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(回答先: 50年のあゆみ 前史(〜1952年) 電気連合 「原発推進巨大労働組合の変貌」 投稿者 愚民党 日時 2011 年 7 月 04 日 05:18:17)
50年のあゆみ
1953年
5月29日、電機労連の結成大会が山梨県甲府市の県会議事堂で開催された。
結成大会の最終日には、新生電機労連の舵取りを委ねる中央執行委員の選挙が行われたが、議事が紛糾して夜中の11時になって第1期執行部が選ばれた。
生まれたばかりの電機労連は、独自に会館をもつ力がなく、本部は硫労連会館に間借りしてスタートした。
電機労連結成に何組合が参加したか?資料によって異なるので、結成時の組合数を検証してみると…
総評内部では、早くも高野VS太田の路線対立。その陰にソ連を平和勢力とする平和勢力論と第三勢力論のイデオロギー闘争があった。
全繊同盟、海員組合、日放労、全映演は、アヒルに化けた総評に見切りをつけ、4単産が総評を離脱した。
電機労連結成初の秋の53賃金闘争は“喰える賃金”を要求した。
電機労連の結成大会
電機労連の結成大会は、1953年5月29日から、3日間、山梨県甲府市県会議事堂で開催された。これに先立って、機器電機労連は5月26日、第2回定期大会で解散方針を決定し、翌27日解散大会を挙行した。また、全国電機労組も5月27日、解散大会を挙行した。この両労組とともに電機労連に参画することになった東芝労連と、さらに電機の新組織に馳せ参じた中立組合ともども、ここに電機労働者が大同団結することとなった。
この大会に、参画した各組合の組織実勢は次の通りであった。
電機労連結成時の組織実勢
旧組織名 組合数 組合員数
全国電機 22組 26,537人
機器電機 11組合 49,530人
東芝労連 1組合 15,569人
その他 3組合 1,920人
合計 37組合 93,556人
大会に招集した代議員数は267人、このうち初日の朝の出席代議員は178人、委任13人であったが、午後になって2組合追加して、出席代議員229人、委任17人の計246人であった。また、電機労連の結成に参加した組合数は37組合、組合員総数は9万3,556人と発表され、初代の中央執行委員長には機器電機から日立労組の白石恵一を選任した。
第1期の執行部体制
大会3日目の議事は、新生電機労連の進路を委ねる中央執行委員会を選ぶ役員選挙に充てられた。議事は朝から行われ、選挙管理委員会の選出、選挙立会人の任命まではつつがなく進んだが、結成委員会の役員選考状況の報告がなかなか行われず、昼食をはさんで休憩ということになった。その後選考小委員会から「万歳大会にすべく機器・全国・東芝の三者の委員長に調整を依頼したが、なかなかまとまらず選挙することにした」と報告されると、会場から「初めから選挙でやれば」という声があがった。
その後4時半に再び休憩に入り、午後7時に再開し、「当初機器4・全国電機3・東芝1・中立1の体制で調整したが、まとまりがつかないので、9人の定数を1人増やしたい」と再提案、またこれをめぐって紛糾と、ようやく深夜の11時を過ぎて初代中央執行委員長白石恵一(日立)以下10人の役員を選んで終えた。
本部は“硫労連会館”
結成なった電機労連は、事務所を東京都港区芝本芝3丁目20番地に置くことにした。誕生間もない電機労連としては、独自に事務所を設けることができず、当時の硫労連(後の合化労連)の会館の2階に間借りすることになった。場所は、現在のJR田町駅前の第一京浜国道沿いにある「西郷南洲・勝海舟会見の場」という石碑そばの路地を入った東海道線の線路際に建つ木造であった。
この硫労連会館には、電機以前から鉄鋼労連が間借りしており、この木造家屋には合化の太田薫、電機の竪山利文、そして鉄鋼の書記局には、後の日本共産党議長になる不破哲三など、そうそうたる人々の若き日の姿があった。
検証・結成時の組合数
1953年5月29日の電機労連結成大会に参加した組合は、『電機労連運動史』によると第1巻では37組合と36組合、第2巻では36組合、第3巻では37組合、第4巻では36組合とまったく数字が不統一となっている。このため、傘下組合の運動史をみても基本的に電機労連の運動史、資料を参考としているためほとんどが37組合となっている。
実際に何組合が正しいのか、≪原典≫をみると(1)第1回結成大会議事録によると、組合総数37組合中出席34組合で2組合が加盟決定はしているが機関処理が遅れ欠席、1組合については触れず。(2)第1回中央委員会(同年8月9日)議案の経過報告では「結成大会時加盟組合数に不明確な点が多々あった。その後、正式加盟組合数を把握した」として加入36組合、手続き未了2組合、加入準備中1組合と明記している。そして議案書掲載の組合一覧表の記載は39組合あるが36組合の組合員数が報告されている。(3)同議事録では3組合が加入していないことが明らかとなっている。以上のことから推測してみるに、1組合が加盟申請をし6月分の会費も支払ったが、最終的には加入しなかった(第2回大会会計報告では削除されている)ことになる。当初37組合のうち34プラス2で1組合がふれられていなかったのはこの組合(立石電機)を指すと思われる。よって、正式には36組合といえる。
高野VS太田の路線対立
