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日経ビジネス オンライントップ>$global_theme_name>小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「どや顔」で目指せナンバーワンへの道
2011年6月24日 金曜日
小田嶋 隆
理化学研究所と富士通が共同で開発しているスーパーコンピューター「京」の計算能力が、このほど、世界1位に認定された。日本製のスパコンが世界一の座に就いたのは、実に7年ぶりだという。まことにめでたい。暗い事件が続く中、久々に心から祝福できるグッドニュースだ。
祝福ついでに、記者クラブの面々は、蓮舫行政刷新相のコメントを求めるべく永田町に押し寄せた。余計なお世話といえば余計なお世話ではある。が、取材陣の殺到は、一方において、仕方のない流れでもあった。というのも、大臣とスパコンの間には浅からぬ因縁が介在していたからだ。
彼女は、2009年11月の事業仕分けで、10年度分の次世代スパコン開発予算(約268億円)を、事実上の予算凍結と判定した際の、仕分け担当者であり、スパコンの計算速度について、「2位じゃだめなんでしょうか」という、技術発達史上名高い問いを投げかけた当事者でもある。
なるほど。一言あってしかるべきところだ。
取材に対して、蓮舫大臣は、「極めて明るいニュース。関係者のご努力に心から敬意を表したい」と、述べた。
穏当なコメントだ。これだけ述べてにっこり笑っていれば、一件落着、誰もそれ以上は突っ込まなかったと思う。
が、大臣は負けん気が強い。お約束のコメントを言わされて、そのまま引き下がるようなタマではなかった。
20日付けの読売新聞によれば、蓮舫大臣は上記のコメントに続けて、次のように述べている。《自らの発言については「メディアが勝手に短い部分を流した」と反論。「ナンバーワンになることだけを自己目的化するのではなく、国民の皆様の税金を活用させていただいているので、オンリーワンを目指す努力を期待したい」と注文をつけた。》
ははは。
記者は、メモをとりながら、内心で手を叩いたはずだ。
ほほほ、記事に「イロ」がついたぞ、と。
蓮舫大臣は、記事の行間に「顔」をもたらすことのできる稀有な政治家だ。
極めて高い映像喚起力を備えた彼女の表情は、読者の側から見て、顔を思い浮かべやすい。得難いタレントだ。
今回の場合、わたくしども新聞読者の脳裏には、記事の行間を通じて、蓮舫大臣の「ぐぬぬ顔」が供給された。記号化された屈辱。その高らかな歯ぎしりの響き。いや、通快だった。
「どや顔」は、「ぐぬぬ顔」によって浄化されなければならない。「顔」による事態の精算を何よりも重視する大衆文芸の文法では、ストーリーの結末は、ふさわしいキャラクターのビビッドな表情によって埋められなければならない。でないと、カタルシスが発生しないからだ。
かくして、スパコンとその仕分人をめぐる不条理の物語は、2年間におよぶ伏線敷設期間を経て、無事、落着したわけだ。あらまほしきハッピーエンドの真上に。ぐぬぬぐぬぬ。素晴らしいではないか。
ちなみに言えば、蓮舫大臣の言った「オンリーワン」は、この際、何の意味も持っていない。少なくとも計算機開発の技術者が目指すべきゴールではない。なぜならテクノロジー開発のステージは、「個性」がモノを言うミスコンテストのオーディションとは違って、シンプルな競争原理が支配する、公明正大な競争の世界だからだ。
1秒間に数千兆回という演算処理(「京」の処理速度は、「8.16ペタFLOPS」だ)の回数を追求するスーパーコンピューターの分野で、競争参加者の死命を決するのは「速さ」だけだ。陸上競技の100メートル走において、意味を持っているのが、「タイム」のみであるのと同じことだ。オンリーワンの走り方や個性的なユニフォームは、いかなる文脈においても、決して評価されない。ごく稀に女性アスリートのネイルの奇抜さが話題になるケースがないわけではないが、その際も、記事が配信されるのは、ネイルの本体であるアスリートが、世界記録を更新した場合に限られている。要は、数字だ。
