http://www.asyura2.com/11/senkyo115/msg/761.html
Tweet |
http://diamond.jp/articles/-/12894/votes
【第183回】 2011年6月28日
著者・コラム紹介バックナンバー
真壁昭夫 [信州大学教授]
行動経済学から見えてくる“政治混乱”の危険な実態 「近視眼的な損失回避行動」で大損失を被った日本人
2012年、世界的にいくつかの政治イベントが予定されている。米国とフランスでは大統領選挙があり、中国では胡錦濤国家主席から習近平副主席へのリーダーのバトンタッチが行なわれる。
政治の変化は、時として経済に大きな影響を与えることがある。リーダーたる人は、できればその地位を保つべく、国民に耳触りの良い政策運営をしがちになる。しかし、短期的に耳触りの良い政策は、必ずしも中長期的に最も適切な結果をもたらすとは限らない。
近視眼的に利益をもたらしたり、損失を回避したいと思ったら、それよりもはるかに大きな“つけ”が回ってくることもある。政治とは、よくも悪くも、経済にとってとても重要な要素なのである。
現在のわが国の状況を見ると、政治の状況はかなりひどい。多くの人が早く辞めて欲しいと思っている菅首相は、“駄々っ子”のように詭弁を弄して、1日でも長く首相の座にしがみつこうとしているように見える。
菅首相には、「政治は国民のためにある」という基本原則に対する認識が欠如しているのだろう。与党内からも、そうした態度に厳しい批判が出ている。それでも、菅首相は首相の地位から降りない。
ただ、それを批判しているだけでは問題の解決にはならない。そうした状況を作り出した民主党に、わが国の政策運営を委ねたのは、我々国民だからだ。国民の多くが民主党を支持したがゆえに、常識では考えられないような人が政権の座についてしまったのである。
人はどうしても目先の利益に引かれる
行動経済学における「損失回避行動」の失敗
あくまで結果論だが、仮に国民が民主党に多くの票を投じることがなければ、ここまでひどい政治にはならなかったかもしれない。
伝統的な経済学では、人間は常に合理的に行動することが前提になっている。つまり、人は決して「非合理的=愚かな行動」はとらないことになっている。しかし、自分自身の行動を振り返ってみると、かなり不合理なことをしているし、後悔するような愚かな行動もしているものだ。
次のページ>> 必ずしも合理的な意思決定者が多数派ではない、民主主義の限界
人間は必ずしも合理的に行動するとは限らないことを認識して、経済学の骨組みを作ろうという分野がある。行動経済学は、そうした分野の1つと言える。
行動経済学の命題の中に、“近視眼的な損失回避行動”というものがある。それは、目先の損失を回避しようとするあまり、後になってそれを大きく上回る損失を負担することになるという考え方だ。
多くの政治家は、意識してか無意識かは別の問題として、この“近視眼的な損失回避行動”の理屈を利用しているように見える。選挙運動のときには、有権者に耳触りの良い公約を並べて、いざ実際に政策運営をすると、わけのわからない理屈をつけてその公約を反故にするようなことがそれに当たる。
先の衆院選挙のときの民主党のマニフェストを見ると、今となってはとても実現できない政策が少なくない。有権者は、そのマニフェストを頭から信じて民主党に票を投じたのではないだろうが、何らかの期待を持っていたことは確かだろう。
そして、菅首相の政策運営を見るにつけ、「失敗した」と後悔している人もいるはずだ。
民主主義の考え方は、「過半数の人は間違えることが少ないだろう」というロジックが基本になっている。ところが、過去の歴史を振り返ると、多数派意見が間違っているという例は、それこそ枚挙に暇がない。我々は、多数決も間違えることがあることを肝に銘じるべきだ。
いつも合理的な意思決定者が多数派ではない!
