67. 2011年6月25日 01:54:38: 5DDlEaqU2o
38です。57さんが、私のコメントに言及しています。 57さんの意見には、「脱原発」を批判する一つの典型的な型が出ていると思います。脱原発運動は、原発に反対するだけで、廃炉によるエネルギー欠損への対応、脱原発後の経済、社会の内容を提出できていない、という批判構造です。確かに「まじめに」考える人がしばしば陥りやすい論理構造かもしれません。 そのため、この点を中心に、57さんへの回答の意味も含めて意見を書いておこうと思います。 なかなか短くまとめられず、少し長くなってしまいましたが、コメントの流れの後の方に来ているのでご容赦ください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 57さんは、私のコメントに対して、次のように書いています。 《38さんへ 私が「冷静さを欠いているのでは?」と言っているのは小出先生を初めとする従来から原発の安全性に疑問を持って批判してきた方に対してではありません。マスコミ報道に乗っかって何も考えずに原発怖い!やめちまえ!と言ってる輩に対してです。 TVなんかに出ているにわか脱原発論者は眉唾物であるとハッキリと言わせてもらいます。 彼らは現実をどういう風にして理想的な状態に持っていくのかについてほとんど関心がありません。単に時流に乗って理想論を語っているだけに過ぎません。皆に心配を振り撒く原発なんかはなくなってしまえばよいという気持ちは十分すぎるほどわかります。だからと言ってその方法論が即時廃止ですか? いろんな方がいろいろと仰ってますけど、経済への影響はないというほどの説得力のあるものは何1つありません。 太陽光発電の面積とバーターで1基、2基・・・とそれこそ計画的に廃炉にするのなら、そのプロセスをきちんと示した上で初めて現実的な脱原発政策になるとは思いますけど、そういうプロセスが何1つ示せないのに即廃炉ですか?》 ここまでが57さんの意見抜粋です。 まず簡単なところから。 57さんは、「マスコミ報道に乗っかって何も考えずに原発怖い………と言っている輩」にこだわっておられるようです。しかし、マスコミ報道が原発や放射能安全派と脱原発派とをどうあつかっているのか見るだけで、こんな論議が皮相なものであることはわかるはずです。 俳優の山本太郎という人が脱原発を表明して、TVと上手くいかなくなったり事務所をやめたという話が投稿されています(私は、申し訳ないながら、山本太郎氏を知りません)。この事実を追ったわけではありませんが、脱原発を表明すれば、このようなことが起こる(あるいは、そうした話がでてくる)のが現状です。原発推進や放射線安全を言って、それゆえにTVを干された話など聞いたこともありません。 原発反対派にも推進派にも、どちらにも「軽薄」な人「眉唾物」はいます(「軽薄」「眉つば」をどうとらえるにしても)。しかし、歴史的に強力で分厚く、今もTV局に擁護されているのがどちらなのか、いうまでもないことです。 被災地のボランティアの中には、「取り仕切りや」が居て、各地で弊害を生んでいることが伝わってきます。こうした者がかなりいるようです。しかし、だからといって、真摯なボランティアが多くいること、ボランティアの役割、ボランティア経験による人々の成長などの要素をぬりつぶして、「取り仕切りや」のマイナス要因にボランティアを代表させるのは暴論でしょう。 反原発運動は、地元などで、圧倒的な原発安全の宣伝の中、賛成派の日々の圧力を受けながら、原発の危険を感じ、調査や申し入れなどを繰り返し、地を這うような抵抗を続けてきた多くの現地住民や、京大6人衆のように冷遇されながら当たり前のことを貫いてきた人たちなど、多くの人たちに支えられています。 「TVに出るにわか脱原発論者」に、脱原発論者を代表させて、脱原発論者は冷静さを欠いている、などというのは、それこそ冷静さを欠いているとしか思えないのです。 失礼。前置きが長くなってしまいました(笑)。 次の点が一つの核心になると思います。 57さんは、一貫して、脱原発による経済の影響を問題にとりあげ、脱原発派は「現実をどういう風にして理想的な状態にもっていくのかについてほとんど関心がありません」と一方的に断じています。この捉え方です。 第一に、57さんによると、論理上は、脱原発ではない現在が経済的に「理想的な状態」であることになります(だから、それを壊すには、別の「理想的な状態」が必要ということになるのですが)。 一体、どこが理想的なのか?………と思います。 