競争のレーンの中では「ユニークさ」は、ノイズでしかない。というよりも、競争のフィールドに、順位と無縁な「個性」を持ち込むことは、その人間がレースから降りたことを意味している。それは敗北よりもさらに惨めな結果をもたらす。なぜなら、敵前逃亡した者には、敗北から学ぶ機会さえ与えられないからだ。
……という、以上の話が、かなりの度合いで揚げ足取りだと思う。私自身、自覚している。
蓮舫大臣のコメントは、たしかに失言といえば失言だが、上記の数十行で私が展開してみせたみたいに詳細な形で突っ込まなければならないほどの失策ではない。
言葉が足りなかったというだけだ。
というよりも、大臣は、「ナンバーワン」という言葉に対して、なんとなく「オンリーワン」という言葉をぶつけてみただけで、深い考えはなかったのだと思う。売り言葉に買い言葉。脊髄反射だ。
脊髄反射のコメントを発したことをもって大臣の資質を問うことはできない。実際のところ、われわれが発する言葉の半分以上は、推敲や吟味の過程を経ていない反射的な捨て台詞に過ぎない。大臣の職にある者が、自身の発言について、一般人より慎重に構えるべき立場にあることは明白だが、だとしても、完璧は望めない。大臣とて、時には舌も噛むしジョークも言う。仕方のないことだ。公的な場所で致命的な失言を繰り返したのでない限り、われわれは政治家の言葉に対してもっと寛容であるべきだ。そう考えれば、今回の「オンリーワン」発言程度のものは、片頬で笑って受け流すぐらいが妥当な扱いだったはずだ。
であるからして、ご理解いただきたいのは、以下、私がさらに「オンリーワン」について深く掘り下げるつもりでいる理由は、蓮舫大臣を揶揄したいからではないということだ。
彼女が「オンリーワン」という言葉を使った背景には、「ナンバーワン」に対して「オンリーワン」と言ってみたくなる回路が、多くの日本人の間で共有されているということがあるはずなのだ。
問題は、この「回路」だ。
どうしてわれわれは、競争と個性を並列展示したがるのか。どうして、それらをぶつけることによって、双方を曖昧にしてしまいたがるのか。
これは、じっくり考えてみるべき問題だ。
さて、そもそも私が、蓮舫大臣の「オンリーワン」発言に反応したのは、大臣がこのコメントを述べた同じ時期に、『タイガー・マザー』という本を読んでいたからでもある。
なかなか刺激的な本だった。
「タイガー・マザー」は、エイミー・チュアという中国系の女性(イェール大学法科大学院の教授)が、ユダヤ系の夫(この人も同じ大学院の教授。推理作家でもある)との間に生まれた2人の娘を育てる過程を記した手記だ。アメリカで発売されるや、巨大な論争を巻き起こしたので、あるいはご記憶の向きもあるかもしれない。
論争の焦点は「競争」にある。ズバリ、「人としてオンリーワンであることと、人生においてナンバーワンであることの間に生じる葛藤」が俎上にのせられたのである。
チュア女史は、2人の娘たちに、最大限の努力と、絶対の勝利を要求する、そういうタイプの母親だ。成績はオールA以外認めない。ピアノでもバイオリンでも凡庸な演奏は許さない。それらを達成するために、サマーキャンプへの参加は禁止し、友だちとの遊びも制限する。チュアの考えでは、人生は競争であり、子供は常に勝利の道を歩むべき存在なのだ。
子供は必ずしも自分の適性に合った道を選ぶものではない。単に楽な道を選ぶ。でなければ愚かな選択をする。泳ごうとする鳥のように。だから、親は子供に進むべき道を与え、時にはそれを強制し、訓練を強要しなければならない。そうやって身につけたスキルは、後々本人の財産になる――と、チュアは考える。彼女は、本書の中で、自らが実践しているこの峻烈な子育てのメソッドを「中国系の母親の育て方」であると、繰り返し主張している。対して、子供の個性と自主性を尊重し、成績や人生の選択にあまり介入しないアメリカにおける一般的な子育てへの取り組みを「欧米流の母親の育て方」と規定して、それを執拗に批判している。
