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人の世に熱あれ、人間に光あれ〜部落の歴史と水平社運動〜
http://www006.upp.so-net.ne.jp/asao/suiheisha3.htm
水平社宣言
宣 言 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ!長い間いぢめられて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾等のための運動が、何等の有難い効果をもたらさなかった事実は、それらのすべてが吾々によって、又他の人々によってつねに人間を冒とくされていたばちであったのだ。そしてこれらの人間をいたわるかのごとき運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、この際吾等の中より間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは、むしろ必然である。 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。ろう劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮はぐ報酬として、生々しき人間の皮をはぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血をうけて人間が神にかわろうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。 殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯惰なる行為によって、祖先をはずかしめ、人間を冒とくしてはならぬ。そうして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、人間をいたわる事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。 水平社は、かくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。 大正十一年三月三日 全国水平社創立大会 |
水平社宣言(現代語版)
宣 言 全国に散らばっている、われわれ差別を受けている人々よ、団結せよ。長い間、いじめられてきた仲間たちよ、明治になって50年、平等だといわれても、実際はそうではなかった。同情やあわれみでは 差別はなくならないのだ。このことを思えば、今、われわれ自身から人間を尊敬することによって、自ら、自由と平等を求める集団運動を起こすのは、当然のことである。 仲間たちよ、われわれの祖先は、自由と平等を心から求め実行してきた者であった。きびしい支配政策の犠牲者であり、たくましく社会や文化を支えてきた者であった。心を引き裂かれるようなどんなにきびしい差別の中でも、人間としての誇りは失わなかった。そして、今、その犠牲者のわれわれが、差別を投げ返す時がきたのだ。われわれが、差別を受けてきた者であることを誇りうる時がきたのだ。 われわれは、自分自身を低くみたり、おく病になったりして、これまでたくましく生きてきた祖先をはずかしめたり、人間の尊厳をおかしたりしてはならない。人の世がどんなに冷たいか、人間を大切にすることが本当はどんなことであるかをよく知っているからこそ、われわれは、心から人生の熱と光を求め、その実現をめざすものである。 水平社はこのようにして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。 大正十一(1922)年三月三日 全国水平社創立大会 |
「水平社運動」とは何だろう?
1871年、明治新政府はいわゆる「解放令」をだして、江戸時代の「えた」身分や「ひにん」身分を廃止して一般の平民としました。しかし、それまで武士の支配に苦しんでいた百姓や町人の人たちの不満の「はけ口」として差別された「えた」身分や「ひにん」身分の人たちに対する差別や偏見がすぐに消えることはありませんでした。日本が欧米の資本主義の列強諸国の仲間入りをめざして産業や軍事力の向上をめざす中で、江戸時代の「えた」身分や「ひにん」身分とされた人々の地区は職業の選択や教育を受ける権利などを奪われ、経済的にも貧困の状態を余儀なくされたのです。それはすなわち「部落差別」として差別され続けていくことになったのです。
政府は「部落差別」の解消にむけて、部落内の衛生面や生活面などの改善を指示したり
