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(回答先: 小沢氏「勉強せず偉くなったヤツばっか」と批判 (読売新聞) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 7 月 03 日 18:46:02)
http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2006/ar20060127163706.html
「小沢一郎ウェブサイト」のAERA '06.1.23記載「小沢一郎 思想政治家で終わるのか 」を下記に転載投稿します。
=転載開始=
AERA '06.1.23
ぶれない。迎合しない。愛想がない。袂を分かった政治家も少なくない。政治の理想をブルドッグの佐重喜に、政治の現実はブルドーザーの角栄に学んだ。権力の裏の裏まで知り尽くす最後の政党政治家。「総理にしたい人物」のランキングには必ず名前が挙がる。果たして、在野のまま「思想」に殉じてしまうのか。
小沢一郎が自民党幹事長に就任したのは1989年(平成元年)、海部内閣の下、47歳の日であった。以降の主たる肩書を追えば、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表代行ということになるが、激動続く平成時代、政局のキーマンだった。権力中枢にあって差配を振るったという意味では、竹下内閣での官房副長官時代も含めるべきかもしれない。ともあれこの二十余年、この政治家が永田町の震源であり続けてきた。
剛腕、リアリスト、壊し屋……多くの異名が授けられている。小沢が永田町を仕切るに長けたプロ政治家であることは疑いない。ただ、それは一面であって、もうひとつ保持してきたのは、日本の政治家には稀有の、〈思想〉を宿す政治家であったことである。そこに彼の政治的パワーの源泉もあったのではないか。
思想の源にあるものはなにか、どこに由来しているのか。それを解きほぐすことを通して、政治家・小沢一郎の核心に迫ってみたく思う。
勉強も運動も優秀な少年
確かな故郷を持つ政治家
踏みつけられた者の視点
人の思想は、生来の資質に拠るところが大であるが、さまざまな外部環境が付与されて輪郭が形成されていく。基底部を形づくったのは代議士だった父・佐重喜と母・みち、および故郷・岩手であるように思える。
岩手県水沢市袋町。通りに面した生家は残っていて、増改築されてはいるが、地元の小沢事務所としていまも使われている。奥行きがあって中庭があるが、ひっそりとしたたたずまいの旧い日本家屋である。中学2年まで、この家で小沢は育っている。
周辺は、いまは家々が並んでいるが、少年期だった昭和20年代、田んぼと畑が続く農村地帯だった。父はあまり東京から帰らず、母、3歳上の姉との暮らしが続いている。
代議士の子といえばお坊ちゃんを連想するが、着ているものも食物も近所の子と同じ。毎日、泥だらけになって「陣地取り遊び」に興じていた。みちはいわゆる明治の女。男の子は泣くな、いいわけするな、卑怯であるな、と古風な美徳を教え込んだ母だった。
勉強ができて、相撲やスポーツも得意だったが、ガキ大将でもなければ喧嘩好きでもな い。小・中学の同窓生は「一ちゃん」をそう語る。シャイで、余計なことは口にしない――。そういう原質はいまも引き継いでいる。
農業者、酪農家、住職、工務店経営、元学校長……佐重喜の代からの支援者の家々を訪ねた。しばらくは口が重いが、やがて、一つか二つ、私を笑わせてくれるユーモアにおいて共通していた。
岩手米の銘柄はひとめぼれ。味は新潟のコシヒカリに負けないといわれるが、全国的なブランド力はいまひとつ。「宣伝が下手だからよくは伝わんねぇ。一郎と同じだ。あの無愛想でよく政治家が務まってきたもんだ」というように――。
岩手を訪れたのは05年11月半ば。山手に行くと、曇天の空からはや冷たいものが降ってきた。東北の冬は長い。貌戸手の指に暮らしがにじみ出た人々。人とその風土にどっしりしたものはある。
