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日経ビジネス オンライントップ>$global_theme_name>小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
ポエムな「提言」で復興できるの?
2011年7月1日 金曜日
小田嶋 隆
復興構想会議が6月の25日にまとめた「提言」を読んだ。
各方面の論評で、おおむね共通しているのは、「提言」が「具体性を欠いて」いるという指摘だ。その通りだと思う。「提言」は断片的で、抽象的で、総花的で、肝心な部分では言葉を濁している。
とはいえ、法律上の権限や予算の裏付けを持たない復興構想会議発の言葉が、理念的な言及から外に出られないのは、考えて見れば仕方のないことだ。
一読して、まず最初に感じたのは、文体の湿度の高さだ。
なんというのか、全体に漂う文学趣味みたいなものが、ひとつひとつの提言の信憑性を毀損している印象を受けたのだ。卒業式の答辞を読む女子高生がそんなに厚化粧で良いのか、という感じに近い。いくらなんでも下瞼のアイラインは自粛しておくべきだったんじゃないのか?
「前文」は、こんなふうにはじまる。
《破壊は前ぶれもなくやってきた。平成23年(2011年)3月11日午後2時46分のこと。大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。地震と津波との二段階にわたる波状攻撃の前に、この国の形状と景観は大きくゆがんだ。そして続けて第三の崩落がこの国を襲う。言うまでもない、原発事故だ。一瞬の恐怖が去った後に、収束の機をもたぬ恐怖が訪れる。かつてない事態の発生だ。かくてこの国の「戦後」をずっと支えていた“何か”が、音をたてて崩れ落ちた》
これを読んで「あちゃー」と思わない読み手は、ちょっとおかしい。何かが崩れ落ちていると思う。
「うわっ、なにこの昭和なルポルタージュの書き出し」
「っていうか、むしろNHKの古いドキュメンタリーのナレーションだな。《現代の肖像》あたりの」
「オレ、《黒い報告書》かと思った」
「ははは。で、次の段落から行きずりの不倫がはじまるわけだな」
「由紀子(43)は焦っていた。彼女の中の“何か”が燃え上がろうとしていた、か?」
書き出しの文体は、古臭いといえば古臭い。が、違う読み方をする人々は「荘重」であるというふうに感じるかもしれない。「格調が高い」と思う読者だっているはずだ。
いずれにせよ、私が問題にしているのは、文章の出来不出来ではない。好みの問題を別にすれば、これはこれで、良くできた文章だとも思っている。
問題は、この文体が、この場において適切であったのかどうかだ。
震災からしばらくの間、「不謹慎」という言葉が、見えない圧力として、われわれの上にのしかかっていた。歌舞音曲はオミットされ、お笑い企画は抹消され、震災直後の一週間ほどは、女子アナの笑顔さえもが、自粛の対象になっていた。
不謹慎の急所は「場違い」というところにある。
必ずしも「笑い」や「喜び」が不謹慎なわけではない。「笑うべきでないところで笑う」ことや「喜びの表現がはばかられる場で喜ぶ」ことが結果として不謹慎を醸成するということであって、「笑い」や「喜び」そのものが、それ自体として不謹慎なわけではない。
その意味で、「提言」の文体は、かなり強烈に「場違い」であり、それゆえあからさまに不謹慎に見える。
《原子力災害の大きさと広がりには、底知れぬ恐怖がある。そして人々は、「戦後」を刻印したヒロシマ、ナガサキの原爆と、「災後」を刻印しつつあるフクシマの原発とを一本の歴史の軸の上に、あたかもフラッシュバックされる映像のように思い浮かべる。今回の地震と津波被害を起こりえないものとして、考慮の外に追いやっていたのと同様の思考のあり方が、ここにも見出せる》
これは、「第3章 原子力災害からの復興に向けて」の冒頭の部分だが、この一節を読んだ時、私は、率直に言って、不快な印象を抱いた。ムッとしたと申し上げても良い。被災地にいる当事者は、もっと率直に腹を立てたのではなかろうか。