民主主義の限界が生む「ポピュリズム政治」
こうして考えると、多数決を基本的な意思決定のツールと考える民主主義には、決定的な問題点がある。
それは、必ずしも合理的に意思決定をしない人々が、投票権を持つ有権者の多数を占めた場合、政治が国民の期待に応えられないような政策運営しかできないケースが発生することだ。最悪のケースでは、国民が望まない方向に、国全体を先導してしまうことも考えられる。
次のページ>> 今考えれば、民主党のマニフェストは到底実現不可能だった
人間は、誰でも楽しくて、楽なことを好み、痛みや苦しいことを嫌う。その人間の本源的な性質を考えると、苦しみがなく、楽しい環境を提供してくれる政治を選考するのは当然のことだ。
ただし、そうした環境を実現するためには、相応のコスト負担が必要になる。特に、現在のように社会の規模が大きく複雑になると、1つのことを行なうと、様々な分野に予想もしなかった影響を及ぼすことがある。
問題は、民主主義の基本ツールが多数決という方法であるため、選挙で有権者の人気を集めることができると、政権の座を手にすることができることだ。極論すれば、「人気取り=ポピュリズム」に徹して政権を取った後は、公約なりマニフェストを反故にしてしまえばよいことになる。
そうした事態の発生を防ぐために、いくつかの選挙があり、また政権に対する不信任決議の制度も作られている。
しかし、それとても完全な仕組みではない。今回の菅首相のように、議会で多数を占めている間は安泰でいられる可能性が高いからだ。あるいは、与党内から批判が出た場合でも、言葉巧みに「近い将来、リーダーの地位を若い人に譲る」と騙して、不信任案を否決しさえすれば、何とか首相のポジションにしがみついていることができる。
しかも、議会の解散権と内閣の人事権は首相にあるわけだから、「議会を解散するかもしれない」とちらつかせれば、選挙に自信のない議員は震え上がることだろう。
今考えれば実現度が低い民主党のマニフェスト
「政治家を選ぶのは国民」という責任感が必要
「政治を作るのは、その国の国民の民度」。昔、イギリス人の友人が言っていたことだ。その言葉を聞いたときは、あまりピンとこなかった。しかし今は、その意味がかなり鮮明にわかるような気がする。
次のページ>> 「民主主義の過ち」が続くと、国力そのものが弱まる可能性も
政治家の多くは政権を取って、リーダーの地位に上りつめたいという野心を持っていることだろう。そのためには、まず選挙に勝たなければならない。選挙で当選するためには、得票数を増やさなければならない。それには、有権者の間で人気者になることが手っ取り早い。野党であれば、政権与党の政策を批判することが考えられる。
それと同時に、有権者にとって耳触りの良い、有利な政策運営を訴えることが重要になる。有体に言えば、ポピュリズムに徹して、実現可能性が低いことに関しても、有権者が喜びそうな公約やマニフェストを作ればよい。
実際、前回の衆院選挙のときに民主党が作ったマニフェストの中には、どう考えても実現困難と思える項目がいくつもある。
外国人も不思議がる日本人の“思い切りのよさ”
同じ過ちを繰り返すと国力そのものが弱まる?
重要なポイントは、有権者である我々が、そうした“人気取り政策”のうたい文句に騙されないことだ。うたい文句に騙されてしまうと、野心を持つ政治家は、「その手を使えば、選挙に勝てる」と思ってしまう。
有権者は、政治家にそう思わせてはならない。政治家に、「適当なことを言っていては選挙に勝てない」と思わせることが必要だ。ポピュリズムだけでは政権を取ることができないことを、自覚させることが重要なのである。
前回の衆院選挙で民主党が大勝したのを見たとき、ニューヨークにいるエコノミトの友人は、「日本の国民は思い切りがいいね」と言っていた。確かに、まだ政党としての政策運営能力がはっきりわからない民主党に多くの票を与え、政権交代を圧倒的に支持したことは、自民党政治の行き詰まりという条件はあったものの、やや極端な結果となったと言えるだろう。
多数決には失敗もある。民主主義がいつもベストな結果をもたらすことはできないのは当然だ。しかし、何度も誤りを繰り返すと、次第に国そのものの力が弱まっていく可能性は高いだろう。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK115掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。