(部落改善事業)、周囲の地区と自然にとけ込むような政策をとったりしました(融和政策)。しかし、このようなことで「部落差別」がなくなることはありませんでした。大正時代に入り、労働運動や農民(小作人)運動がおこり、自分自らが闘うという思想や風潮が生まれてくると、部落の人たちは、「このまま自然には差別はなくならない。自分たちが自ら立ち上がって真の部落解放をめざす」という考えを持つようになりました。奈良県にあった柏原の部落に住む西光万吉や阪本清一郎らの努力によって全国の同じ考えを持つ人たちが集まり、1922年京都の岡崎公会堂で「全国水平社創立大会」が開かれました。「水平社」とは「差別のない平等な社会をめざして闘う組織」という意味です。この大会で読み上げられた「水平社宣言」は日本で最初の人権宣言とされました。各地にできた水平社は部落差別をなくすあらゆる運動を展開していきましたが、この運動が「水平社運動」とよばれるものです。
荊冠旗
(西光万吉によってデザインされ、差別社会を表す黒地に解放への情熱を表す赤が使われた)
「部 落」 の 歴 史
には人々は「家族」あるいは「ムラ」を中心に自然の中で生活していました。祭りや占いなど呪術をあつかう特別な人はいましたが、基本的には「身分」はありませんでした。 今から2300年ほど前、大陸から稲作と金属器 りょうこ;天皇 12世紀末、源頼朝が鎌倉で幕府を開くと、将軍(執権)を中心とした武士の全国支配が進みました。武士など有力な領主に所属する人々の中には「下人(げにん)」「所従(しょじゅう)」とよばれ、売り買いされる奴隷あつかいされた人々もいました。また、このころ「人間は生まれによって尊い者と卑しい者に分かれる」という考え方が広まり、貴族、寺院、神社などに従属する人々の中にはきびしい差別を受けていた「非人(ひにん)」とよばれる人たちがいました 「河原者」は京都の賀茂川など文字通り、河原に住んでいましたが、特定の身分の人の支配下にはありませんでした。死んだ牛馬の処理をはじめ、皮細工、刑の執行、染色、井戸掘りなどの仕事に従事していました。また河原者の中には善阿弥(ぜんあみ)など、龍安寺や銀閣寺の石庭など庭造りをしていたり、三重県名張出身の観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)などのように猿楽を「能楽」という芸術として高めた者もいました。 コラム1「銀閣寺と又四郎」室町時代、庭造りの名人といわれた「善阿弥(ぜんあみ)」という人がいました。善阿弥は京都の多くの寺院の庭園をてがけ、当時から高い評価を得ていました。有名な京都銀閣寺の庭園も善阿弥と子の「小四郎」、孫の「又四郎」の3代によって完成されたのです。しかし彼らは差別された「河原者」の人たちだったのです。ある時、又四郎は親しかった相国寺の周麟(しゅうりん)というお坊さんに次のことをつぶやいたということが「鹿苑日記」という書物にでてきます。「私は人々から差別される立場にあることを心から悲しいと思う。ゆえに、誓って生き物を殺さないようにしているし、決して物に対して欲を出さないようにしている」 これを聞いた周麟は「又四郎こそ人間である」と言ったと言われています。 コラム2「観阿弥と能楽」 現在、日本が世界に誇る芸術である「能楽」は三重県出身の観阿弥(かんあみ)によって完成されました。観阿弥は鎌倉幕府が滅んだ1333年、伊賀上野に生まれ、小さい頃より奈良の猿楽師の家に預けられて、猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)、曲舞(くせまい)の勉強をしました。猿楽は太鼓や笛の演奏に合わせて、こっけいな物まねを演じる芸能で、田植えの時に演じられる田楽と共に当時の庶民の娯楽でした。 観阿弥は名張の小波田に猿楽の座を建て、猿楽を演じて生活をしていました。その後、奈良の結崎(ゆうざき)に移った観阿弥は、猿楽にせりふを言って舞う曲舞をミックスして「能」を完成させます。これは「大和音曲」とよばれ、興福寺や春日大社の祭礼で演じて好評をえました。これが当時の3代将軍・足利義満の目にとまり、子の世阿弥(ぜあみ)と共に義満のお気に入りとして保護されるようになりました。しかし、将軍のお気に入りといっても、当時、こういった猿楽や田楽などの芸能に携わっていた人々が差別されていたことには変わりありませんでした。 秀吉が命じた太閤検地とは土地を調査したもので、土地の面積や収穫量、良し悪し、耕作者などの記録が書いてあるのが検地帳です。その中に耕作者の横に「かわた」と書いてある検地帳が各地で見つかっています。「かわた」とは皮革業者をさすものと考えられますが、後の江戸時代にこの「かわた」の人々が「えた」身分になっている例から、すでに秀吉の時代から「かわた 「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは、「身分外」の身分、「排除された」身分とされ、他の身分の人々から「差別」によって遠ざけられ、時には人間としての扱いを拒否されていました。