http://www.asyura2.com/11/senkyo115/msg/539.html
Tweet |
最高検の検察改革で司法とマスコミが一体となった「魔女狩り」は変わるのか!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/9651
2011年06月23日(木) 伊藤 博敏「ニュースの深層」:現代ビジネス
最高検は、7月上旬、「特捜部の在り方」を含む検察改革に関する方針を取りまとめる。現在、最後の詰めの作業に入っているが、検察関係者によれば、「特捜部は存続で組織的な見直しもなく、監察室の設置など、小幅の修正にとどまるのではないか」という。
検察改革は、主任検事が証拠を改ざん、特捜部副部長と特捜部長がその事実を隠蔽したという前代未聞の大阪地検事件を受けて検討が始まり、法相の諮問機関である「検察の在り方検討会議」が、3月末、「特捜部のチェック体制の強化と取り調べの可視化(録音録画)の範囲拡大」などを提言、それを受けた江田五月法相が、3ヵ月以内に方針を固めるように指示していた。
私は、本誌の3月31日付で、「検察の在り方検討会議への不満」を書いた。それは「検討会議」が、特捜捜査に対する「根源的問題」に迫っていないからである。
何が「根源的問題」か。
それは、18年前の「金丸(信自民党元副総裁)脱税事件」をピークに、ゼネコン談合組織の解体、証券取引等監視委員会、公正取引委員会といった監視監督機関の機能強化、政治資金規正法違反による摘発へのシフトなどで、国民が喝采を贈るような「特捜案件」が少なくなっているにもかかわらず、特捜部がかつての"栄光"を忘れられずに捜査を自己目的化、「事件を作る」という誤った方向に向かっていることである。
端的な例が経済では、ライブドア事件、政治では小沢一郎事件である。
犯罪があったかどうかは、ここでは問わない。問題は、ライブドア事件が「既存秩序に盾つくホリエモンを許しておけるか!」という国民感情やフジサンケイグループを狙ったホリエモンへのマスコミの嫌悪感に乗ったものであり、小沢民主党元代表の追い落としに執念を燃やした検察の真意が、「反霞ヶ関」の感情を露わにする「利権政治家」への嫌悪感にあったことである。
つまり検察は感情で動き、そこに「世間受け」という欲を上乗せ、特捜部らしさをアピールしなければならないというプレッシャーに後押しされた。
「検討会議」の提言は中途半端で、「特捜部の在り方」を問う内容にはなっていないが、江田法相が「全面可視化」を強く指示したことで、笠間治雄検事総長は都内の不動産ファンドを巡る特別背任事件で、全過程を可視化、6月13日、起訴した。この試行がもたらす影響は、想像以上に大きい。
「カメラを怖れて尋問が手ぬるい。あれでは容疑者の本音は引き出せない」
DVDを見た検察幹部は、こう感想を漏らしたというが、それが全面可視化というものだろう。いつものように手練手管で自白を引き出し、その後で録音録画する「一部可視化」では何の意味もない。
1999年から行われている司法制度改革は、司法試験の合格者を増やして司法制度を充実、裁判員裁判制度の導入、検察審査会の起訴議決制などを通じ、「お上」のものだった裁判を、国民も参加することで意識を高め、同時に国民に、十分な司法サービスを提供することを目的としていた。
その改革の趣旨に沿えば、「有罪率99・9%」という刑事裁判の予定調和の世界は、壊れなければならない。
検察が起訴すれば99・9%が有罪になるということは、裁判官も弁護士もそれを報じる司法マスコミも、法廷の場で白黒をつけるという「公判の役割」を放棄しているに等しい。逮捕起訴で事件は終結している。
しかし、検事は神ではない。
勘違いはするし、見立ても間違う。なのに、逮捕したら起訴しなければならず、起訴したら有罪にしなければならないという圧力のなかで、無理な供述調書を作成、自白に追い込み、神話を守ろうとする。
また、マスコミは報道でそれを支援、裁判所は検察と一体となって秩序を守るという"名目"のもとで、判断を下す苦労から逃れ、量刑にのみ自らの存在意義を見出す。弁護士もまた、刑事裁判で活躍する元検事のヤメ検は、被告に恭順を望み、早期の保釈と執行猶予付き判決を取るのに全力を注ぐ。
戦後、営々と続いたこの刑事司法の世界が、制度疲労を起こしているのは明らかだ。最初に、民主党の複数の代議士を狙い、うまくいかなかったから村木厚子元厚労省局長に捜査を向け、逮捕できるような調書をでっち上げて冤罪事件にした大阪地検特捜部が、その好例である。
特捜部は明らかに行き詰まっているのに、自分で自分を変えることなどできない。本来なら、自供にこだわらず、証拠で詰めて被告を追い詰め、公判の場で争ったうえで、判断は裁判所に任せるのが司法制度改革に沿った検察改革だろう。
全面可視化は、改革をもたらす最も手っ取り早い手段だが、「特捜部」という名を残してエリート意識を培養、組織や人員配置にも手を付けないようでは、1年間の試行後の最終決定は、「全面可視化と一部可視化の併用」という結果に成りかねない。
それでは検察は、何も変わらないし、変わる意思もないことになる。
司法が、マスコミと手を結んで鉄槌を下す---かつて機能した一罰百戒システムは、今や「魔女狩り」となって政治や経済の停滞を招き、障害の方が多くなっている。
それでも「政官」の権力機構の監視役が必要だというのなら、どんな監視機構が必要なのか。それは制度疲労を起こしている特捜部を教訓に、どんな組織にすべきなのか。
そうした変革のチャンスを迎えながら、現状温存の"手直し"では、検察の不祥事は何も教訓を残さなかったことになるし、国民の信頼も回復できない。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK115掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。