というのも、内容が一応もっともであるのだとしても、「人々は」という主語を使って書かれた語り口が、あまりにも評論家的であり、大所高所のご高説であり、のみならず、空疎な気取りに流れているように思えたからだ。
「何をスカしてるんだ?」
と、私は思った。
おそらく、避難命令に従って住所を離れている立場の人々はより直接的に反発を感じたはずだ。
文章はさらに続く。ちょっと長いが引用する。
《いや、人々は原子力については、ことさら「安全」神話を聞かされるなかで、疑う声もかき消されがちであった。原発事故を起こりえないものとした考え方は、その意味では、地震や津波災害の場合よりも、何か外の力が加わることによっていっそう閉ざされた構造になっていたのだ。 今、人々は進行中で収束をとげぬ原発事故に、どう対処すべきか、思いあぐねている。今回の地震と津波の災害に対し、「減災」という対応方式が直ちに認知されたことと、それは対照的と言わざるをえない。ある型に回収されるような事態ではないからだ。パンドラの箱があいた時に、人類の上にありとあらゆる不幸が訪れたのと類似の事態が、思い浮かぶ。》
ここで言う「人々」は、具体的に誰を指しているのだろうか。
被災地に住んでいる住民、でなければ、東電や保安院の人間たちであろうか。あるいはもっと大きく構えて、わたくしども現代に生きる日本人すべてを意味しているのだろうか。
どう解釈してもしっくりこない。
せめてここのところの主語が「われわれ」であったなら、責任回避のニュアンスが残るということはあるにしても、まだ多少は飲み込みやすい文章ができあがったはずだ。
われわれが、安全神話を信奉し、われわれが事故を起こし、われわれが事故の被害に直面し、われわれが、対処について思いあぐねているのだというふうに書けば、それはそれで、一応の筋は通る。一億総懺悔と似た、どうにも後ろ向きな斉一思想ではあるものの。
しかしながら、「提言」は、「人々」という言葉を使っている。
この主語は、書き手を含んでいない。ということはつまり、このテキストを書いた人間は、「自分は当事者ではない」旨を明言していることになる。
だとしたら、「人々」という主語を使って原発事故を論評している以上、書き手は、主語の担い手を明確にしないといけないはずだ。でないと、文章の構造が保持できない。
細かく見て行くと、ここでは、主語と述語が一致してさえいない。
《人々は原子力については、ことさら「安全」神話を聞かされる中で、疑う声もかき消されがちであった》
「人々は」と書いておきながら、述語は、「かき消されがちであった」になっている。述語が主語を受けていない。どうしてこういうことが起こるのかというと、「安全」神話を聞かされた人々と、疑う声をあげた人々と、安全神話を流布した人々を、「人々」という一つの主語でまとめあげてしまっているからだ。さらに疑う声を圧殺した人々の動作については、「かき消されがちであった」という、非人格的な受動態に委ねることで、なかったことにしている。
《原発事故を起こりえないものとした考え方は、その意味では、地震や津波災害の場合よりも、何か外の力が加わることによっていっそう閉ざされた構造になっていたのだ》
この文章もひどい。「閉ざされた構造になっていた」のが、何なのかがよくわからない。文意を補って読めば「原発事故を起こりえないものとした考え方」が「閉ざされていた」ことになるが、だとすると、「何か外の力が加わることにより」の、「何か」というのは何なのだ? 暗示するだけで、名指しにししていない。
結局、ここでは、原発の安全神話を信じたのも「人々」なら、それを倒壊させたのも「人々」で、事が起こって後どう対処すべきなのか「思いあぐねている」のもまた「人々」であると、そういう構造になっている。ここまで野放図に枠を広げた「人々」は、もはや「われわれ」以外ではあり得ないと思うのだが、「提言」の書き手は、決して「われわれ」と言わない。「オレは違う」と言っている。
こんなべらぼうな話があるだろうか。
責任は書き手以外の全員が負うべきだ、と、そういうことなのか?
あんた以外の愚かな日本人は、自分たちの罪を悔いて改悛すべきだと、本気でそう思っているのか?