「えた」身分の人々は「百姓」村に隣接した「えた」村に住み、固有の職業として死んだ牛馬の処理や皮革の仕事があり、役負担 コラム3「伊勢まいりと差別された人々」 江戸時代の中頃から、人々は伊勢神宮にお参り(「お陰参り」という)することが流行しました。自由に旅行ができなかった時代の中で、一生に一回の旅行の人も多く、人々にとってはたいへんな楽しみでした。伊勢神宮かいわいは全国から人々が集まり、大変なにぎわいでした。 1812年、京都のある「えた」身分の人たち21人が身分を隠して、伊勢参りにでかけました。伊勢二見の旅館に泊まったのですが、そのことが後にわかってしまったのです。山田奉行所から二見の旅館の主人・六郎右衛門がよばれ、21日間の営業停止と共に次のことが言い渡されました。 「同じ旅館に泊まり、おなじ竈(かまど)の火を使って食事した者に21日間の謹慎、その者たちと同じ火を使って食事したものは7日間の謹慎、さらにその竈を取り壊し、使用した食器はすべて土の中に埋めよ」 「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは一般的に貧しいイメージがありますが、本当に生活は苦しかったのでしょうか。次の表は今の三重県A市にあたるB郡のある百姓村とそれに付属した「えた」身分の人たちの土地所有(石高)を比較したものです。 B郡のある百姓村と「えた」身分の土地所有(石高)比較 (総石高1122石) 0〜4石 5〜9石 10 15 20 25 30 百 姓 79 「えた」 9 ※平均石高・・・・百姓身分→12 これをみると、平均の石高は百姓身分の人たちの一人あたり約12石に対して、「えた」身分の人たちは一人あたり約17石も収入があったことがわかります。また百姓の人たちは30石以上の裕福な人 「えた」身分の人たちは普段は一般の百姓と同じく、自分の土地を耕して生活をしていたのですが、固有の職業として死んだ牛馬や皮革の処理があり、それを役負担として役所 コラム4「えた」身分と解体新書 前野良沢と杉田玄白が書いた「解体新書」は当時の医学書としては画期的なものでした。これはオランダの医学書「ターヘルアナトミア」を翻訳(ほんやく)したものですが、医学の基本である「解剖(かいぼう)」は行われていませんでした。前野良沢らは初めて人間の解剖を見ることになります。翻訳の苦労をつづった杉田玄白の「蘭学事始」には次のような記述があります。 このように医者でさえ行ったことのない解剖をいとも簡単に「えた」身分の人々がやってのけたのです。しかも内臓の名前もすらすらと言えました。 「おのおの連れだって骨ケ原(死刑場)に設けられた見物場にやってきた。解剖は「えた」の虎松(とらまつ)という者がことのほかうまく、前もって約束しておいた。しかし急に病気になったので、虎松の祖父で年齢が90歳の者が代わりにやってきた。彼も若い頃より解剖は度々やっており、今まで数人を手掛けてきたと話している。」 一方「解放令」によって、それまで死んだ牛馬の処理や皮革の仕事が特権として保 「解放令」障されていたものがなくなり、だれでもできるようになり、仕事が奪われていきました。また富国強兵、殖産興業という新政府の政策の中で、農村では土地を手放して小作になる部落の人々も増え、生活は江戸時代よりももっと苦しくなっていきました。部落の人々は日雇いにでたり、内職で生活をつないでいきました。マッチ工場などの危険な仕事、と場などの人々から敬遠された仕事につく人も多くいました。 そのような中で、部落差別の問題が社会問題として取り上げられることも多くなりました。しかしそれは部落の生活環境を変えれば差別はなくなるという考えで、各地で警察などが中心となって部落内の衛生面や、衣服、言葉使い、生活習慣の改善を進めていきました コラム5「五万日の日延べ」 1871年、いわゆる「解放令」がだされました。奈良県岩崎村の「えた」身分で庄屋であった阪本清五郎の所に「明日10時に役所に出頭せよ」との命令がきました。清五郎は「朝の呼び出しは縁起がよい、きっと何かいいことがある」と、翌朝、羽織を着て、喜んで役所のあった高取城に向かいました。普段は通れない大手門から通され、奥の屋敷の土間に行きました。そこにはすでに他の百姓村や「えた」身分の庄屋が多数いました。そして役人がやってきて「解放令」を読み上げ、「これからは皆、平民となったので仲良くするように」と言い渡し、酒を飲んで返されました。清五郎は嬉しさで夢のような気持ちで、走って村に帰り、人々を集めて「解放令」のことを知らせました。男も女も歓声をあげ泣きながら喜び合いました。 