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市民革命とは、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代的市民社会をめざす革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想に基づく、人権、政治参加権あるいは経済的自由を主張した「市民」が主体となって推し進めた革命と定義される。代表的なものは、イギリス革命(清教徒革命・名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命などであると定義されている。
さて民主主義の世の中で、人々はその栄華を満喫する一方で、自ら手にした民主政治というものと葛藤を繰り返してきた。
政治が市民の為にあった時代はないと言われるほどに、思うようには行かないのが政治の形態である。
帝国主義による侵略戦争もイデオロギーの対立も、全て市民革命後に市民によって演出されてきた。
200年も前に、市民革命で手にした市民の主権と言うものも、おりから興った資本主義の成長とともに、知らぬ間に市民生活が資本に組み敷かれて行ったことを認識しなければならない。
マルクスの言葉を借りるまでもなく、金融資本に蹂躙された現代社会は、1国の内政さえ自国国民の思うようには出来なくなっている。
民主主義の仮面を被った巧妙な支配の仕方は、かつての封建国家のように市民が問題点を認識しがたく、格差社会の中でただ煩悶するのみ。
それは、資本の力と言うものに市民自身が深く関わっていることからくるものである。
昔で言う、統治における支配者と被支配者がともに市民であるということである。
ここでは容易に啓蒙の思想が育たず、暗中模索が続いている。
しかしながら社会の2極化は封建国家のそれに近づきつつある。
現実的に200年前の情勢に近づきつつあるといえる。
さて、人間社会は社会の困難に対して戦い克服してきたものであるが、昨今の困難に対しては戦い方が解からない。方向性が見出せない。
その理由は、戦う相手が隣人であり、自身の中にも存在する利己心でもあるからである。
第2の市民革命が望まれるが、それは市民と市民の戦いであるのである。
その難しさは、困窮する市民層が資本の非を責めようとしても、資本に利益を得ている市民が異を唱える。
政治に訴えようとしても、本当の意見が多数決の前に潰される。
メディアにおける世論操作もそうである。
小沢問題と取り上げて、喧々諤々のメディア批判があるが、それは小沢個人の問題ではなく、市民の政治的な希望を資本の力が市民の名を使って弾圧しているのである。
その資本も市民の集合体である。
また啓蒙の思想が行き渡らない環境で、改革を求める市民の希望自体が千差万別、一向にまとまらず大きな力とならない。
これも市民自身の責任である。
こうした中で第2の市民革命が望まれる。
第2の市民革命が未だに起きる気配はないが、必ず起きると思っている。
それは市民対市民の戦いである。
その方向性は200年前の血なまぐさいものではないであろうし、そうでなければならない。
そのために、啓蒙の思想が芽生え、市民の中に展開して行かねばならない。
そのためには、先ず、我々自身が民主主義、資本主義というものを、もう少し身近に取り上げ反芻することである。
現実を民主主義、資本主義の根本に置いて認識すべきである。
我々自身の中に、支配者と被支配者を見出すことである。
そうすることによって、堂々巡りの議論から脱することである。
ああ言えば、こう言うといった不毛な議論をやっているかぎり、向うべき方向性、議論すべき内容の方向性は見えてこない。
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