無論、すべての中国人が同じ育て方をしているわけではない。欧米人の側にも、「中国系の母親」(←比喩的な意味で)がいる。チュア自身もそう言っている。要は、典型的な傾向として、東洋の母親は、子供たちの将来に対して、西洋の母親と比べて、より支配的で、より強い圧力をもって臨んでいるということだ。
で、アメリカでは、ここのところが、大きな論争のポイントになった。
「愛情があるのなら、子供の将来のために、厳しい強制を課すべきだ」
「子供は親のロボットではない」
「児童虐待じゃないか」
「勇気のある子育てだ」
「子供を自分の生きがいの実現のために利用するのは筋違いだ」
私は、この原稿の中で、いずれの育て方が正しいのかについて、結論を出すつもりはない。
ただ、本を読んでみて感じたのは、「タイガー・マザー」が中国式の子育てを通じて提起した問題が、わが国では、久しく忘れられているということだ。
われわれの国の教育界は、競争と個性のいずれが尊重されるべきであるのかという問題について、結論を持っていないのみならず、この種の論争が起こること自体を避けようとしているように見える。
本書の翻訳者である齋藤孝さんは、あとがきの中で、「中国式と欧米式の中庸」の中に、日本人の選ぶべき道があるという意味のことを述べている。
論旨としては私もおおむね賛成だ。が、一方において、このふたつのやり方の間に「中庸」などというなまぬるい選択が存在し得るのかどうか、ちょっと疑わしく思ってもいる。
おそらく、根性のない日本人は、個性からも競争からも逃避しようとするはずだ。
というよりも、高度成長が終わってからのちの何十年か、われわれは、あからさまな競争から撤退した一方で、個性がせめぎあう社会をつくることにも消極的だった。で、競争もせず、主張もせず、ただただ同調するばかりのなまぬるい世間を構築してきた。ダメなマイミクみたいな。
アメリカで起こった論争は、「タイガー・マザー」を肯定する側の人々と、批判する側の人々の双方が、自らの主張を強く主張することで白熱した。すなわち、競争を是認する側の人々は、競い合うことの効用を訴え、一方、自主性を重んじる人々は、親といえども個性の内庭には決して侵入してはならないということ頑強に主張していて、要するに、どっちにしても、苛烈な結論をぶつけていたわけだ。
苛烈な競争を是認するのか、はたまた、苛烈な個性を肯定するのか。われわれには難しい選択だ。
日本でこの種の議論が起こると、「詰め込み過ぎはかわいそうだね」とか、「自分勝手はいけないよ」という感じの、一歩引いた意見が大勢を占めることになる。憶測だが。きっとそうなる。
が、アメリカの人々は、どちら側に立つにしても、決してなまぬるくない。立派だと思う。
戦後のある時期までは、うちの国にも、「教育ママ」と呼ばれる人たちがいた。私の親の世代には、けっこうそれらしい人たちがいて、その彼女たちの甲高い声は、そうでない親の下で育った私のような子供にも、一定の影響を与えていた。
いまでも似たタイプの母親がいないわけではない。が、圧力は弱まっている。子供に勉強を強要するにしても、理論武装(あるいは弁解)が必要になっている。そこが弱い。
「理屈を言うな。子供なんだから勉強しろ」
と、頭ごなしに言えなくなっているということはつまり、頭ごなしでなくなった時点で、強制は、それが当然備えているべき圧力を喪失している。理由をつけた強制は、説得に過ぎない。説得は、子供の側からの理屈で、簡単に論破されてしまう。
「ボクのためだって言うけどさ。ほかならぬボクがイヤがっているものが、どうしてボクのためになるの?」
うん。パパの負けだ。キミの好きなようにしたら良い。
チュアの2人の娘たちは、必ずしも従順なわけではない。それどころか、強い性格を持った母親に似て、恐ろしく勝気だ。時には公共の場で、ワイングラスを粉々にしながら反抗する。母親も負けていない。ぬいぐるみを焼き、友達選びに介入し、娘のあらゆる言葉をパソコンに入力する。かくして、母子の物語は、子育てというよりは、よりあからさまな抗争に似たストーリーを紡ぐ。堅忍不抜。秋霜烈日。狷介不羈。喧々諤々。読んでいるだけで疲れる。これを実地でやり抜いたチュア女史の気力にはアタマが下がる。良し悪しはともかく。
結論を述べる。
われわれは、競争から逃げようとしていると思う。