しかし3日後、清五郎はこの付近を支配する百姓村の大庄屋から呼び出しをうけ、「この前の『解放令』のことだが、お上の都合で5万日の日延べ(延期)になった」と言われたのです。しかしこれは大庄屋のウソでした。 コラム6 上田音市さんの見た「大日本平等会」 私(上田音市)が大日本平等会の発会式があるのを知ったのは、役場に貼られてあった通知でした。自弁でしたが、同じ車夫仲間の北村庄太郎さんら5名で大阪に行きました。会場では大阪府の知事や大阪市長などが次々とあいさつをしました。内容はど れも愛国と皇室への忠勇に基づく融和を説くものでした。差別の現実に直視しないこの内容は部落の人々にとっては大変不満足なものでした。 しかし、会も終わりにさしかかった頃、二階から突然、五色のビラが花吹雪のようにまかれたのです。会場は騒然としました。私もビラを拾ってそれを見ると「京都全国水平社創立大会へ! 同情的差別撤廃を排し、部落民の自発的運動を起こして・・」と書かれてありました。今日の大会に不満を持っていた私は、すっきりともやが晴れた思いでした。このビラがまかれた後は全くの骨抜きの会となりました。 会が終わっても私たちは会場に残りましたが、その後は奈良の西光万吉さんの演説が始まり、部落みずからの解放を訴えるなど同情的差別撤廃に反対する演説会が行われたのです。残っていた多くの者が歓声をあげました。その夜、私は天王寺駅近くの宿で西光万吉さん、泉野利喜蔵さん、駒井喜作さんなどと水平社について話し合い、3月3日の創立大会で再び会おうと約束して、翌日、松阪に帰りました。 7.水平社創立大会 この歴史的な水平社創立大会は午後5時すぎに終了しましたが、会場を出る人々は互いに肩を抱き合い、顔からは勇気と希望がうかがえました。この水平社創立のニュース 綱 領一、特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す一、吾々特殊部落民は絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し、以て獲得を期す一、吾等は人間性の原理覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す 大正十一年三月 全国水平社大会 その後、各地に都府県単位の水平社が組織され、全国水平社はそのまとめ役として活動しました。本部は京都に置かれ、初代執行委員長には南梅吉が選ばれました。 京都府水平社、埼玉県水平社、三重県水平社、東京水平社、奈良県水平社、大阪府水平社、愛知県水平社、兵庫県水平社、 高知県水平社、関東水平社、群馬県水平社、静岡県水平社、愛媛県水平社、 全九州水平社、山口県水平社、岡山県水平社、和歌山県水平社、佐賀県水平社、福岡県水平社、熊本県水平社、広島県水平社、栃木県水平社 大分県水平社、東海水平社、茨城県水平社、長野県水平社、岐阜県水平社、香川県水平社、全四国水平社、千葉県水平社、 コラム7「西光万吉と水平社宣言」 日本最初の人権宣言といわれる「水平社宣言」が西光万吉によって書き上げられたことはよく知られています。当時の社会状況を反映して社会主義思想(特に佐野学の論文を引用)を取り入れていますが、また自分自身が西光寺で生まれたということから仏教の思想も多く取り入れられています。特に最後の「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」は西光の差別に対する願いそのものだったのでしょう。 西光が宣言の原稿を考えていたある時、京都・教専寺の坂口真道に宣言の内容の検討を依頼しました。元の原稿が長かったことから坂口は次々と草稿を削除していきました。その時、西光は「あかん、これは消したらあかん!」と言い、「『特殊部落民』という言葉は消してはあかんのや!」と坂口に詰め寄りました。坂口は「この言葉を使ったら自分から認めることになるやないですか、『特殊部落民』という民族が日本にいるみたいやないですか!」と反論しました。そうしたら西光は「坂口さん、この『特殊部落民』いう言葉を消したら、この水平社運動の本当の意味がなくなる。われわれの長年の差別が、長い間、何百年も苦しめられてきたことが、少しも意志が表に出ないじゃないですか!」とこれだけは頑として受け入れなかったそうです。 創立大会で配布された綱領、宣言、決議 8.水平社の闘いとその後 【福岡連隊差別糾弾闘争】 【厚生小学校差別糾弾闘争】 【 1933年、香川県である部落出身の青年が19歳の女性と知り合い、結婚を前提に同せいをはじめました。しかし結婚に反対する女性の父親が捜索願を警察に出し、この青年は誘拐 万吉と同じ奈良県柏原(旧:岩崎村)で生まれる。家は膠(にかわ)業を営み、祖父は「五万日の日延べ」で有名な庄屋の清五郎である。2つ違いの万吉とは小さいときから親友である。小学校時代は自分や友人が差別を受けると相手に殴りかかっていくほどの気が強い、腕白ぶりであった。