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小沢氏復権の道筋が見えてきて正気に戻りつつある政治家たち。
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2011/09/07 06:15 日々雑感
官僚制内閣が存続する条件は「小沢氏排除」だった。小沢氏ほど揺るぎない理念によって政治を遂行しようとする政治家は現代日本の政界に於いて稀だ。官僚たちは「国民の僕」といいつつ、実は「国民の主」として権力を奮ってきた。
そのためには政治家が官僚のレクチャーにより簡単に発言を変える「理念なき政治家」でなければ困る。カタチとして政治家が官僚の人事権を握っていることになっている。事務次官人事は現在は官僚たちが勝手に自分たちで決めているが、実は大臣に人事権がある。だが、カタチとしてあるだけだと官僚は政治家を教育して「伝家の宝刀を封印」してしまった。
蚤のサーカス、というのがあった。蚤に芸をさせるのだが、蚤が跳躍して逃げないようにするためには小さな球の中に閉じ込めるのだそうだ。最初は逃げようとして跳躍するがたちまち球の壁面で体を打付ける。それでも逃げようと跳躍するが次第に無駄なことだと判って、ついには跳躍しなくなる。そうした蚤を球から取り出して調教するのだそうだ。
若い政治家が青雲の志を抱いて政界入りしても、多くの先輩諸氏によって「政治とはこういうものだ」と散々教え込まれる。政界の常識なるものを叩きこまれ、その常識に従わない者は異端者として排除される。
小沢氏は偉大なる若造なのだろう。政治家は理念によって生きるべきだ。官僚たちによるレクチャーを「政界の常識」だとして受け入れた者を、大マスコミは政界の専門家として持て囃す。何かとテレビ出演させて国民に「政界の常識」として刷り込まそうとする。恰好の例が安保に関して自民党の石破氏をテレビ出演させて彼の意見を重用する。恰も彼の見解が誤りのない国是ででもあるかのように。
同じように行政改革で財務省が他の省庁を支配する構造の根源たる「予算権」を官僚の手から政治家の手に取り戻す「仕組み」を考えなければ、いつまでたっても財政至上主義と行政の高コスト体質は是正されない。
国家は国民の「生命と財産の保全」のためにあるのであって、官僚の利権擁護のためのあるのではない。そのための政治による国家権利の発動だ。官僚による官僚のための政治をこれ以上続けてはならない。
自民党の多くの政治家は長年の政権与党として官僚のレクチャーが骨の髄まで沁みている。民主党議員も政権与党に就いて官僚レクチャーがたちまち身に沁みついたようだ。2009マニフェストを弊衣のように放棄しようとしている。政治家が理念を失って何をやろうとするのか、もう一度政権獲得の原点に立って、政治を見詰め直すことだ。官僚たちの思惑に左右されることなく、政治家は自分の言葉で「遠き高き理念」を語らなければならない。
政治家にとって予算は「理念実現」のための大事な国民の税を預かっているものだという認識に立たなければならない。まず理念の摩り合わせこそが政党協議では大切なのであって、三党合意などは枝葉末節だ。子ども手当では「直接支給」の理念と「少子対策」の理念を語らなければならない。大マスコミや自民党などが指摘する「財源論」は自民党政権時代に積み上げせれた莫大な国債を見れば彼らにも碌な「財源論」はなかった証拠だ。それなら責めるべきは政治家ではなく、財源のない予算を積み上げて平然と提出してきた官僚たちに向かわなければならない。財源なき公務員給与は当然削減すべきだし、経費削減も徹底すべきだ。いつの間にかチャッカリト着工した公務員宿舎は直ちに凍結して、その予算は災害復旧へ回すべきだろう。
公明党は自民党と二人三脚状態で補完し合ってきたが、そろそろ呪縛が解けようとしているようだ。二人三脚は公明党にとって何だったのか、マインドコントロールから覚醒し始めたようだが、個々人の政治家が「公明党とは何か」と結党の原点を振り返り、民主主義国家の中の政党として相応しい存在にならなければ存在そのものが問われ続けるだろう。政治は「国家と国民のため」にこそある。
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