競争からも、個性からも。
近しい間柄の人間同士が競い合うことのプレッシャーや、勝者と敗者が同じ空間に同居せねばならないことの気まずさから逃避すべく、われわれは、すべてを曖昧にしている。
だからたとえば、「速さ」が問題にされている場所で「個性」を主張する。
逆に、「個性」が試されている場所に、「一律さ」や「協調性」を持ち込もうとする。
いずれの場合も、しのぎを削り場所を奪い合うことのキツさから逃れようとしている。
「タイガー・マザー」が、その教育過程において、目に見える形の結果を性急に求めるのは、中国系のアメリカ人がアメリカ社会に遅れて参入した人々だからでもあると思う。
アメリカ社会の最古層を占めているヨーロッパ系のアメリカ人は、あるがままの個性をあるがままに押し通すことができる。彼らが自分たちの優位性を維持するためには、すべての民族に共通なルールの下で競争するよりは、既にある出自と人脈を「個性」として演出した方が戦略的に適切だ。一方、一歩遅れてやってきた人々は、「資格」や「学歴」や「技能」といった、競争の成果を武器にして世間に対峙しなければならない。そのためには、とにかく目前の課題に全力で取り組んで勝利を勝ち取ることが第一優先事項になる。たぶん、そんなところなのであろう。
われわれが住んでいるこの島国は、複数の民族が同一のゲームを競い合っている競争社会でもないし、個性を主張しないと埋没してしまう異種格闘技の社会でもない。没個性でユルい同質的な場所だ。それが必ずしも悪いというわけではない。むしろ、安全で居心地が良いと私は思っている。でも、競争ということになると、安全で緊張感の乏しい生活になれたわたしたちは、あまり強くはないと思う。
蓮舫大臣は、うちの国には珍しいタイガーな人格だ。
その証拠に、彼女が何か口を開くと、必ず論争が起こる。それも、うちの国の国民らしくない、尖った声の、力のこもった議論がまきおこる。これは、彼女の表情が、非常に挑発的だからということに関連していると思う。彼女は、自分が必死でがんばっていることや、感情を害していることや、不審に思っていることを隠さない。これは一般の日本人には珍しい態度だ。われわれは、どんな場合でも、平静を装う。感情を隠そうとする。
大臣は、何か印象的な言葉を吐いたあとに必ず「どや顔」をする。そこのところがすごい。
「どや顔」は、関西の人たちが使い始めた言い回しのようで、私は最近まで知らなかった言葉なのだが、言い得て妙というのか、蓮舫大臣のあの表情にあてはめる形容として、私は、これ以上の言葉を見つけることができない。
日本人のなまぬるい生活感情からすると、勝利を得た者や力を持つ者は、むしろ頭を垂れなければならないことになっている。その意味で、「勝って兜の緒を締めよ」という格言は、勝者の油断を戒める以上に、より多く、敗者へのいたわりを求めている。
が、蓮舫議員は、勝てば必ずどや顔をする。
で、負けるとぐぬぬ顔を見せる。
素晴らしく旗幟鮮明だ。こうでなくてはいけない。1位を目指すというのは、こういうことだ。
そう。「2位じゃダメなんですか?」は、あれは、質問ではない。反語だ。
「ダメに決まってるじゃない! あーたそんなこともわからないの?」
という隠れた語尾を補って読み解かないといけない。
その通りだ、大臣。オレはあんたを支持する。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
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このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
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著者プロフィール
小田嶋 隆(おだじま・たかし)
小田嶋 隆
1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。
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