していたTBS系「みのもんたの朝ズバッ!」で、こんな話をした。
小沢一郎元代表に近い輿石氏を起用すれば、世論の反発を受けるのは野田佳彦首相も覚悟のうえで、党内をまとめることを優先したのだろう。でもこれで輿石氏たちも共同責任を負い、ぶつぶつ文句ばかりつけられなくなる。だから、これは一つの方法で、いわば「脱・世論調査」政治だ……と。
世論調査を実施している新聞社の人間からすれば天につばするような発言でもある。だが、最近はあまりにも世論調査が政治を動かしすぎてきた。そんな反省が私にはある。
小泉政権以降の自民党が特にそうだったように新しいリーダー選びで重視されるのは国民の人気。ところが期待や人気は長くは続かない。新聞・テレビのどこかが毎週のように世論調査を行って「また支持率が下がった」と報じ続けることで国民の不満はさらに増幅する。一方、私たちメディアも「国民も怒っている」とばかりに調査結果を後ろ盾にして政権を批判する。
政治家も数字を気にする。例えば昨夏の参院選での菅直人前首相だ。就任当初の高支持率で自信をつけたのか、財政と社会保障政策再建のため消費税引き上げを打ち出したが、世論調査で評判が悪いと知ると軌道修正。ぶれた姿勢がまた批判を呼んだ。
世論調査だけとはいわないが、1年ごとに首相が交代する短命政治の一因となっているのは確かだろう。
さて、野田首相本人が「見た目がこの通りだから支持率はしばらく上がらない」と開き直った新内閣の支持率は毎日新聞調査の場合、56%と結構、高い数字となった。首相と親しい人たちは「最初は30%程度で構わない。徐々に上がっていく政権を目指したい」と話していたから、逆に戸惑いさえあるようだ。
しかし、もう私が説明するまでもないだろう。「支持する」と答えた人の中には、「どじょう」効果で人柄がいいかなあと思った人、前の首相2人がひどすぎたと思った人、これで少しは落ち着いた政治になるかもと期待している人など、さまざまな人たちがいる。その積み重ねの数字なのだ。
今後は信念を貫いて実績を残すことだ。世論を無視する政治は困るが、調査結果に右往左往しない政治は歓迎する。私たちも世論調査報道の仕方を考えていかねば。(論説副委員長)≫(毎日新聞)
与良はコラムの多くを世論調査の連発の反省に費やしているのだが、最後の一文で見事に馬脚を現している。 ≪今後は信念を貫いて実績を残すことだ。世論を無視する政治は困るが、調査結果に右往左往しない政治は歓迎する。私たちも世論調査報道の仕方を考えていかねば。≫
http://mainichi.jp/select/opinion/yora/
なんだ、野田総理の現在の隷米外交と財政健全化路線、縮原発政策に邁進して欲しい、と言っているだけと云うことが判る。つまり、ブレズに現在の増税路線と普天間移設計画を堅持する限り、世論調査の数字も野田政権に優しいものになるだろう、とサジェストしている。まぁ教唆的であると同時に恫喝的でもある。
筆者は、各マスメディアが毎週のように行う世論調査は単なる捏造調査だ、と決めつけていたのだが幾分考えを改めた。作られた数字と云う批判より、そのメディアの政治的意志と捉えた方が妥当な気がしてきた。日本人の生活文化に頑強に根を張っている「その場の空気を読み、それに迎合する国民性」を巧みに利用しているのが「世論調査」の正体なのだろう、と云う点だ。
つまり、「世論調査ありき」から事は始まる。件の調査の前には「実は世論は存在しない」そのように思えることが多過ぎる。日本人の多くが実生活に追われたり、謳歌している実態をつぶさに観察する限り、彼らの脳裏に「日本はどうすべきか」など一切考えていないと云うのが現実だ。とても政治にまで関心は及ばない。ここまで政治に関心のない民族ゆえに、多くの悲劇に見舞われたわけだが、なぜか“気づく”と云う感覚が失せているようだ。
これは日本人の空気の中で生きる伝統的文化の美しさの一部の現れだ。実に美しい、大震災に見舞われても、黙々と避難し共助の心に満ちている。しかし、島国文化(侵略が少なく、実は国境問題も僅かにあるのが現実)と農耕文化の日本民族が、20世紀、21世紀と大陸文化、狩猟民族と対峙することを強いられてしまった結果だ。
怖ろしいことだが、大きな肉食動物の群れに放たれた家畜のような存在と例えることさえ可能なのだ。大企業に生きる者や事業家や高額所得者の中には、獣になって闘う力を持ち、その闘魂精神旺盛な人々もたまにはいるだろう。しかし、国民の多くを構成する人々は獣ではなく家畜なのだと考える方が現実的だ。
そのような人々は、目立つことを怖がり、何らかの共同体に属し、ひたすら平和と物質的豊かさを望む家畜状態になっているのだろう。すべてを島国文化、農耕民族が原因と云うのは乱暴だが、“みずから考えない” “争いを避ける” “共同体の空気を読む” “KYになる事を極度に恐れる” このような雰囲気で生きてきた民族にとって、マスメディアの世論調査は、一定の勢力にとって、まさに世論を醸成する最大の武器なのかもしれない。
「小沢はダーティーに違いない」「3党合意は大切だ」「財源のない公約は破棄しなきゃ」「子孫に借金残しちゃ駄目だ」等々簡単なのだ、世論調査の数字を見て、そう言っておけばOK。それが国民の大多数である可能性は高いのだから、世論調査をやればやるほど、そのプロパガンダは強固になってゆく。これは相当厄介な代物だ。
パスカルが代表作「パンセ」の中で「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎(ひとくき)の葦にすぎない。しかし人間は動物と異なり個々『考える葦である』と言い、広大無辺な宇宙に比べれば、人間は無に等しく、『一茎の葦』のごとく弱く悲惨な存在にすぎないが、それは『考える葦』であることで、思考によって『宇宙を包む』ことができる。ここに人間の尊厳があり、偉大さがあるという。このような偉大と悲惨、無限と無という相矛盾しあう二律背反のなかで、揺れ動く人間の存在を、パスカルは『考える葦』ということばで象徴させているのである。つまり、考えない人間は動物だともいえる(笑)
どうも日本人の現実をみていると、とても『考える葦』だと言われても、ピンとこない。パスカルが間違ったのか、皮肉を言ったのか、宗教的見地から導き出したものなのか筆者にはよくわからない。キリスト教国家、大陸文化、狩猟民族の欧州では、人間が『考える葦』でないと、直ぐに食われてしまう現実があったかもしれない。その点、適当におとなしく目立たず集団の陰に隠れて、チンケな利権をゲットして一喜一憂している家畜のような国民には、『考える葦』は空気を読まない、秩序を乱す存在と扱われる事が多いのだろう。
なにせ2千年以上の年季が入った文化なのだから、一朝一夕では治りそうもない。しかし、21世紀はグローバリゼーションの地球上で生きることを余儀なくされている。「空気を感じ、みずから考えない、秩序を乱さない文化」を尊しとするだけでは、最低限の生き残りさえ危ういのかもしれない。日本人は「考える」ではなく、「感じる」が主体の文化で筆者も好きなのだが、生き残りたければ、考えることに目を向けるべきだ。勿論、考えることを潔しとせず滅びも美なり、と云うのも選択のひとつなのだろう。
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