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http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2011/07/post_267.html
暴言問題で辞任した松本龍前復興担当大臣は辞任の記者会見で自らを「粗にして野だが卑ではない」と言った。被災者の神経を逆なでした発言で呆れられていた時だから、誰もその発言をまともに取り上げなかったが、私は菅総理に対する痛烈な批判と受け止めた。
松本氏は自らの発言が被災地の信頼を失った事を認め、その責任を取って辞任した。しかし自分は辞任するのだから「粗にして野だが卑ではない」と言ったのである。「卑」という言葉が出たのはなぜか。松本氏の頭の中には国民の信頼を失っても辞任しない菅総理があったのではないか。
そもそも松本氏は「菅総理は6月中に辞任すべき」と明言していた。閣僚の中でそう発言したのは松本氏ただ一人である。ところが菅総理は辞任せず、復興担当大臣の重責が松本氏に回ってきた。他に引き受け手がいなかったからである。望まれて任命されたのではない事を本人が一番良く知っている。固辞しても断りきれないと見るや「ならば私流でやりますよ」となった。
弱味を見せているのは総理である。自分は最高権力者より優位にある。サングラスをかけて「民主党も自民党も公明党も嫌いです」と記者会見しても総理は文句を言えない。被災地でサッカーボールを蹴るパフォーマンスを復興担当大臣の「キックオフ」にして、テレビカメラの前で「上から目線」の発言をしても菅総理は何も言えない筈である。それが松本氏の「私流」だった。松本氏にとってはさぞ気分が良かったに違いない。
「オフレコ」の命令にメディアが服従していれば問題は起こらなかった。しかし一社だけ服従しないメディアがあった。それで国民の知るところとなり、国民の反発は予想を超えた。もとより望んで就任した大臣ではない。辞任を決める時も任命権者に相談する気などさらさらない。自分の方が優位にあるのだから総理を無視した。そしてその気持ちが辞任しない総理を「卑しい」と言わしめた。
松本氏の辞任は菅総理にとって「寝耳に水」だった。「あの程度の暴言なら許容せざるを得ない」とおそらくは思っていた。辞めさせれば自分の延命に関わる。そして今や人事をやろうとしても誰も言う事を聞いてくれない。最高権力者と言っても既に権力はないに等しい。松本氏の後任を選ぶにも副大臣の昇格という選択肢しかなかった。権力者の威令が示された人事ではない。
このように菅総理の延命策はことごとく自らを追い詰めていく。国会の会期延長問題では野党はおろか与党執行部とも溝が出来た。「浜岡原発」の停止要請では地方自治体に不信感を抱かせ、「玄海原発」の再開問題で誰かから入れ知恵された「ストレステスト」がさらに不信感を増幅させた。そして海江田経済産業大臣との閣内不一致も露呈させた。
大震災からの復興に当って「政治空白」を避け、与党と野党、国と地方が協力体制をとろうとする時に、与党と野党、国と地方の間に不信感を植え付け、ただ一人「政治空白」を作ろうとしているのが菅総理である。菅総理の延命策が日本を機能不全に追い込もうとしていると見る事も出来る。
そのため政界では菅総理に対して「北風と太陽」が演じ分けられている。一方で強く退陣を迫る北風組と、もう一方では延命策を授けて総理を助ける太陽組がいる。しかしその延命策が菅総理を追い詰めていくのだから、太陽組が本当に延命させようとしているかは疑問である。太陽組の誘導に乗せるために北風を吹かせ、太陽でマントを脱がせる可能性も高いのである。
1年足らずではあるが菅総理の政治手法を見ていると、「ポピュリズム」以外に政治を知らない事が良く分かった。小さな政党に所属してきた生い立ちがそうさせるのかもしれない。この人は大組織を動かす術を全くと言って良いほど知らないのである。
政治家の仕事は政策を国民に訴える事ではない。政策を実現する事である。政策を訴えるのは学者でも評論家でも出来る。しかし政策を実現するのは政治家にしか出来ない。実現するためには反対勢力も含めて現存する組織を動かす必要がある。しかし小政党にいると大組織を動かすノウハウを習得する機会がない。メディアを使って国民に訴える以外に政治の方法を知らない。
そういう政治家は何が国民にとって大事かよりも、何を国民は望んでいるかに関心が向く。国民に迎合する事を優先して考えるようになる。これが欧米の民主主義が最も警戒し、最も排撃する「ポピュリズム」である。民主主義が難しいのは国民に主権を委ねながら、しかし国民の言うがままにはならない政治を実現しなければならないところにある。
古代ギリシャの昔から国民に迎合する政治は民主主義を破滅させる事が実証されてきた。近年ではナチスのヒトラーが民主主義的憲法の中から民主主義の手続きによって生まれてきた。国民の願望をメディアを使って盛り上げると国民の熱狂が民主主義を殺すのである。西欧では民主主義を「善」とは考えない。絶え間なく監視しないと「最悪の政治制度」になると考えている。
国民の願望に敏感な「ポピュリズム」総理は「脱原発」で解散・総選挙に持ち込もうとしていると言われる。「フクシマ」の惨状を見れば「脱原発」に国民の心が動く事は間違いない。しかし菅総理に解散権があるにしてもそれを実現する事は不可能だと私は見ている。
第一に果たして「脱原発」が選挙の争点になりうるだろうか。自民党や公明党が「原発推進」の政策を掲げ、「原発を今後も増やそう」と主張するとは思えない。これからのエネルギー政策の争点は何年がかりで「原発」を減らしていくか。そして何を代替エネルギーとするかという事だと思う。その青写真を今すぐ出せる政党はない。これから作るしかないのだから時間がかかる。仮にこの夏に「脱原発」をテーマに選挙をやるならば争点はインチキなものになる。
第二に菅総理が解散を決意しても賛成する閣僚がいるだろうか。閣僚が反対すれば総理は閣僚の首を切らざるをえなくなる。何人の首を切って閣議決定に持ち込めるか。考えただけでも恐ろしい。
昔、イギリスに「ブラディ・メアリー」と呼ばれた女王がいた。カソリック教徒のメアリー一世はプロテスタントを殺しまくったために「血なまぐさいメアリー」と渾名され、今でもカクテルにその名を残している。閣僚の首を切って解散する事になれば後世「ブラディ・カン」の名が日本の政治史に刻まれる事になるかもしれない。
私は不信任案が採決される前日の夜に菅政権の命脈は尽きたと思っている。それからの事はすべて次の体制を作るための移行プロセスである。菅総理が延命のために死力を尽くすのもその一要素であり、それらの力のベクトルを包み込みながら、政治は与党と野党、国と地方が協力体制を作れる体制に移行しつつある。メディアは菅総理に権力があると錯覚しているが、それは単なる一要素に過ぎず、過大評価すべきではないと思うのである。
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