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終戦の日に放送されたNHKの「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 戦中編」は、内容が濃く、印象に残る番組だった。キャスターの松平定知が素晴らしい。番組を見ながら、当時の状況を現在の日本と二重写しで捉えた視聴者は多かっただろう。軍部を官僚と置き換えれば、事態は現在と全く同じで、その先に破滅があることに気づく。前に私は、霞ヶ関は更地にして公園にするというグランド・ポリシーの提案を出したことがある。過激に聞こえるかもしれないが、そうなる可能性は十分あるのではないかと思い、私は歴史にひそかな自信を持っている。当時、日本を支配し、戦争政策を遂行していた参謀本部と軍令部、陸軍省と海軍省は、今、その跡地がどこにあるのか知る者すらほとんどいない。ここに戦前日本と戦後日本の断絶の例証がある。われわれが破滅を迎え、その次の時代を築くとき、現在の霞ヶ関と官庁群は、戦前の軍国支配者の本拠と同じ運命になっているだろう。歴史はそう審判し、鉄槌を振り下ろすだろう。破滅に至ったのは人災によるもので、責任者は処罰を受けねばならない。「無責任の体系」に革命のメスが入れられ、国を破滅に至らせた元凶が否定される時が来る。再生のために、彼らが処断され抹殺される時が来る。それは、過去と同じく、無辜の民の大量の流血と犠牲を伴った上でのことだろうし、そうでなければ、歴史的な転換はこの国ではハプンしない。
終戦の日の夜7時のニュースで、何かの集会に参加した沖縄の高齢女性が、「私たちが死んだ後はどうなるのか」と、悲壮な危機感を訴える場面があった。戦争を知る世代が消えれば日本は戦争を始める、戦争の記憶を風化させてはいけない、悲惨な体験を語り継がなくてはいけない。こうした言葉は、私が子どもの頃からずっと聞かされていた言葉だ。学校の教室でも、テレビでも、誰もが口々にそう言っていた。この季節にならなくても、年中、その言葉は聞かされるものだった。その頃、少年だった私は、将来、自分が生きている間に戦争があるなどということは、微塵も想像することはなく、時間が経てば経つほどに、戦争の危険性や可能性というものは遠のくだろうと考えていた。その考え方が変わり始めたのは、いつ頃だっただろう。現在は、自分が生きている間に戦争はあるだろうと思い、戦中も戦後も経験してから死ぬことになるだろうと、そのように思っている。人生の前半は戦後世代として生き、晩年は戦前戦中世代として生き、戦後に生まれた者たちに、戦争の悲惨さを嘆きつつ教える老人になっているのではないかと。つまり、今、生きている者たちは、ほぼ全員が戦前戦中世代になり、戦争で生き残れば、戦後世代になるはずだと思っている。日本が未来永劫に平和だと信じる態度は、原発の安全神話の信仰と同じだ。ある日突然、神話が崩れた現実に放り出されるのである。
そう思う根拠は、日本人の多くが戦争を望んでいる事実があるからである。北朝鮮と、中国と、政治家だけでなく、国民の多くが「敵国」との開戦の衝動に疼いている。決して一握りではないし、石原慎太郎とその信者だけではない。そもそも、中国との戦争を公然と言い、核武装を唱える軍国主義者の石原慎太郎が、さして世間の非難も批判も浴びることなく、堂々と圧倒的大差で都知事選に当選する現実がある。都民たちは、イデオロギーも含めて石原慎太郎を信任しているのであり、もしも国民が平和主義の思想の持ち主で、憲法9条を支持し、「戦争の記憶を風化させてはいけない」と念じ祈る立場であるのなら、石原慎太郎を都知事に選んではいけないし、落選させるのが当然だろう。マスコミの世論調査で、次の首相候補の上位に出るのは、前原誠司とか、石破茂とか、改憲への欲望を剥き出しにした好戦的なタカ派である。終戦の日のNHKの特集番組の論調は、基本的に過去から引き継がれたものであり、全国戦没者追悼式で首相が読み上げる式辞と同じ内容であり、村山談話の趣旨と同じだが、われわれを取り巻く政治的現実は、それとは全く異なるもので、逆の思想が支配する空間であることは否定できない。国会でも、靖国は積極的に肯定されている。松平定知の説明の根底にある歴史認識は、明らかに政治的に少数派となり、戦争に批判的な番組の放送はセレモニックな意味を帯びつつある。