「提言」の書き手が、「第三者」の立ち位置から文章を書き起こした態度それ自体は、百歩譲って、勇気のある態度と評価できないこともない。
実際の話、「提言」は、元来、第三者がもたらすはずのものであるのだし、自らの意思でその場所に立つことを選んだ第三者は、当事者でもないのに当事者ヅラをする人間よりは、良心的であるのかもしれないからだ。
しかし、第三者の立場から論評をするのであれば、「安全神話を聞かされた」人々と「疑う声をかき消した」人々を、同じ「人々」という言葉で一緒くたにすることは許されない。そんな粗雑な仕事をしてもらうためにだったら、誰もわざわざ第三者に声をかけたりはしない。
責任ある立場の人間が、第三者として事故について言及するのであれば、誰が安全神話を推進し、誰がそれを信じこみ、誰と誰が事故の可能性を過小評価し、誰が事故を前に呆然としているのかを、一文一文、きちんと主語を明示して書き分けなければならない。誰が責任を負い、誰が事故の処理を推し進めるべきで、誰が救済されるべきであるのかについても、はっきりとした考えを述べるべきだ。「われわれ」という主語に逃げこまなかったところまではほめてさしあげても良いが、「われわれ」を使わない以上、主語は、書き手にとって、責任の所在を明らかにする重い課題になる。当然の展開だ。
「提言」の文言は続く。
《しかし、パンドラの箱には、たったひとつ誤ってしまわれていたものがあった。それは何か。「希望」であった。それから人類はあらゆる不幸の只中にあって、この「希望」を寄りどころにして、苦しい日々をたえた。「希望」―それは原発事故に遭遇したフクシマの人々には、まだ及びもつかぬ、とんでもない言葉かもしれぬ。しかしここでもまた人と人を「つなぐ」意味が出てくる。原発事故の被災地のなかに「希望」を見出し、あるいは「希望」をつかむことは、被災地内外の人と人を「つなぐ」糧となりうる。いや人は人とつながることによってこそ、「希望」の光のなかに、明日のフクシマを生きることになろう。だから、フクシマの復興は、「希望」を抱く人々の心のなかに、すでに芽吹き始めているに違いない》
ポエムか? 私は、この部分を読んだ時、正直な話、ちょっと笑った。
《…誤ってしまわれていたものがあった。…「希望」であった》
のところのお約束の倒置表現は、NHKの「プロジェクトX」の田口トモロヲの声で脳内再生された。
が、冗談ではない。
これを不謹慎と言わずに何を不謹慎と言うのだ?
被災者は不安のどん底にいる。実質的な被災者でなくても、放射能に対して不安をいだいている人間はたくさんいる。もちろん、根拠のある不安もあるし、根拠の無い不安もあるだろう。でも、とにかく、不安をいだいている人々は、この提言をすがるような気持ちで読んでいるはずなのだ。
そこへ持ってきてこのポエムだ。
たまったものではない。
たとえば、ブロードバンドルータみたいなもののマニュアルを読んでいて、このテのポエムをカマされたら、私は間違いなく逆上すると思う。というのも、PCのユーザーがその種のマシンのマニュアルを読んでいるということは、彼が非常に厄介なトラブルの渦中にあることを意味しているからだ。
トラブルの渦中にあるユーザーは、マニュアルの文章の稚拙さやくだくだしさやまぎらわしさに、心の底から苛立っている。私は、毎度毎度その種のテキストを読むたびに、ほとんど叫びだしそうになる。
「なんだ、このタコマニュアルは!」
まして、ポエムなんかが出てきたら、どれだけ腹が立つか知れない。
だって、稚拙どころか、実際的でさえないわけで、ということはつまり、巧いとか下手とか有能とか無能とかいう評価をもちす以前に、誠実さという人としての最低限の前提が守れていないわけだから。
「LANケーブルを接続する際には、優しく、しかし確実なホールドをこころがけてください。そう、ちょうど恋人の手を握る時のように」
「DIAGランプが乙女の鼓動のように小さく点滅しはじめたら、ファームウェアのアップデートがはじまった証拠です。さあ新しい旅立ちです」
こんなマニュアルを読まされたら私はその場でケーブルを引きちぎると思う。
ある種のポエムは、書き手が何かを隠蔽したいと考えている時に立ち現れる。
書きにくいことを書かねばならない時や、書くべきことを書かずに済ませようとする時、散文は、詩の似姿をとることで、その場をしのぎにかかるのだ。
卑近な例では、グラビアのキャプションがそうだ。アイドル水着写真には、必ず編集部のオヤジが書いた似非ポエムが添えられる。
「ク・ミ・コ。声に出して言ってみる。ボクの心の日記帳はキミの名前でいっぱいなのさ」
こんな詩は単独ではもちろん成立しない。が、グラビアがポエム抜きで成立しないこともまた事実で、結局、グラビアを見ている少年の恥ずかしさは、添えられたキャプションのこっ恥ずかしさで中和しないと解毒できない。そういことなのだ。
格闘技のイベントでも、リングアナウンサーの語りはいつしかポエムになる。
「孤独な求道者の鉄の意志とぉー、血に飢えたプレデターの魂がぁー いまぁーリングに連なる獣道でひとつになったぁーーー。宿命と呼ぶにはあまりにもうつくしいー、バーリトゥードの旋律がぁ、いまぁー幕を切って落とされたぁああああ」