米づくりは人にまかせてはいるが、小沢はいまも4反余りの田を保持している。横須賀を地元とする小泉純一郎に比していえば、重いが、また確かな故郷をもつ政治家である。
小沢は赤坂のマンションに個人事務所を持っている。机に一枚、写真が立て掛けてあった。原敬。朝敵・岩手南部藩の出身。藩閥政治に抗し、はじめて政党政治の扉を開けた。東京駅で凶刃に斃れたが、もう少し長生きしていれば昭和史は変わっていただろうと言われている。
中世から明治維新まで、東北の歴史に勝ち戦はほとんどない。小沢とのインタビューのなかで靖国問題が話題に出たとき、踏みつけられた地の側からの視点というものは感じた。
「戦犯という名は勝者がつけたものだからさておいても、A級戦犯の連中、東条英機や板垣征四郎は岩手県人だけれども、外国からいわれる以前に、彼らを僕は許せない。生きて虜囚の辱めを受けずと教え込んで三百数十万を死なせた張本人じゃないか。靖国に祭られるべき存在じゃない。岸信介にしても戦後は仏を供養して過ごすべき人間です。僕がこんなことをいうとびっくりする人がいるんだが、本心、そう思ってるんだ」
父親は立志伝中の人
司法試験準備中に立候補
酔っ払って帰宅後も読書
水沢の隣町、北上市で呉服店などを営む小笠原直敏は、小沢選挙のすべてにかかわってきた。佐重喜の最後の選挙の際は日大の学生だった。体が弱った佐重喜は雪道を歩けず、車から立会演説会の会場までおぶった。
佐重喜の渾名は「ブルドッグ」。面構えは強面だったが、苦労人らしい、気配りのある男だった。当時の選挙区は広い。夕刻、北上山系に入ると日がとっぷり暮れている。山に向かって連呼を続ける小笠原たちに、こういった。
「こんな山ン中、人など住んでおらん。連呼などいい。寒いからみんなで赤トンボを歌おうや」
佐重喜は少年期、東京で奉公をするため郷里・水沢を離れた。苦学して日大夜間部を出て弁護士となり、東京の下町を地盤に府議をつとめた。戦後、岩手選出の代議士となり、運輸大臣などを歴任、安保の乱闘国会では「闘牛」ともいわれた。叩き上げの、立志伝中の人である。
中学3年、小沢は東京に転居する。小沢に映る父は、政界の上昇階段を上りつつ、終生、エスタブリッシュメントに馴染じめない男だった。不器用で、地金に反骨の性根があった。そういう父が好きでもあった。
佐重喜死去の後を受け、日大大学院で司法試験の準備をしていた小沢が立候補する。27歳。〈東北〉と父の後ろ姿は小沢のDNAを構成している。
政治家を志したのは高校生のときである。父の存在はあったけれども、たとえ二世でなくても選び取ったろうという。弁護士は出馬するまでの借り住まいという胸算用であったが、法律の勉強はすいすいアタマに入る。小沢のもつ論理的明晰さは天性のものであろうが、法律に馴染んだことがそれを磨いたように思える。
青年期から小沢は読書家だった。
どんな本を読んできましたか、という問いにあがった名を列記すれば、北一輝、ドイッチャー、マルクス、ウェーバー、ドイツ革命・ロシア革命・中国革命に関するもの、ドゴールやチャーチルの回想録……など。後年、好みは歴史物語に移っていった。先頃、鞄に入っていたのは半藤一利の『昭和史』。小沢はインテリゲントな人である。
先の総選挙で落選したが、小沢チルドレンの一人、樋高剛は世田谷にある小沢宅で十年余、書生をつとめた。仕事のひとつに、塩野七生や司馬遼太郎の新刊本が出るたびに買いに出向くことがあった。夜、酔っ払って帰宅してからも小沢は本を開く人だった。小沢によれば、いまはもう酒が入ると寝てしまうということであるが。
人はだれも本を自身に引き寄せて読む。小沢から伝わってくるのは、時代の大きな流れ、「興亡史」を読み取る読書である。
田中角栄が太鼓判押す
頭は西洋人、心は日本人
難しい情と理の使い分け
先の選挙で落選した民主党前代表代行の藤井裕久は、自民党分裂から民主党合流まで、終始、小沢と歩みを共にした一人である。大蔵省の出身。はじめて「小沢一郎」の名を刻んだのは官僚時代、田中角栄からである。何かの会合で角栄の言を小耳に挟んだ。
