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ザ・特集:「菅首相」なぜコケたか 同じ「市民運動出身」辻元衆院議員が語る
毎日新聞 2011年9月1日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/wadai/archive/news/2011/09/01/20110901ddm013010006000c.html
粘りに粘ったが、ついに俵を割って官邸を去る菅直人首相(64)。批判のしどころは多々あるにせよ、結局、何がいけなかったのか。「市民運動出身」という同じルーツを持ち、東日本大震災後は災害ボランティア担当の補佐官として支えた辻元清美衆院議員(51)に尋ねた。【宍戸護】
◇権力維持には「まめさ」必要だが、理念重視のあまり気が回らず。
◇妥協、利害調整できず立ち往生。「浜岡」「脱原発」は考え抜き決断。
「自分の言葉で。終わり良ければ全てよし、でっせ」
8月26日昼、衆院議員会館。テレビ画面の中で「退陣の弁」を語り始めた菅首相に、そう声をかけた。立ったまま、安堵(あんど)とも無念ともつかぬ表情の辻元さんである。約5分、聞き終えるとポツリ。「あっさりしてたなあ……」
昨年7月、長年所属した社民党を離党、現在は無所属ながら民主党と会派を組む。震災から2日後の3月13日、首相補佐官に起用され、官邸で半年間、一緒に仕事をした。「知り合って四半世紀」という間柄。新しいスーツづくりの採寸にも立ち会った。
「一国の総理だからヨレヨレの格好はあかん。欧米の首脳の横に立ってもひけをとらんように、と服、つくらせたんです。馬子にも衣装やから。ハハハハ。なのに昨年11月の横浜APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議で、オバマさんと一緒にいるところを見たら、ネクタイは曲がってるし、胸の当たりも盛り上がっている。メガネを入れているわけ。何してんねん、と。すぐに電話をして『高いスーツ買うてるんやから、ポケットにもの入れたらあかん!』と言ったら菅さん、『ごめん……』の一言だけ」
菅首相は厚相時代、薬害エイズ問題で厚生省(当時)が隠していた内部資料を明るみに出し、国会でも舌鋒(ぜっぽう)鋭い論客として名をはせる。だが、総理大臣の椅子に座ってからは精彩を欠いた。
就任から間もない昨年7月の参院選。唐突に「消費税10%」を口にして大敗を招き、滑り出しからつまずいた。
「私自身、自社さ政権を経験して実感したのは、『まめさ』こそが権力維持の最大の装置やということ。ある自民党の幹部は『芝居ではステージの幕が上がったときには準備が終わっているのと同様、政策も公になったときにはほとんど終わっていないと周りが混乱する』と教えてくれた。ところが菅さんは、自分で幕を上げてから『さあ始まりだ』とやるからなあ」
「策を弄(ろう)さず」という姿勢は、宰相としては弱点でしかなかった。
「私も親しいけど、菅さんから総理大臣になってからおごってもらった覚えはないなあ。昔からかな。確かに面倒見はあまりよくないよ」
苦笑する辻元さんに、「ケチなんですかね」と突っ込むと、こう解説した。
「いや、気が回らないんですよ。理念や考え方を重視するあまり、そこでつながっていればいいんだ、みたいなところはありますね」
保守派を中心に、「市民運動出身の政治家の限界」を指摘する声も相次いだ。
「確かに(市民運動出身の政治家には)批判するのは上手でも、批判を受けるのは下手という特徴がある。私もそうなわけですよ。そりゃ『総理!総理!』と言ってるほうが簡単やで」
そこには、辻元さん自身の苦い経験がある。早稲田大在学中に民間国際交流団体「ピースボート」を設立し、96年に衆院議員初当選。2期目の02年3月、秘書給与詐取問題の責任をとって辞職した。予算委員会に参考人招致されたとき、菅首相は傍聴席で終始見守っていたという。
そして、話は「統治論」へと進んでいった。
「一議員なら権力のチェックをすればいい。大臣は、時の政権の政策を実行すればいい。でも、総理大臣になったら『統治』をする。統治とは考え方が違う人、相反するイデオロギーを持つ人をも守ること。そして、やりたい仕事だけでなく、やりたくないことでも妥協しつつ利害関係を調整することなんです」
しかし、野党、官僚、財界、そして党内の対立勢力……菅首相にとっては、いずれも闘うべき相手だった。
「私ら市民運動から出てきた人間はね」。かみしめるように言葉を継ぐ。「何もないところから自分が動き回り、ものごとを形にしてきた。憲法を守るため、脱原発の理念を守るためなら命をかける。同じ志を持った仲間となら、それでいけるんです。でも、統治はそれだけではあかん。立場の違う人たちと、どう付き合うか。そこを訓練しておかないと、いざリーダーになった途端に立ち往生してしまう。菅さんも、そこに悩み続けたと思うんです」
「菅直人」という総理大臣の出現は早過ぎたのか、遅過ぎたのか。
「統治には2種類あると思うんですよ。一つは中曽根康弘元首相のように自らが引っ張る『強いおやじ型』。もう一つが、市民一人一人に社会に参加してもらう市民参加型です。こちらは、まず子育てやまちづくりで同じ考えを持った人が地域にいて、さらにそういう発想の地方議員が増えなければ安定しない。現実には自民党長期政権のもと、市民型統治は未成熟のまま今日まで来てしまった。菅さんの理想と首相としての行動が合致しなかったのは、そこにも原因があると思うんです」
菅首相の政治決断で、是非は別にして歴史に残るものがあるとすれば、5月6日の「浜岡原発停止要請」、そして7月13日の「脱原発表明」が含まれることは間違いない。
「原発事故直後、東電の報告を受けた菅さんが気にしていたのは『本当に情報は全部、おれに来ているのか。都合がいい情報しか上がってきていないのではないか』ということだった。同時に、最悪の事態を考えた。原子炉格納容器が爆発すれば東京がやられると。東京の人口すべてを避難させるすべはない。背筋に寒気を感じ、そのときに、地震が多く狭い土地で人がひしめき合うこの国では原発と共存するのは難しいと心底、思ったと。浜岡原発停止もその流れで、一つ一つものすごく考え抜いて決断している」
「最小不幸社会の実現」との理念や関連の政策も、激しい「菅降ろし」にかき消されてしまった。
「在任中の活動を歴史がどう評価するかは、後世の人々の判断に委ねたい」
そう言い残し、菅首相は去ろうとしている。
8月30日、衆院本会議。辻元さんは菅首相と言葉を交わした。「お疲れ様でした。近く市民運動の仲間で一杯やろうよ」とねぎらうと、「やろうやろう」とうれしそうに答えたという。
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