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マニュフェストが「甘かった」という「謝罪?」といい、この国の民主党は、もう「政党」としての体をなしていないようです。
http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/e2e19d33cdbb04be689164eca6b58245
<平成大衆意識>雑感(4) 人間狩り
2011年07月21日 18時03分37秒 | 05 文学篇
昨夜、ネットのニュースを見たら、
民主党の倫理委員会が、
小沢一郎から出されていた、「裁判の結果が出るまでの党員資格停止」処分に対する不服申し立て、
を却下し、
続いて、常任幹事会がその処置を了承したことにより、
小沢一郎に対する処分は確定した、
と報じていた。
その却下理由は、
「起訴された事実に変わりはない」
というものだったらしい。
ただ、付帯意見として、
「小沢氏が岩手県選出の国会議員として被災地の復興に携われるよう、
執行部に配慮を求める意見を添える」
だという。
倫理委員長の渡部恒三民主党最高顧問の言によると、
「政治とカネの問題は、政治家が最も襟を正さなければならない問題であり、
党としても厳しい対応をしなければならない」
のだそうだ。
漫談で人の笑いを誘って生きてきた人間が、真顔を装って語るとどんな無残な内容になるのか、
政界漫談師渡部恒三は、僕たちに見せてくれた。
どれほどの人が気づいているのかしらないが、
今回、政権政党民主党が、「起訴された事実に変わりはない」と正式に表明したことにより、
僕たちは、戦後昭和を支えてきた、一つの理念を、完全に失った。
「第四の権力」呼ばれる「マスコミ(orマスメディア)」の<人間狩り>が露骨になり始めたのは、
昭和50年代、
「今太閤」ともてはやされていた、時の天下人田中角栄(故人)を、
最高権力の首相の座から引きずり下ろし、
その絶大だった政治影響力を根こそぎ奪い取り、
強靭そのものみたいな田中角栄の精神を追い詰め、再起不能の病に導き、
最後は政界から放り投げるみたいに追い出した、
その抹殺劇の成功を得てからだった。
その時の<人間狩り>の根拠は、「クリーンな政治を!」というスローガンで、
論理自体は、奇麗事ばかりを言う既成左翼陣営で使い古された三流論理だったが、
そう言われると、「それは結構なご意見で」としか言いようのない「美しい」スローガンだから、
庶民にとって耳あたりのいいスローガンであったことは確かで、多くの支持を得た。
角栄抹殺劇の成功に気をよくしたマスコミは、
その後も、その論理を表に高々と掲げて、
何人もの政治家を
検察による起訴、それからのマスコミによる追放キャンペーン、政界追放、
というパターンで、追い落としていった。
マスコミがキャンペーン追放に利用したのは、
昼のワイドショーだった。
政治や社会など考えたこともないような低能芸能人を司会者にした上で、
「家庭の主婦」をメインにした、あきらかに社会音痴の女性視聴者たちをスタジオに招いて、
あたかも彼女たちが、「世論」の代表者であるかのように扱い、
自分たちマスメディアの思惑に沿った意見を誘導し、
疑わしきは罰す。
これを<人間狩り>の基本姿勢として、
その意見を「世論」であるかのように大げさに報道し続け、多くの<人間狩り>を成功させた。
やがて彼らは、
その対象を、政治家だけではなく、芸能人、一般人にまで拡げ、
この国において、マスコミ(マスメディア)主導の、広汎な<人間狩り>が行われるようになった。
そこにあったのは、
<超法規的な正義>の主張、だった。
僕たち<戦後知性>は、
「疑わしきは罰せず」という法理念を生きてきたわけで、
「疑わしきは罰す」という姿勢には異和を覚えていたのだから、
この時、
戦後の法理念を土足で踏みにじった<人間狩り>に対して、
昂然と「異議申し立て」をしなくてはいけなかった。
しかし、
僕たちもまた、十分に臆病であり、怠惰であったから、
それを、たった一人、思想家の吉本隆明に任せただけで、沈黙し続けた。
そして、
平成に入って、「オウムサリン事件」が発生するに至って、
「疑わしきは罰す」の姿勢が強くなり、別件逮捕が横行した。
しかも、
そうした風潮を公然と批判してきた吉本隆明は、
オウム真理教の麻原教祖を評価していたため、疑心の眼で見られるようになり、
もう、異議申し立てをする骨太な人間が存在しなくなったため、
この国を、「疑わしきは罰す」という風潮が覆いつくしてしまって、今日になった。
大衆の間で法意識が変化していくことは、よくある話で、別にどうってことはない話だが、
ただ、
冷静に今現在の<人間狩り>状況を考察すると、
この状況は、別に、目新しいものでも何でもなく、
戦前の、
マスコミ・官憲・大衆が一体になった、「非国民キャンぺ−ン」とまったく同一のものであることに、
僕たちは気づく。
つまり、
この国は、「本卦がえり」をしているにすぎない。
哀しいではないか。
と僕は思う。
太平洋戦争で莫大な同胞の命を犠牲にして得た理念が、
国を挙げて、国民に教育啓蒙を施し続けてきたにもかかわらず、
わずか60数年で、だらだらと元の木阿弥と化す。
この国の<負の大衆意識>の頑強さに、僕たちは、永久に太刀打ちできないのだろうか。
いま、
師匠田中角栄抹殺劇から始まった<人間狩り>が、
田中角栄の弟子であった小沢一郎への追放劇で集大成されようとしている。
「疑わしい」だけで、小沢一郎は、自らが主導した政権交代の現場から排除されてしまった。
これは、小沢一郎が好きとか嫌いとかの次元の問題ではない。
僕たちは、
民主党倫理委員会とやらの、「起訴された事実に変わりはない」という公式見解が、
いかに安直な法認識の中で決定されたものでるあるかを、見なければならない。
漫談師の渡部恒三なぞどうでもいいが、
民主党の現在の実力者のひとりである仙谷由人も枝野幸男官房長官も、
弁護士であるそうな。
彼らは、いったい、どんな法認識で法曹界を生きてきたのだろうか。
戦後法理念のどの部分を抱きしめて、政治活動をしてきたのだろうか。
僕には、どうも、よくわからない。
だらしない風化の時代に入って、
この国は、戦後守ってきた理念が、なし崩し的に崩れ始めている。
ひょっとしたら、もう、この風潮に歯止めをかけることは、金輪際無理かもしれないなあ、
と思う時、
僕は、ついつい、
<野垂れ死にをも許される自由>への憧れを、抱きしめ直してしまうのだ。
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