原発に限っても、原発にかかわる利権、それを守るための電力会社、政府機関の癒着と極度で深刻な内容の隠ぺい体質、交付金が生み出した膨大な「箱もの」など、どこが理想的なのでしょうか。加えて出口の見えない放射能汚染です。 小泉改革の「聖域なき構造改革」時代にも、原発関連の「箱もの」などは聖域として批判の埒外に置かれました。そして(原発だけが理由でないにしても、それも重要要因ととして)電力会社は世界有数の地域独占体制を保持しています。これが理想的とでも言えるのでしょうか。 そして、このようなシステムを抱えた社会が、年間3万人以上の自殺者や先の見えない多くの非正規雇用、失業などを生み続けているのです。 第二に、脱原発派は「時流に乗って理想論」を述べているだけだということですが、「脱原発」が意味するものは、「理想論」ではなく、原発の無い状態=「より悪くはない状態」「最悪を避けること」を求めていることです。理想を求めるために脱原発を言っているわけではありません。 この基本の上に、「理想」を追求する人もあれば、「さほど悪くない状態」を目指す意識の人もいます。 いずれにしても、「理想論」があるから脱原発なのではなく、脱原発の上にさまざまな追求方向があるということです。57さんの捉え方は逆転しています。 第三に、脱原発派は、廃炉による電力欠落を補完する方法、プロセスなど考えずに全炉廃炉を主張すると言うところが、57さんにとって、とりわけお気に召さないところのようです。 しかし、もともと、電力不足キャンペーンは原発推進のための電力不足演出の面を多分に持つものでした。「計画停電」の怪しげな経緯も共通するところがあります(計画停電については書きたいことが山ほどありますが、ここでは省略します)。そして、今では、電力会社、政府などの、この点についてのデータをすべて真に受ける人は、相当のお人よしと言わなければなりません。私は、この点は63さんなど多くの人が指摘してきた内容で、この論議としては充分だと思っています(これは、さらに具体的な内容にしてゆく課題を持ちます。脱原発派にとって、このことは、少しも困難ではありません。これまでも、幾度も、いろいろなところで論じていますが)。 そして、後で触れるように、廃炉のプロセスを脱原発派が予定表のように出すことなど不可能で意味のないことなのです。 見方によれば、57さんの論議は、第三が中心で、ここに始まりここに終わると言えないこともありません。 しかし、57さんの論議の中には、脱原発運動を、反対・否定だけで対置する内容が出されていない(関心がない)と受け止め決めつけてしまう(つまり誤認する)論理構造があります。「彼らは現実をどういう風にして理想的な状態に持っていくのかについてほとんど関心がありません」という主観主義的な(誤った)捉え方です。 これは、脱原発運動への批判者にしばしば見られる捉え方です。観念的でなく現実的でなければならない、と自認する人などが、よくこうした思考法をとります。そのため、ここでは、この点を中心に、少し触れておきたいと思いました。 57さんの論理に見られるこうした「現実的」「具体的」思考は、しかし、57さんの主張の最も現実離れして誤っているところなのです。 問題の中心は、次の点にあります。 原発継続なのか脱原発なのかは、並立する二つのプラン、二つのシナリオではないということです。 たとえば、57さんが原発継続を前提とした社会(経済)プランAを出し、私が脱原発の社会(経済)プランBを出して、(二人ででも、何かの委員会の場でも、国民投票でも、何でも良いのですが)A,Bのどちらがよいのかを突き合わせて理論的に検討し、57さんのプランが優れていれば原発を継続する、私のプランが優れていれば(翌月から、来年から、等々)原発すべてを廃炉にする―――57さんの「脱原発」批判は、こうした前提の上でなら、たしかに論理上は成り立つ可能性があります。 しかし、原発継続か脱原発かの選択は、このように、二つのプランを目の前に並べて、「どっちにしようか」というように選べる問題ではありません。 原発継続は、核技術保持や強い政策的動機、国際原子力商戦、電力資本、政府、大学ほか研究機関、原発立地地元などに広がる莫大な利権構造などによって、その利害・動機が強力に再生産させられ、支えられています。原発が存在する社会の経済プランが、他のプランと比べ、より優れているから原発を継続している、というわけではありません。 反対に、脱原発の立場から見れば、脱原発後の精密な青写真を出したところで、それだけでは、この構造を打ち破ることはできません。