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そしてみんな「脱原発」になった。菅直人首相まで脱原発宣言!!!何処かに原発推進論者はいないのか?しかし、現実には「脱原発」は、選挙用の飾り付けでしかない。今こそ原子力エネルギーに注目せよ、と言いたい。20世紀、最大の発明。人類はこれとうまく付き合っていくしかない。後には戻れない。
実は作家の村上春樹が、スペインで、カタルーニヤ国際賞の受賞式のスピーチの中で、フクシマ原発事故を受けて「脱原発」を宣言し、「核」に対してももっと早くから「ノー」と言うべきだったと反省する演説をしたらしい。「効率」主義がよくなかった、と。村上春樹のスピーチは、明らかにノーベル賞を意識したもので、営業的匂いがするが、それはさておき、問題はこの村上演説の日本国内の受け止め方である。東京新聞の「文芸時評」で、沼野充義が、「分かりやすさ」という観点から、この村上演説を絶賛している。それに対して「文学界」8月号の匿名コラム(相馬悠々)「鳥の眼・虫の眼」が噛みついている。なかなか面白い噛みつき方である。このわずか1ページの巻末コラムを僕は愛読しているが、ここにだけ、古き良き批評精神というものが生き残っていると思うからだ。さてそのコラムは、こう書いている
「分かりやすさ」が胸を打つ」という見出しで、沼野充義が、東京新聞の文芸時評(6/23)を書いている。本当にそうなのか?村上春樹が六月九日、スペインのカタルーニャ賞授賞式でのスピーチで、「日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった」と訴え、「原子力発電に代わる有効なエネルギー開発」を追求すべきだったと主張したことに対して、沼野さんは、「当然の主張」「まっとうな言葉」と賞賛、「いま「わかりやすい」言葉で語るのをおそれるべきではない。私は人気作家の勇気に対して「よくやった」と声援を送る。」と記している。
欧州で脱原発の動きのある中、「よくやった!」は、大げさでしょう。
なかなか鋭い批評である。「寸鉄人を刺す」とは、こういうことを言うのだろ う。「脱原発」も「反原発」も決して少数意見でも、危険な意見でもない。フクシマ原発事故以前ならともかく、フクシマ原発以後、もっとも安全な、人畜無害な意見が「脱原発」「反原発」である。それが一種の流行語となっていること、あるいは大衆的な世論になっていること、このことを自覚していないとすれば、かなりの鈍感か、あるいは自己欺瞞なのである。少なくとも作家や批評家が、そのことの自覚なしに、無条件に「脱原発」や「反原発」を主張するのには疑問を感じる。大江健三郎のように、四、五十年も前から「反核」を叫んできたものの言うことは傾聴に値すると思うが、「311」以後、「脱原発」や「反原発」を主張することは、逆の意味で相当の勇気がいることだろう。言い換えれば、今、「脱原発」宣言をするやつは、かなりの「恥知らず」ということである。と、ここまで書いているところで、吉本隆明が、「脱原発」批判を展開しているということを、読者からのコメントで知った。吉本が、今、何歳になるか知らないが、相当の高齢のはずである。それにもかかわらず、「脱原発批判」とは恐れ入る。吉本は、科学技術の進歩は自然過程であり、止められるものではない。それよりも科学技術のさらなる進歩によって、「原発の暴走」という危険も克服していくべきだというようなことを言っているらしい。「月刊ビッグトゥモロウ 2011年8月号」をお読みください。次のような記事が掲載されているらしい。
月刊ビッグトゥモロウ 2011年8月号」 青春出版社
*考え続ける87歳インタビュー 吉本隆明 思想家
「思い描いていた大人に僕はなりきれていない」/「誰かが示した安易で簡単な答えに飛びつかないことが大切です」/「大震災後をどう生きるか。僕は考え続けて生きたいと思う」今回の大震災で「原発はもうダメだ」と口々にいう社会。そんな言葉にすぐ引っ張られてしまう日本人に対し、“思想界の巨人”は、静かに「待った」をかけた。
まったく同感である。「脱原発」や「反原発」をいくら声高に叫んでみたところで、大衆の人気は得られるかもしれないが、それが有効な意見として採用されることはありえない。「脱原発」も「反原発」も、個人の思想信条としては無駄ではないだろうが、現実的にはほぼ有効性はない。原子力工学をはじめとする科学技術の発展と進歩は、誰にも止められない。文字通り自然過程だからだ。
(続く)
山崎行太郎インタビュー
存在論的国民論
ーー政治家は国民が育てるものだ。
しかも、心情倫理に対して責任倫理ということもウェーバーは言っている。政治には責任倫理が重要だと。責任倫理とは、言い換えれば結果責任ということだ。その意味で言うと、マスコミや国民のバッシングによる松本龍批判は、心情倫理を問題にしただけで、責任倫理、つまり結果責任を問うていない。松本は、むしろ結果に責任をとると言っている。国民の側に政治家に不可欠のウェーバー的な責任倫理という視点が欠如している。以前、政治家を語る時、よく使われた「清濁併せ呑む」とか「懐が深い」「腹が座っている」という言葉を国民もマスコミも忘れている。複眼的、重層的、つまり、存在論的視点を回復すべきだ。本居宣長は、「古事記」を読む前に、まず「源氏物語」を読めと言ったが、それは、道徳的読み方を捨てろ、ということだ。それでなければ「古事記」は分からないということだ。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20110714/1310599522
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