韓国政府は、光復説の大統領演説において、「日本は未来の世代に正しい歴史を教える責任がある」と発した。この声明について日本のマスコミは、竹島問題に触れなかったという点を強調し、韓国政府が意外に冷静だという解釈で報道、李明博が日韓関係を配慮した事情があるとする理解へと国民を誘導している。一国の大統領が、独立記念日に等しい重大な日の式典演説で、隣国の政府に対して歴史認識の誤りを批判し、歴史教育を正せと正面から要求することは、それだけでもきわめて深刻な外交事件だ。しかしながら、日本のマスコミの中で、この批判を真摯に受け止めて扱う者はなく、ネットの中はそれ以上に嫌韓一色で、この問題を無視するか、逆に開き直って韓国を攻撃し嘲弄する声ばかりが溢れている。日本の一般世論は、韓国の方を「独善的なナショナリズム」と捉え、韓国の日本批判を無条件に不当視する意識が大勢で、批判に内在する者はいない。今の日本の韓国に対する空気は、6年前の反日デモの頃の中国に対するものと同質になりつつある。あの後、中国政府は日本に対して懸命に友好再生のアプローチを試みたが、右翼へと狂信化した日本を変える方途はなく、冷戦の関係が深まり、正常化することができなくなった。そして諦めた。おそらく、日韓関係も同じ道を辿る。今の爛れた日本には、関係正常化に努力しようという気を起こさせる要素がない。外から見れば、日本が破滅にひた走っているのは明瞭だ。
思い出すと、終戦50年を記念した村山談話というのは、その政治に中心にいたのは村山富市ではなかった。誰か一人を指させば、その政治潮流の中心人物は武村正義である。戦後50年の節目の年の8月15日に、侵略したアジア諸国に対する謝罪の声明を政府が出し、日本の平和外交の基軸を正式に据えようとする動きは、2年前(1993年)の細川内閣が誕生したときから模索と準備が始まっていた。それは特に、冷戦期の軍政を脱して経済成長を遂げ、民主主義と市民社会を成熟させつつあった韓国を意識したものだった。韓国に対して、侵略と植民地支配を正式に謝罪したモニュメンタルでシンボリックな外交文書がなかったのである。中国との間には、1972年の国交正常化時に田中角栄と周恩来が署名して発した、「一衣帯水」の語(大平正芳)のある歴史的な共同声明がある。振り返ると、1993年の細川政権の誕生は、東アジア共同体構想を言い、従来の自民党政権の親米路線を転換させようとした2009年の政権交代と重なる意味合いがある。それから、もう一つ、政治史の表面には出てないが、この終戦50年の歴史的文書の起草に、武村正義が司馬遼太郎に依頼して水面下で動いていた事実は、当時の朝日の記事でも書かれていたことである。結局、執筆は成らなかった。そして、村山談話から半年後に巨星は堕ち、例の新自由主義史観運動が燎原の炎の如く広がる展開となる。この間は一瞬で、当時をよく知らぬ者が見ると、「村山談話」と「新しい歴史教科書」が何でかく時間的に短く連動しているのかと驚くだろう。
実を言えば、90年代後半の怒濤のような右翼側の攻勢は、慰安婦問題や村山談話の動きに対するカウンターとして盛り上がったものだったと言えるし、逆に1995年の村山談話を押し進めた方は、1990年代前半、右翼的傾向が深まる思想状況に戦後日本の一般常識の側が強い危機感を感じ、日本の平和国家としての基軸を政府として確認し定置させようと試みた政治であった。時流を止めようとする挑戦であり、憲法の平和体制を守ろうとする動きだった。当時は、保守の中にも戦争と靖国に反対する者は多くいたのである。その意味で、2年前の鳩山政権の東アジア共同体の動きとよく似ている。村山談話の危機は発表の当初から始まったが、小泉純一郎の靖国参拝で一線を越え、その後はとめどない死文化が続いている。現在、韓国や中国からどれほど強い批判を受けても、村山談話に言及するマスコミ論者やキャスターはいない。村山談話を基準として持ち出す者はいない。90年代以前がどうだったかと言うと、印象的な事件は藤尾正之の放言騒動で、「韓国併合は合意の上のもので、植民地化は韓国にも責任がある」と言い、文相を罷免された一件である。1986年の出来事だったが、当時はこの発言で大臣の首が飛んだ。現在の右翼の感覚からすれば、信じられない重い処分だろう。今の極右化した右翼の目から見れば、まさに「左翼政権」の暴挙と病弊に映るに違いない。ちなみに、罷免したのは中曽根康弘である。こうして私は長く生き、歴史認識と思想状況の動きを見てきたので、将来、戦争は起きると確信する。冷戦の緊張が破れると予想する。
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