こういう時、
「旋律に幕なんてあるか?」
と突っ込む者はいない。ポエムは、殺伐とした空気を撹拌するための風だ。意味なんか要らない。むしろ、意味は有害。リングサイドの男たちは、あまりにも興奮していて、ポエム以外の日本語が理解できない。それだけのことなのだ。
復興構想会議が持ち出してきた提言の内容をどうこう言う以前に、この時期に、こういうメンバーを集めて話をさせることで、何か意味のある構想が出てくるというふうに考えた人間のアタマの中身をまず検証せねばならない。
召集された学者さんや脚本家が無能だと言っているのではない。
「会議」という枠組みが、本当に有効なのかどうかを、本当に政府が考えていたのか、問題はそこのところにある。
復興構想会議に限った話ではない。
教育再生会議、各種の諮問機関や賢人会議、横綱審議委員会、八百長問題の特別調査委員会、さらには今は亡きタウンミーティングなどなど、わが国の多少とも公的な機関は、何かにつけて「委員会」を召集したがる。しかも、その規模と頻度は、年を追って大きくなっている。
たったいま、私の変換辞書は「召集」という字に対して「消臭」という変換候補を打診してきた。実際、委員会の本当の役割は、「消臭」にあるのかもしれない。
クサいモノには蓋。水素漏れには窒素。ゴキブリにはホウ酸。
「いいんかい?」
と問えば
「いいんです」
と答える。
使い古されたコール&レスポンスだが、それなりの効果はある。なんとなれば、少なくとも「有識者」として招いた委員が政府批判をすることだけは防衛(←守秘義務が生じるから)できるからだ。
この種の「会議」は、招集する側にとって「アリバイ」になる一方で、「会議」のメンバーにとっては、「利権」になる。その意味で構造としては、国土交通相がハコモノを造るのとそんなに違わない。
そう思ってみると、復興構想会議は、そもそも、招集側が最初から抱いている腹案を、外部の人間の口を通して言わせるための機関に過ぎなかったのかもしれない。たとえば、増税案みたいなものは、政府内から出てくるよりも、「賢人」の「提言」として降りてきた方がスジが良いのだろうからして。
私自身は文化人ではあるが、政府委員は未経験だ。声をかけていただいたこともない。
新聞社や通信社から「識者」として電話コメントを求められたことは何回かある。
構造は同じだと思う。
事件によっては、新聞なり雑誌なりが、「社の見解」や「編集部の意見」をストレートに表明できない場合がある。そういう時、彼らは、「識者」のコメントにもたれた形で紙面を作る。そうした方が面倒が少ないし、万一行き違いが生じた場合は、「識者」が弾除け(って、この見方はあんまりひがみっぽいかもしれないけどさ)になるからだ。
専門家に意見を求めればいいじゃないかと言う人がいるかもしれないが、「専門家」は、知識のある人間としか話ができないことになっている。彼らにしてみれば、基礎知識を欠いた新聞読者に自分の研究課題を説明するなんてことは、そもそも想定外なのである。しかも、専門家は、自分が分かっていることについてしか説明できない。まあ、当然ではあるが。
その点、わたくしども「識者」は、世の中に起こっているあらゆることについて、いつでも50文字以内のコメントを提供することができる。素晴らしい能力だ。
だから、ファイル共有ソフト経由でコンピュータウィルスがばらまかれたみたいな事件が起きると、オダジマの電話が鳴ることになる。
そのオダジマは、「ファイル共有ソフト」の何たるかを知らない、というよりも、そもそも「ファイル」「共有」「ソフト」のいずれのタームについても、実体的な知識をほとんどまったく持ち合わせていない昼下がりの主婦みたいな人たちを相手に、「ウィルス」の危険性を語り、P2P経由での情報共有の意義を解説し、しかもそれらを「サーバ」という言葉を使わずにやってのけることができる。この程度のことができなければ、一人前の「識者」とは言えない。なんという超能力。
つまり、要約すれば、「識者」というのは、「自分がはっきり分かっていない事象について」「さらに分かっていない無知な一般大衆を相手に」「わかった気にさせるコメントを提供することのできる」「本当は専門家でもなんでもありゃしないそこいらへんのおっさん」なのである。
復興構想会議には、それなりに有能な人材が集まっている。
でも、彼らの「構想」が実を結ぶことはたぶん無い。
彼らは、構想を考える前に、「弁解」を案出せねばならない。原理的に、そういうことになっているからだ。
話が長くなった。
結論を述べる。今度何かあったらオレを呼びなさい。たいした構想は持っていないけれど、弁解なら現在の委員さんたちよりはずっと上手だから。
連絡先は、ツイッターのアカウントで結構。よろしく。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
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