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「日本一新運動」の原点(63)── ジョン万次郎記念・日米草の根交流高知大会
第21回日米草の根交流大会が、6月28日から7月4日まで、ジョン万次郎の故里、高知県下で開催された。日米草の根交流大会は、財団法人・ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター、会長小沢一郎氏(以下、CIE財団)が、毎年日本と米国で交互に開催しているものだ。この大会の目的は、日米の市民一人ひとりが国境・言語・文化などの違いを乗り越え、同じ人間として互いに心を通わせ合い、理解し合い、友情を深め合うことによって、日本と米国、そして世界中の人々と良好な関係を築き上げていくことにある。
東日本大震災をうけて、今次は開催を延期するという意見もあったが、米国市民78名の熱意と、地元高知県の尾崎正直知事(大会名誉会長)・橋井大会実行委員長らの「こんな時だから草の根交流が必要だ」という主張で実現した。私も万次郎の故里と同じ土佐清水市の生まれで、6月28日の「草の根同窓会」から参加し、29日のオープンセレモニーが行われた土佐清水市への案内役を務めてきた。
CIE財団は設立されて20年目となる。本来なら真っ先にジョン万次郎の故里で、草の根交流大会が開かれるべきであった。なのに20年間、開催することができなかったことには隠された事情があった。
それは、小沢一郎という政治家と私に対する世間(オーバーにいうと日本社会全体)の、とんでもない誤解があったからだ。それを説明すると現在の小沢一郎の立場が理解できる。ようやく高知で草の根交流大会が開かれるようになったことは、日本社会での小沢一郎氏に対する日本社会の誤解が解消し始めたと言いたい。
CIE財団は平成4年に設立された。その前身は「ジョン万次郎の会」で、平成2年11月29日の国会開設百年記念日に、憲政記念館で設立大会が開かれた。この時期、平成元年暮れには米ソ冷戦が終結し、翌2年8月には湾岸戦争が勃発し、米ソが協力する国連の役割が注目され、新しい国際政治が始まったときだった。
平成2年7月に、新しい西側の国際情勢を調査し、日本の政治の在り方を研究するため、衆議院の与野党幹事長・書記長等による調査団を派遣することになった。団長は小沢一郎自民党幹事長(当時)で、6月30日、事務局随行者の私と打ち合わせを行ったとき、「ジョン万次郎の会」を設立することが決まった。
会食の際、私が「来年はジョン万次郎が漂流して150年となる。日本の開国に貢献した人物だが歴史上評価されていない。高知で中内知事を会長に"ジョン万次郎の会"をつくるので、その時に祝電を欲しい」と陳情すると、小沢幹事長は突然機嫌が悪くなり黙り込んでしまった。理由が分からない私が困っていると、権藤恒夫衆議院議員(公明党)が笑いながら「平野君、小沢さんは会長になりたいのだよ」と助け船を出してくれた。すると小沢さんがおもむろに口を開いて、「昨夜、NHKの特集番組"二つの祖国に生きてきた男"を見た。ジョン万次郎のドキュメントだった。冷戦が終わった国際情勢はこれから厳しくなる。万次郎のような国際社会に生きる智慧がないとこれからの日本は生きていけない。会をつくるなら全国版だ。ボクは大臣や幹事長になったときも、自分から頼んだことはない。しかし、これだけは自分が会長をやりたいんだ」と。
困ったのは私だ。天下の与党幹事長が会長となれば良いことばかりではない。誤解も受けるし運営もややこしくなる。しかし、私が口にした以上引くわけにもいかなくなり、「わかった。準備します」となった。幹事長・書記長調査団の調査目的に「市民草の根交流」も入れて、帰国した直後に湾岸戦争は勃発した。多忙で混迷する国会運営の職責を果たしながら、万次郎関連の資料を調べ、「ジョン万次郎の会」の設立大会にこぎつけた。