朝鮮戦争が起こった1950年に結成の総評は、本来、反共を旨とし、親米、労使協調的な運動を進めるものと、当時のGHQ(米占領軍総司令部=東京・日比谷の第一生命ビル)は信じていた。ところがエーミス労働課長の「民主的労組の結成を歓迎する」という声明と裏腹に、総評は第2回大会で「平和四原則」という中立、というよりかなり反米的な左翼、戦闘的路線を打ち出したため、米軍はがっかり。米軍機関紙は「鶏かと思って卵から孵してみたら、生まれてきたのはアヒル、それもレームダックだった」と酷評して、当時の流行語にもなった。当然、反共を基本に結集した組合からは独裁的な高野実事務局長の指導にさまざまな不満が噴出、その頂点とも言えるものが、運動の基本路線についての太田薫合化労連委員長との激しい抗争だった。
「昔陸軍・今総評」と、現在でも権力の転変をたとえた名言を聞くことがあるが、これはもともとは毎日新聞の陸軍省担当だった花形記者が嘆きとして発した言葉だ。敗戦でポストを失い、労働担当に配置換えになったあと、高野事務局長全盛期の総評と、かつての陸軍とを引き比べた自嘲のせりふだった。よく太田薫総評議長−岩井章事務局長のコンビ時代を象徴する言葉として伝えられているが、これは誤伝である。高野事務局長時代は後の太田−岩井コンビよりカリスマ的で「高野天皇」というあだ名もついたりした。闘争方針の特徴は、地域ぐるみと長期化する過激なスト、かつ政治体制変革の革命の志が熱い。
一方、太田氏が主張していたのが、生産現場を原点とする産業別統一経済闘争である。つまり今の春闘の原形だ。またこの争いに輪をかけたのが、「平和勢力論」対「第三勢力論」という世界の社会主義勢力を巡る評価についての意見の衝突だ。スターリンの死後、総評第4回定期大会で、高野派はソ連を総評と手をたずさえていける平和の同志として扱うべきだと言い、太田派は米ソのいずれからも中立−第三勢力であらねばならぬと主張した。
4単産が総評離脱
そんな総評の“アヒル”への変身に早々と見切りをつけて別の道を選んだ組合もあった。民労連系4単産と当時いわれたもので、後の全労−同盟結成の母胎となる。1953年を振り返ると、労働運動として、一つは容共に近い高野路線のイデオロギー優先型運動、一つは後の社会党左派の主流としての太田系を含む民主化同盟(民同)左派と呼ばれるグループ、そしてもう一つが友愛会議まで続く労働組合主義の本流を名乗る旧民社党系の血筋とに枝分かれする大きな節目の年だったといえそうである。このあと間もなく中立労連という第四勢力が存在感を増すのもこんな底流があったからだろうか。
民労連の中心の4単産とは、全繊同盟(現・UIゼンセン同盟)、海員組合、日放労、全映演。総同盟などを含む民労連(全国民主主義労働運動連絡協議会=2月14日結成)はその名のとおりの連絡機関で、その意味では後の中立労連の先輩だが、全繊と海員、総同盟は翌年に連合体の全労−同盟の中核となった。この年さらに労働にまつわる出来事を拾うと、電力など保安が重視される産業部門の争議を制限するスト規制法が成立、日産自動車の第一組合が完敗するなど、政府・経営者の反撃も厳しさを増している。また石炭産業も朝鮮戦争を境に石油によるエネルギーに代替する傾向が強まり、炭労ストが多発した。
53年賃金闘争
記念すべき1953年の議案書は賃金の具体的な方針について「労働者の賃金値上要求理由は(1)喰って行けないから喰えるだけの賃金を貰いたい、(2)米や交通費が上がったから、賃金を上げてくれ、(3)米代は1,000円だ。家賃は2,000円だ。教育費は2,000円かかる。だからしめて2万5,000円の賃金を要求する」とし、「労働者の生活に必要な全ての生活必需品と諸経費を賃金とすべきだ」という賃金原則・・・即ちマーケットバスケット方式による賃金要求が今後の賃金闘争の基本的方向であると高らかに宣言した。さらに「労働条件・労働環境に即応する業種別・産業別賃金の確立を図り職階給制度と闘い、報償制を排除し、一週42時間制度、年齢給制度を獲得する」、最低賃金は16歳8,000円、退職金は55歳から65歳までの生活費とし、今後の賃金・退職金闘争は統一された労働者の共通の要求として企業別闘争の性格から脱却し、産業別統一要求としていくことを明記した。
そして8月の第1回中央委員会において、秋季賃上げ闘争として標準賃金2万864円の要求を決めた。この要求根拠は、資料として詳細な内容が次のように出されている。(1)理論生計費の採用 (2)飲食物量方式(エンゲル系数方式)の採用(3)標準5人家族構成の採用などを実態分析し、結果として電機労連標準生計費は1万9,196円38銭、これに所得税の1,668円を加えたものである。
闘いは電機労連の共同闘争だが、今後の闘いの前進のための橋頭堡を築くため各段階で能う限り統一行動をもつこととした。そして本部の諮問機関として全組合による戦術委員会を設置した。要求提出は9月15日、スト権確立20日、闘争のヤマ場を10月1日から10日の間に置いた。20組合が闘争に参加した。
共同闘争ではあったが、初めての電機労連の闘いとして意欲的に進められた。会社は当初完全拒否の姿勢で、このため10月14日の戦術委員会は17日36時間スト決行を指令した。しかし、16日深夜に回答が出されたため17日午前2時に行われた戦術委員会は出席者少数のため不成立となった。このため重電5組合の委員長会談により「今後は各組合の自主的な交渉行動に移行」を本部に申し入れ、闘争体制は終了した。平均的には2,500円の要求に対し、多くの組合で400〜800円台の回答が出された。
http://www.jeiu.or.jp/history/1953/
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