あるいは、より以上に、「脱原発」後のプランとは、一体、何を指すのかが、より根本の問題になるのです。 それは、57さんが、それだけを繰り返し言っているような電力供給量の問題だけではありません。むしろ、63さんなど多くの人が指摘しているように、「電力不足」は主な問題ではありません(といっても原発推進派は、このことを認めないので、これは留保しておきましょう)。問題は、「脱原発」とは、原発という発電設備がなくなることを意味するだけでなく、それに劣らず、「原子力村」という巨大な利権構造が打破されることを意味するところにあります。 「脱原発」には、たしかに、脱原発後のプランが求められるとも言えるのですが、それは、57さんが言っているような「原発を全部廃止しても”経済的に”全然大丈夫」なことを示さなければならない、といっただけで済む単純・簡単なものではありません。原発を中心に巨大に張りめぐらされた利権構造を転換すること自体、その実現に向けた政治・社会関係自体が、各局面で、大変なプロセスであり、シナリオそれ自体なのです。 原発村の利権は、その他の政・財・官などの利権構造と重なり絡み合っていて、区分されるものではありませんが、それでも、利権の独立した領域を形成しています。 脱原発とは、この利権を享受し死守しようとする強大な勢力とたたかい、それを突き崩すことを意味します。脱原発派の意向で、どの炉をどのように廃炉してゆくのかなどとのどかに計画を立てられるような状況ではありません(政治的に、重点や取り組み段階などを設定することなどもちろんあります)。利権の中には、一掃すればするほど良いものが多くあります。電力独占やその利権に群がる政治家、天下り団体、陰に陽にその支援を受ける大学・研究所、等々。他方、(これは利権というより生活条件と言うべき内容ですが)打倒するのではなく、別のものに転換するプランがより必要なものもあります。原発や関連企業、交付金を基礎に生活している地域の人々、原発労働者などです。その際、交付金で潤った地域も、少なくない地域が、年ごとに苦しくなり、そのため、あらたな交付金を求めて新規立地を求めると言う「中毒症状」に追い込まれていることは見ておかなければなりません。 これらの利権構造を、完全に、あるいはかなりの程度に突き崩したその後に原発廃止が実現するのか、あるいは、その構造・権力を多く残している段階で原発廃止が比較的短期・容易に実現するのか――実際に考えられるのは、この中間の様々な段階です。いろいろな条件の絡み合いで原発が速やかになくなれば、それはそれで良いことです。その際、利権構造は形を変えて生き残りやすいかも知れません。反対に、利権構造を打破するかなり徹底した運動の末に原発をなくすことになれば、利権解体の面では良いことですが、原発廃止の時期が遅くなることもあります。 この問題は、どちらがより良いのか悪いのかと単純に言えることではありません。 そして、脱原発の側から選択することも(ほとんど)不可能です。なぜなら、いうまでもなく、脱原発は、既得権に何が何でもしがみつく意図を持ち、そのための強大な権力・経済力をもち、政治家、マスコミ、研究機関、地域などを買収・動員して原発を推進し、反対運動を圧迫しとりしまる強大な勢力と対抗して、これを突き崩してゆかなければ実現できないからです。机上のシナリオ・予定表を精密に作ることで実現できるようなものではありません。自民党は、80年代初頭の大会で「原発反対運動断固粉砕」という異例とも言える敵意をむき出しにした文言を決議文に入れています。その一環ですが、原子力村は、原発についても、電力についても、情報隠ぺい、ねつ造を繰り返しています。脱原発派が「シナリオ」を立てるべき基礎のデータすら、闘争を通じてしか獲得できないのです。 どこから突き崩せるのか、これは強大な相手があることで、しかも、さまざまな条件、環境(例えば国際情勢他)にも影響されることです。脱原発の側から、この過程について、上述の性格を考慮せずに特定の「プロセス」「シナリオ」を描いたならば、絵にかいた餅になるだけです。 原発が全廃されれば、直接の意味での原発利権は消失します。これは、社会・経済の巨大な害悪の廃止を意味します。「理想」かどうかは別にして、良いことなのは間違いありません。 ただ、原発利権は、前述のように他の利権と絡まっているので、原発利権を廃止したさいに、他の利権も大きく突き崩れるのか、他はほとんど変化なしに生き延びるのか、そして原発利権が、どの程度、他の利権(たとえば再生可能エネの)に乗り移るのか、………どのような可能性も考えられます。