「小沢一郎というのはえらくなる。あれはそこらの連中とはモノが違う」
角栄が小沢を格別に可愛がったことはよく知られている。夭折した長子の再来を小沢に見たからだともいうが、付随的なことだろう。角栄は小沢のもつただならぬ天稟を見抜いていたのだろう。
「オヤジ(角栄)は僕には何も隠さなかった。表も裏も私ごとも一切合財を含めて。いまもいえないことばかりですけれどもね……」
小沢にとって角栄はもう一人の父だった。政界では若造に過ぎない40代、幹事長として縦横に政局を仕切り得たのは「免許皆伝」まで達したオヤジ直伝の術を習得していたからである。
その意味でいえば、小沢は戦後自民党のただなかで育った政治家である。同時に、角栄の愛弟子は、角栄的世界からもっとも遠い思想を宿した政治家でもあった。小沢は反面教師としてもオヤジから多くを学んだはずである。
角栄門下生のなかで、ロッキード裁判をすべて傍聴したのは小沢だけである。その理由については「情です」と小沢はいった。確かであろう。と同時に、裁判の全過程に接するなかで、ひとつの時代と権力の滅びの音色を耳にしていたはずである。
自己変革をなし得ない体制は必ずや滅びる、カルタゴしかりソ連邦しかり――それが小沢の歴史観であり思想の根幹にあるものであるが、その思いを深めたのは、身に染みて体験した、オヤジ角栄にかかわる興亡史ではなかったのか。
これまでの政治歴のなかで、もっともエキサイトしたのは、竹下派・経世会の結成と自民党からの離党であったという。前者は途中から「オヤジとの闘争」となった。情においては忍びない。けれども、利害を調整処理することで済んだ角栄型の戦後政治は終わった。小沢は冷徹に見切ったのである。
人はだれも相矛盾したものを自身のなかに持っている。小沢側近の一人は、小沢を「アタマは西洋人でカオとハートは土着日本人」と評したが、当たっている。この二つから敷衍して眺めると、小沢の節々の政治判断の多くは解ける。
近世の政治家では大久保利通をもっとも評価する。新国家樹立を至上のものとし、それを断行することにおいて一切の私情は介在させなかった。政事は冷徹であらねばならない。そうでなければ国は救われない。アタマは完璧にそう思っている。同時に、滅びゆく武士階級に殉じた西郷隆盛をどうしようもなく好きでもあるのだ。
先頃、藤井は政界引退を決め、まず小沢に告げるために赤坂の事務所に出向いた。「もう側にいて一緒に歩くことはできなくなりました」。そういうと、小沢は涙ぐんでいる。この十数年、藤井は小沢の涙を何度か見ている。
情に流されて判断を誤ったことはありませんか――という問いに対して、「いくつかあったよ」と小沢は答えた。具体的には口をつぐんだが、小渕内閣時代、自自公結成などを指している。
今も、角栄待望論を耳にすることがあるが、小沢は明確に否定する。オヤジは戦後のあの時期に求められた政治家であり、いま求められるのは土台を変える変革者であると。情と理の使い分け、ときに明瞭でありときにくもる。そのときどき、「土着日本人」が前に出、また「西洋人」が前に出る。その矛盾のなかで小沢は生きてきた。
小沢の『日本改造計画』が出されたのは13年前であるが、基本理念に修正するものはないという。序文で、グランドキャニオンには柵もなければ管理人もいない逸話を記している。自身のことは自身の判断と責任の下に律せよというたとえである。小沢思想のエートスを単語に集約させれば「自立」である。
痛切な問題意識を抱いたのは、幹事長時代、湾岸戦争時であったという。永田町も霞が関も右往左往するばかり。確たる定見はなにもない。当時まだしも財布は膨らんではいたがこれもいつかはへこむ。この国はがらんどうだ、戦後半世紀、このままでは国際社会から孤立し、経済大国の基盤は崩れていく――。権力中枢にいたがゆえに小沢には視えたのだ。
根本的な枠組みからの変革、その手段として自民党に代わる政権党の樹立、その手段としての小選挙区制……。政敵や批判者を含め、小沢の構想が力を持ったのは、この国に巣食う病根を確かにえぐっていたからである。