設立大会の日を国会開設百年記念日としたことには、私の執念があった。万次郎の漂流や帰国、草の根デモクラシーの啓蒙がなければ、日本の国会開設はもっともっと遅れていた。坂本龍馬や後藤象二郎も、板垣退助らも万次郎にデモクラシーの原点を教えてもらっているのだ。
小沢自民党幹事長が会長となる「ジョン万次郎の会」に、野党から批判が出ることを心配していた。ところが以外にも野党側が積極的に協力してくれた。万次郎の人徳のお陰だ。公明党の市川雄一書記長や民社党の米沢隆書記長には調査団の海外旅行中に根回しをしていたので問題はなかった。だが、野党第一党の社会党には何の連絡もしなかった。設立大会の前日、突然に土井たか子社会党委員長から電話があり、「平野さん、ジョン万を世の中に出そうというのに、どうして私に声を掛けないの。同志社の創設者・新島襄が、米国に行けたのは万次郎のおかげよ」との話。驚いて出席を要請、挨拶をしてもらった。高知県出身の共産党衆議院議員・山原健二郎氏も顔を見せた。
平成3年は、湾岸戦争への国論がまとまらない中で、国際社会での日本の在り方、日本人の国際感覚の向上に「ジョン万次郎の会」は役割を果たしていく。秋には京都で「第1回日米草の根交流大会」を開いた。この年は太平洋戦争開戦50周年であり、唯一の日米間のイベントであった。内外から高く評価され、平成4年には万次郎のアドバイスでつくられた企業や運動の理解者の好意で、「ジョン万次郎の会」は、CIE財団に発展した。
ところが、物事はすべてうまくはいかない。この時期、わが国では政治改革をスタートに、日本を改造して新しい国家をつくろうという運動が、小沢一郎氏を中心に始まる。私は平成4年7月の参議院議員選挙に高知地方区から自民党推薦で出馬して当選した。万次郎に突き上げられて、小沢一郎氏と共に日本の改革に奔走することになる。翌年五月には、自民党政治に決別して「新生党」を結成する。8月には40年にわたる自民党独裁政権を崩壊させ、非自民細川連立政権樹立を成功させた。そこから今日の苦難が始まるが、それは政権から離れた自民党から集中攻撃を受けることになるのだ。CIE財団の設立資金で新生党を結成したとか、平野の選挙資金や非自民政権樹立の資金になったなど、衆議院予算委員会で取り上げられたり、マスコミからの攻撃を受けた。一方、万次郎の故里高知では、当時左傾化していた「高知新聞」が「小沢と平野が湾岸戦争で万次郎を政治利用した」と批判した。高知県での小沢氏と私の立場は、自民党で万次郎を政治利用しておいて自民党を潰すとは!、と怨念を持たれていた。それが20年間、高知で草の根交流大会が開かれなかった理由である。
21年目にして高知県民全員に祝福されて大成功したことは、小沢氏の「日本改造」が、これから本格化することの象徴といえる。
■陸山会事件の証拠不採用問題
日米草の根交流高知大会の成功を見届けて、6月30日深夜、柏市の自宅に帰ると、東京地裁が同日、陸山会事件で検察側の供述調書38通の中で、大多数を「信用できない」としたとの情報が届いていた。その中に「小沢元代表に虚偽記載を報告、了承を受けた」とする秘書たちの調書も含まれていた。小沢問題で検察批判を続けている郷原信郎・名城大教授は次のようにコメントしている。(7月4日夕刊紙要旨)
「小沢氏の共謀を立証する材料は、石川議員らの供述調書しかない。その信用性が崩れたので、検察官役の指定弁護士は闘う前から武器を奪われたようなもの。もはや、小沢氏を法廷にダラダラと縛り付ける理由はない」。
不思議なことに、ジョン万次郎のイベントをやると、これに類したことが起こる。西松事件や陸山会事件もCIE財団をめぐる数々の疑惑も、新しい日本をつくろうとする小沢一郎氏に対する悪意の抵抗であった。
ようやくそのことが日本中の人々に理解されるようになった。
http://www.the-journal.jp/contents/hirano/2011/07/
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