できるだけ原発廃止と同時に利権構造全体を解体することが望ましいものの、これも脱原発の側からあまり選択できることではありません。ただ、確実に言えることは、特別の巨大さ、強力さを持つ原発利権を崩すことは、他の反社会的な利権を崩す糸口にもなり、その力を強めることにはなるということです。 「シナリオ」という意味では、原発利権構造を突き崩す闘い、局面のそれぞれが「シナリオ」の重要な内容です。 同時に、関連して、たしかに57さんが「心配」する経済政策も求められるのですが、それは、脱原発実現の時期的な見通し、脱原発がどのような社会・政治関係で実現することになるのかの見通し(当然、推定が多くの比重を占めます)に応じて、多くの可能性を想定しながら構想され、事態の進行によって変更されたり練り上げられたりしながら進むものになります。 脱原発に伴う「シナリオ」は必要です。しかし、求められるその性格は、57さんがいうように、一つの「シナリオ」で済むような生易しいものではありません。 そのために、経済の専門的な理解も非常に重要です。 私が、57さんの前のコメントにあった「経済のことを良く知っている人」に関して、経済学者の流れを上げたのは、このことと関係もしています。 今の社会は経済無策に近い状態です。予算は省庁縦割りでつくっているだけです。 脱原発運動が(広義の意味での)経済政策に習熟し、各局面で「プラン」をさまざまに提示できる力を付けることは重要で積極的です。その際に、「経済のことを良く知っている人」―経済学者の主流・大半が、(「原発安全」のほとんどの原子力学者と同様に)どうしようもない内容であることを踏まえておく必要があるので、経済学者の大筋の推移を書いたのです。 というのは、原発事故以前にも日本経済は出口の見えない状態に陥っていて、簡単な克服処方箋はない状況だったのですが、にもかかわらず、原発事故の有無にかかわらず、その打開方法を試行錯誤する必要はありました。そのためには、「どうしようもない」学者の見解も含めて、確かに「経済のことをよく知っている」人の作業も利用し(どの程度利用価値があるのかはそれぞれですが)、あらゆる内容を検討し、摂取できるものはしながら、新しいものをつくってゆく必要があります。そのためにこそ、そうした「経済学の権威」などに幻想を持つことなく、権威に左右されることのないように、その内容を批判的に捉えておくことが一層重要になってくるのです。彼らがどのように失敗し、論理破たんしているのか、その失敗の仕方、論理の誤魔化し方すら(たとえば、それを繰り返さないためにも)充分学ぶ必要があります。 繰り返しになりますが「経済を良く知っている」誰かに受け身で依存しようとする立場では、今後の社会を構想するような積極的なものは決して得られません。 脱原発後のプランの中には、原発廃止の過程で人々が変わることも内包されます。 原発やその利権構造と闘う人たちは、学習や経験を通じて、社会への理解を深めます。原発と闘ってきた人たちは、まず何より、政府、電力資本、原子力の権威などの情報自体を疑うことなしには何もできない状態でした。そして、政府やマスコミ、権威ある学者などの「原発安全」「放射能安心」の大洪水に疑念を抱かざるを得なかった人々は、マスコミなどを絶対化し受動的になる姿勢を変え始めています。この原発事故に際しては、(一部だけ報道されていますが)福島だけでなく東京も含めた多くの地域で、子供を持つ親をはじめ、協力して放射線量を自主的に測る活動が広がっています。人々が権力・権威に操作されず自主的に考え協力して自ら行動すること、そのような人が増え、社会で重要な役割を果たすようになってゆくこと………これは「シナリオ」の根幹にかかわることです。 原発の地元の大半は、建設をめぐって地域が引き裂かれていますが、それは、賛成派と反対派が「対等」に分裂したわけではなく、権力・財力を背景に持ち、利権につながるものも含む賛成派が、ときに警察権力などと一体になることまでして、反対派住民をいじめ、圧迫し、排除する動きなどを起こしてきました。脱原発は、こうしたことを終了させる条件です。それが、どこでも、すぐにきれい事で修復されるとは思えませんが、権力や利権を持たない脱原発派は、運動の中で成長させた自立・協力などの姿勢で、それを克服する条件を持っています(それを意識的に追求することが必要です)。 しかし、エネ不足にしないため軍隊派遣までも、などと発想できる57さんにとって、人々が自主性を強めること自体、嫌悪の対象なのかもしれません(そうでないことを願いますが)。そうであれば接点はありませんが、57さんのような人に教えられる生徒には同情します。 