思想と構想をもつ政治家はいなくはない。小沢は構想を現実のものとすべく自民党を立ち割った。金丸信が権勢を振るっていた時期、総理になろうとすればなれた。けれども、なにをするために総理をやるのか、いまなったとしてそれができるのか――という問いを発せずにはおれない。そこに、小沢の小沢たる所以がある。
小沢の歩みに脆弱さを見つけるとすれば、膨らみにおいて乏しいことである。かつて小沢側近と呼ばれた人たちの多くが小沢のもとを去っていった。双方に言い分があるが、この点、融通無碍、包み込むような包容力をもった角栄とは対照的である。小沢の、対人関係における多分に不器用な部分に起因するものもあるが、根本的にいえば、思想とは反作用として峻別を併せもつものであって、思想政治家のもつ宿命である。
いつまでたっても丸く≠ネらない。なれないのだ。最近も、古くからの自民党の友人にこういわれた。
「一ちゃん、いつまで書生のようなことをいってるんだ」
その通りだ。けれども、俺は死ぬまで書生なんだろう、そうである以外、小沢一郎という政治家の存在理由もまたないであろうから……。
戦ってきたのは日本か
小選挙区制はオセロだ
次期選挙を関ヶ原として
自立とは、苦渋をともなう理念である。それは制度的な改革に留まらず、人の生き方を問う思想でもあるからだ。岩手の農業者や商工業者が小沢から聞かされてきたのは、耳に心地よい補助金の話ではなく、それぞれの自立策である。
その意味でいえば、永田町の変革は入り口に過ぎない。その政治思想は、行きつくところ、非自立≠もって繁栄した戦後日本のありよう、護送船団、コンセンサス社会、曖昧模糊、ヌエ的なるもの……さまざまにはびこった日本的なるものと衝突する。ふと思って訊いた。
――結局、小沢さんが大汗をかいてきたのは〈日本〉とのたたかいだったのではないでしょうか。
「いや、その通りだと思いますね」
先の総選挙。小泉劇場によって自民党は大勝、時間の針が戻った感がある。日本社会は枠組みの変化を自ら欲しない社会であると解すべきなのか――。が、小選挙区制とはこういうものだと小沢はいう。オセロゲームのように変わる時は一挙に変わる、と。
「与野党を含め、永田町は旧態依然だけれども国民の意識は変わりつつある。あの明治維新をやった国だもの、できないはずはない。……ま、時が無為に過ぎたなぁと思うことはありますがね」
自身の政治思想を、いつか日本社会が選択する日がくること。それを信じることにおいて小沢はロマンティストである。07年には参議院選挙がある。そこでまず「非自公」で過半数を制すこと。そうすれば次期総選挙は関ケ原たりうる――。
「どういう立場にいるにせよ、前に出て選挙を仕切りたい。自民党と四つに組んで喧嘩をやれるのは他におらんでしょう。総決算として勝負をしたい」
剛腕・小沢一郎の貌になって、小沢はそういった。(文中敬称略)
【年表】
■おざわ・いちろう
1942年
小沢佐重喜・みちの長男として生まれる。中学2年まで岩手・水沢で育つ。
3年時、文京区立第六中学へ編入。都立小石川高校へ進む。
67年
慶応大学経済学部卒業。司法試験を受けるため日本大学大学院に入学。
69年
岩手2区から初当選。田中派に所属。以降、13回連続当選。
82年
自民党総務局長。以降、議院運営委員長、
中曽根内閣の自治大臣など歴任。
87年
竹下内閣の官房副長官に就任。
89年
自民党幹事長に就任。総選挙、都知事選、
湾岸戦争の対応などで采配を振るう。
92年
改革フォーラム21結成、自民党を離党、新生党結成。
93年
新生党代表幹事として細川内閣を誕生させる。
94年
新進党幹事長。95年、党首就任。
98年
自由党党首就任。
2003年
自由党を解党し、民主党に合流、代表代行、副代表に。
家族 世田谷区の自宅に妻、長男・次男・三男の五人家族。
=転載終了=
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