http://www.asyura2.com/11/senkyo117/msg/232.html
Tweet |
http://blog.trend-review.net/blog/#banner
原発事故の後、「事実はどうなっているの?」という情報収束が高まっています。どうやら、人々の意識が大きく動き出したようで、社会の大転換の時が近づいているように感じます。
とすれば、新しい社会の実現を「どう実現するか」、その具体的な運動論を考える段階に来たようです。運動論を考えるにあたって、まず過去の「市民運動」を簡単に総括します。
●近代の「市民運動」は騙しである
過去、’60年安保闘争にせよ、’69年全共闘運動にせよ、大衆の願いは実現された例がない。さらに遡れば、明治維新やフランス革命も同様であって、実現されたのは、金貸し(金融勢力)支配の体制だけであり、それらの革命に身を投じた若者たちは、金貸しに乗せられ踊らされてきただけであった。
つまり、近代の市民運動は、実現された例がない。従って、「市民運動」という言葉は、幻想と断じざるを得ない。
しかも、この幻想を信じた結果、多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった。これは騙し、それも、社会変革のすべての可能性の芽を摘み取る、破滅的な騙しである。
●「市民運動」で社会変革が実現できない理由
その後、市民運動は、’70年、貧困の消滅(豊かさの実現)を契機に急速に衰弱していった。つまり、市民運動は、貧困の圧力→私権圧力が強いときにはそれなりに盛り上がり、私権圧力が衰弱するや否や衰退していったわけで、これは、市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていたという証である。 私権欠乏に立脚している限り、どれだけ市民運動を続けても、私権社会が永久に続くだけであって、私権社会から共認社会への転換など、実現するわけがない。
同じことは、それらの運動を導いてきた思想についても言える。
近代思想を生み出したのは、金貸し(金融勢力)である。ところが、市民運動の活動家たちも、同じ近代思想に立脚している。
同じ思想に立脚しながら、社会を変革することなど出来るわけがない。
あるいは、こうも言える。市民運動の活動家たちは、もっぱら大衆の意識の上昇に期待してきた。逆に云えば、彼らは「大衆の意識」以外に何の実現基盤も持ち合わせていなかった。
しかし大衆は、金貸しが支配する検定教科書とマスコミによって、ほぼ完全に染脳されてしまっており、新たな思想なしに大衆の意識が変革されることなどありえない。
本当に社会変革を実現するには、歴史を遡って、運動の実現基盤を発掘し、実現基盤を備えた新理論を構築しなければならない。
※※※
私たちはこれまで、「市民の意識が変われば社会は変えられる」という意味で「市民運動」という言葉を使ってきました。ところが、過去の市民革命においても、「市民」の「民」とは商人階級を指し、一般大衆は「金貸し」の企みに踊らされてきたのが実態です。
つまり、人々はあたかも自分たちの行動によって社会が変わったように思い込まされてきましたが、大衆が社会を動かしてきたのではありません。「市民運動」とは幻想であり騙しの言葉です。
今回、このような近代思想に基づく「市民運動」と、人々が当たり前のように使っている「民主主義」という近代思想の騙しの根拠について、数回に亘って追求していきます。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK117掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。