震災被害と原発被害とで、いずれにしても、日本社会・経済の落ち込みを避けることはできないでしょう。 今の社会・経済システムの中では、「少なくなってゆくものを分かち合う」ことは至難の業です。しかし、部分的でも、すこしずつでも、さまざまな領域で、人々が、それを心にとめ、いろいろな面からそこに接近する多くの人の自覚や活動を、支えの一端にしなければ、現在の隘路から脱却に向かうことは不可能です。その必要条件の一つである人々の自立と協力の経験は、脱原発のなかでも少しずつ培われていることは間違いありません。 経済の全体政策は、これにとどまるものでないとはいえ、こうした人々の変化を「シナリオ」の中の重要な位置に組み込み、また、それを促す「シナリオ」となることが必要です。 脱原発後がどうなのかの問題は、そこに向かう変革過程への評価と不可分です。原発利権を再生産させる巨大な力をそぎ取ってゆく双方の側の変化を考察の前提に置かず、脱原発後がどうなるかを論じ、相手がそのことに「関心がない」と決めつけても、積極的なものは出てくるはずもありません。 脱原発後の社会をめぐって、この点を大雑把に言うなら、原発を廃止してゆく社会的力、その変革過程で、「電力不足」(はたしてそうか?)なるものを克服することは可能です。「節電」も、原発推進のための意図的な「不足」の演出でないならば、社会の多くの協力を得る条件があります(先の計画停電のようなものなら不満が爆発します)。そして、原子力村が社会に貼りめぐらせてきた害悪が除去される分、社会がよりよくなりることは間違いありません。その利権構造の除去のされ方、脱原発を通じた人々の成長度合いによって、どれほどより良くなるのか、無数の場合が想定されますが。 57さんは、豊富な電力供給を豊饒な日本社会とダブらせているかのようです。しかし、今は、過剰消費が成長の循環に直結するような社会ではありません。 57さんは、充分な安全対策を講じたうえで、反対運動を軍隊で潰しても原発を稼働させると言っています。「十分な安全対策」(に限りなく近いものが仮にあるとして)、それにどれほどのコストがかかるのか。その方が、脱原発よりも、より以上に生産的でないコストがかかり、電気料金が際限なく高くなることは明らかです。十分な安全対策には、廃棄物処理、廃炉費用なども当然含まれます(42さんは、このコスト問題を興味深く論じています)。このことを考えるだけでも、説得力あるシナリオを持たないのは57さんのほうです。 57さんは、前のコメントで、原発をとめれば失業が増え、自殺者も増えると強調しています。57さんは、そのような人たちを生んではいけないという思いから、軍隊を使っても………となるようです。しかし、これが失業にさらされるような人たちへの救いになるのかどうか。ファシズムも2・26も、失業者・貧者などの救済を掲げていて、実際、それを真剣に考えて行動した人も少なくないはずです。しかし、その結果は、人々が軍の下に窒息させられ、軍に人権を奪われ生殺与奪を握られ、国内外に、日本人、外国人を問わず、無数の屍をさらすことでした。特権、権益を背景に事実を隠ぺいねつ造し支配する権力を認めることなく、それに対する人々の自主的な判断、闘い、相互扶助などの成長とともに想定される「シナリオ」でないならば、そんなものは、いくら失業者のため、自殺者を救うため、などと(かりに主観的に)思っても、人々にとって、救済になるものではなく、良いものをもたらすものではありません。 (それにしても、電力不足が戦前のような統制経済を招くと心配する(34)57さんが、軍隊を派遣してでも、などというのは、なかなか理解しづらいところですが) ・・・・ 57さんと私の論点は、電力供給問題の面で言えば、63さんなどがあつかった論議領域で充分とは思います。 しかし、57さんが提出した考え方は、いわゆる「政策対置」などと言われる論議とも結びついていて、かつて、反政府運動に対して「反対ばかりしているだけではだめだ」という批判の「切り札」になったものと共通しています(「反対ばかりで硬直している」という批判も、またその同じ批判ばかりで非常に硬直していたのですが)。 かつての「反対運動」の問題点は、これとは別のところにあります。ただ、これ自体の論議はここでは省略します。 57さんの主張は、「反対運動」を抑え込む一つの典型的な、定型化された論議なので、これに触れました。 長くなってしまったことをお詫びし、この「プロセス」「シナリオ」問題の論点だけでひとまず終えます。 それから、先に40さんに、過分な評価をいただきました。冷や汗ものですが、力づけられます。
(以上)
|