16歳で、いとこの坂本清俊らと「柏原青年共和団」を結成した。1 916年に上京して工科学校に入学し、西光と共同生活をはじめる。東京では学校の勉強よりも図書館で写真フィルムや歴史、文学について学んだ。しかし翌年、西光が病に倒れると二人は柏原に帰郷した。西光、駒井らと「燕会」を結成、水平社創立の中心的な役割を果たした。「水平社」の命名は彼だといわれている。水平社では常任中央委員として、全国の差別事件の糾弾闘争の指導にあたり、特に大衆的団結を訴え、水平社の分裂を回避することに努力した。戦後は部落解放全国委員会顧問、部落解放同盟中央委員として部落差別をなくすために生涯をささげた。 左から西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作 奈良県五条市でうまれる(本名;米田富一郎)。大阪で開かれた大日本平等会創立大会では、会場で水平社創立大会を知らせ るビラをまいた。水平社創立のために努力し、創立大会では「決 議文」を朗読する。水平社では本部の中央執行委員として全国 をかけめぐり、特に水平社発行の機関誌「水平」の出版責任者 となった。また在日朝鮮人運動や「衡平社」との交流など国際 連帯に力をそそぐ一方、1933年におこった高松差別裁判糾 弾闘争では請願隊代表者団長として中心的な役割を果たした。 時代は明治から大正時代に移ったころで、護憲運動や米騒動などの社会運動を目にした音市さんは、社会の矛盾に気づき、社会運動に関心を持つようになりました。上田音市さんたちは軍人による差別発言に対する抗議をきっかけに部落の青年を中心に「徹真同志会」という組織をつくりました。この団体は差別の糾弾と共に部落の改善もめざしていました。 「来る三月三日、京都全国水平社創立大会へ! 同情的差別を撤廃せよ!」 3.三重県水平社の成立 三重県水平社創立の決議(1922年4月2日)一、われわれに対し、エタや昔呼び方で侮辱された時は、徹底的に糾弾する。一、われわれの各部落の統一をするために、全国水平社連盟の本部と同じ雑誌(水平)とパンフレットを発行する。一、われわれは水平社をつくっていない所へは、水平社の設立をすすめるための巡回講演部をつくる。 大正十一年四月二日 三重県飯南郡松阪町中座 三重県の部落は小作人が多いこともあり、三重県水平社の人たちが中心となって小作人の団体である「日本農民組合三重県連合会」が1923年に結成され、小作料の引き下げなどを要求していきました。一方、水平社が社会主義思想と結びつくと、水平社が中心となって「労働農民党三重県支部連合会」が組織され、労働者とも連帯することになりました。こういた「被差別部落」「農民(小作人)」「労働者」の三者が一体となって社会運動(「三角同盟」とよばれた)を進めていった団体は珍しいものでした。 1927年、津刑務所に服役していた松阪の部落出身の青年が、看守から「えた」という差別発言を受けました。それに対して抗議に行った三重県水平社の人たちに対して、謝罪するどころか今度は所長が「『えた』を『えた』といって何が悪い、抵抗するやつは皆、監獄へぶちこんでやる」とまた差別発言を行ったのです。これに対して水平社の人々は大規模な闘いをしていきました。松阪では数百人参加して三重県部落民大会が開かれました。差別は絶対に許さないという方針で、徹底的に闘い、東京の司法省にまで訴えました。ついに所長などから謝罪の言葉を勝ち取ることに成功しました。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/asao/suiheisha3.htm 上田音市さん 三重県水平社大会(第2回) 【津刑務所差別事件】
日本列島が大陸とつながっていた時代(旧石器時代)から、約1万年前、日本列島が形成され、土器が使われるようになった時代(縄文時代)
紀元3世紀中ごろになると、大和(今の奈良県)や河内(今の大阪府)を中心に強大な統一国家(ヤマト王権)が誕生します。これが古墳時代です。ヤマト王権は各地の王たちの連合政権で、その頂点にたっていたのが「大王(おおきみ)」でした。大王や各地の王は「古墳」と呼ばれる墓をつくり、権力の大きさを誇示しました。この時代は一層、支配のしくみが強まりましたが、一方で、朝鮮半島からすぐれた技術をもった「渡来人(とらいじん)」がやってきて、日本の技術や文化を高める役割をはたしました。
7世紀に入ると国の名前は「倭」から「日本」に変わり、大王は「天皇」とよばれて天皇中心の国家づくりをはじめました。遣隋使や遣唐使たちによって中国から「律令制度」を取り入れられました。「律令」によってすべての土地と人々は天皇=国家のものとなり(公地公民)、人々は「良(りょう)」と「賤(せん)」に分けられました。「良」は藤原氏など一部の貴族と大多数の農民(公民)で、一定の土地(班田)が与えられました。「賤」は人口の約7%を占め、社会の中で低くみられた身分で差別されていました。「賤」には5種類(五色の賤)あり、陵戸(
