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原発マフィアで日本中にアメリカの手先として、原発を作った核武装論者の中曽根康弘に、なぜ日本国は大勲位という最高の勲章を与えたのか。今でも毎日のように日本の上空に放射能が広がり、日本列島が生き地獄になっていると言うのに、中曽根は平然として責任を感じていないのだ。勲章は売国奴に与えるものではないはずだ。
<貼りつけ>
原発マフィア第2号、中曽根康弘
「中曽根はアメリカ特別大使J・F・ダレスが来日(1951年1月)した際に、
ダレスに航空および原子力の研究の自由を求める書簡を送っている。
1952年4月28日に講和条約が発効しているから、その約一年前のことである。」
「中曽根は原発マフィアであった。それも日本がまだ独立していない時期からである。
児玉誉士夫の子分となり、政治資金を貰い続けているうちに、児玉同様にアメリカの、
特にCIAのエージェントになっていたものと私は推察する。
中曽根は1953年7月から11月まで、
ハーバード大学の国際問題研究会に出席するために渡米している。
この旅の途中で彼の面倒をみたのは当時ハーバード大学の助教授だったヘンリー・キッシンジャーだった。
キッシンジャーは当時ネルソン・ロックフェラーのブレーンであったが、
助教授になる前にロスチャイルドが実質的に支配するタヴィストック研究所に行っている。
いわば、ロスチャイルドのエージェントでもあった。
中曽根は四ヶ月もかけて、何が目的でキッシンジャーの世話を受けたのかを考えるとき、謎が解けてくる。」
「佐野真一の『巨怪伝』から引用する。
『中曽根はその著書のなかで「これがわが国における”第三の火”のスタートとなった」
と書いている。中曽根が原子力予算案を出したのは、
アメリカが極秘のうちにビキニ環礁での水爆実験を行ってからまだ二日後のことだった。
ここから浮かびあがってくるのは、中曽根はビキニの核実験をひそかにアメリカ側から知らされた上で、
あえてこの日に原子力予算をぶつけてきたのではないかという疑惑である。
さきに述べたように、読売がこの水爆実験をスクープするのは、3月16日のことだった。
もし読売のスクープが出たあとであれば、当時の国民感情からいって、
この予算案は通るどころか、上程することすら出来なかったはずだ。』」
「中曽根が夏季セミナーに参加した頃、1953年8月、ソ連が水爆実験に成功している。
ルイス・L・シュトラウスを中心とした強硬派が核の予算獲得を主張していた頃である。
シュトラウスがアイゼンハワーを動かし、
『アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)』の演説の準備に入っていた。
私はシュトラウスが日本を一つの大事なファクターとして考えていたと思う。」
「シュトラウスは唯一の原爆を落とされた国ニッポンに的を絞り、
原子力の平和利用の国家としようとしたのである。」
註 ルイス・L・シュトラウスについて第1章から要約
ロスチャイルドのアメリカ代理店であるクーン・ローブ商店の共同経営者。
同商会はロックフェラーセンター・ビルの56階に陣取り、
ロックフェラー家全体の財務を担当し、一族の銀行口座すべてを管理している。
つまりロックフェラーの事業、投資はすべてクーン・ローブ商会の共同経営者の承認を
受けなければならないことを意味する。これは今日でも変わらない。
シュトラウスは1950年から53年までロックフェラー兄弟の財務担当顧問の地位にあった。
彼はロード・ロスチャイルドが見事に育て上げた優秀なるエージェントであった。
「和製原発マフィア第1号と第二号は、CIA、アメリカ陸軍情報部、
そしてAECらの手で大事に育てられてきたのである。」
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