平安時代の延喜年間(901〜922年)に奴婢(ぬひ)の制度は停止され、制度の上では「奴隷身分」は無くなりました。この時代には律令制度がくずれ、新たに私有地である荘園制度が発達してきました。また武士が登場して力を持ってくると藤原氏などの貴族と共に多くの荘園を持つようになりました。農民などの人々は次第に有力な貴族や武士の荘園の中でかかえられて生活するようになりました。
14世紀、室町時代に入ると、将軍の力はおとろえ、各地の守護大名や戦国大名が力をもつようになりました。またそれに伴い、一般の民衆の力も強まり、「土一揆」とよばれる民衆が団結して色々なことを要求していきました。加賀(今の石川県)では一向宗の門徒たちが守護大名を追い出し100年間も支配しました。
「非人」とよばれていた人たちは住む場所や仕事の内容によって「河原者(かわらもの)」「散所人(さんじょにん)」「坂(さか)の者」「宿(しゅく)の者」「声聞師(しょうもんじ)」に分かれていました。彼らは天皇や貴族、寺院や神社に属していて、町の清掃や葬儀、犯罪人の取り締まり、皮や履き物の製造、庭づくり、猿楽などの芸能の仕事に従事していました。当時一般の人々は荘園や「惣(そう)」などの共同体で中で生活し、農業や漁業など何か具体的なものを「生産」する人々が通常とされ、目に見えない経済活動(商業活動など)や芸能活動は一般的に低く見られていました。従って共同体に属さず、それらに携わる人々が差別されていたのです。また、当時の人々は「死」や「血」、「お産」などに対して異常に畏れをいだき、それに触れたり、見たり、それを経験すると「ケガレ」たと感じました。その「ケガレ」を「キヨメ」てくれる人々が必要でした。その人たちが「非人」の人々だったのです。
中世のこういった人々は、政治的あるいは制度的に固定された「身分」ではありませんでしたが、人々の「ケガレ」意識に基づいて、周囲より「排除」されていく中で差別されていったと考えられています。
戦国時代は下剋上(げこくじょう)の世の中でした。下剋上とは実力主義により、下の身分のものが、上の身分のものにかわることをいいます。この時代は各地で一向一揆などがおこり、民衆の抵抗によって戦国大名を苦しめました。しかし天皇は力は無くても権威(けんい)だけはあり、各戦国大名も天皇の権威を利用していました。
織田信長によって統一が進み、それを受け継いだ豊臣秀吉によって天下が統一され、戦国時代は終わりました。時代は中世から近世へと変わっていきました。秀吉は支配を維持するために身分制度を確立する必要がありました。それは太閤検地、刀狩令、身分令などを実施する中で兵農分離を進めましたが、土一揆や一向一揆をなくすねらいもありました。これによって武士と農民の身分が確定し、身分と職業、住居などが決まっていきました。
(かわや)」と呼ばれていた特別な身分が存在していたであろうとされています。「かわた」とよばれた人たちは、皮革の仕事の他、牢屋の番や掃除、刑場の仕事が役負担として強制されていました。【長州藩】 正徳3(1713)年 「えた」などが悪事を働かぬように監視すること。居宅や衣類など男女共おごりがましいことをさせぬこと。他国の「えた」や遊芸人が村へ来たら必ず代官所に届けでること。 【岡山藩】 享保7(1722)年 「えた」が西国巡礼を願いでたら「他所にて平民にまぎれる」として不許可にした。 【広島藩】 享保11(1726)年 革田(かわた)の風俗が奢侈となり、身分不相応な衣類を着ることを禁止する。 【津藩】 寛保2(1742)年 「ひにん」や盗人がうろついていたら村で勝手に絞殺したり、入墨をして追放したりすることを許可する。 【大洲藩】 寛政10(1798)年 「えた」身分の7歳以上の男女に五寸四方の毛皮をつけさせ、居宅の入口にも毛皮をつるさせた。 計 20人 16人 11人 17人 13人 1人 2人 5人 2人 決 議一、われわれに対し「えた」及び「特殊部落民」等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は、徹底的糾弾をなす一、全国水平社京都本部においてわれら団結の統一を画するため、月刊雑誌「水平」を発行す一、部落民の絶対多数を門徒とする東西両本願寺がこの際、われわれの運動に対して包蔵する赤裸々なる意見を聴取し、その回答により機宣の行動をとること。右決議す 1922年 1923年 1924年 1925年 山梨県水平社 1928年 長崎県水平社
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