04. 2011年6月15日 21:57:57: bmOlxxtYE2
>2 >もう片方は、元痴漢 特捜部は正義を実現する為に活躍しているのだ、マスコミの報道は正しいと無批判に信じているのですか? お目出度い人ですね。 村木厚子氏(==>石井一氏を陥れる目的で)、鈴木宗男氏、佐藤優氏、植草一秀氏、小沢一郎氏、古くは田中角栄氏等を国策捜査で冤罪をでっち上げ、国政を歪めてきている事を知らないとでも言われるのですか。民主党等に厳しい評論家の森田稔氏のサイトでも植草一秀氏の冤罪について触れられていましたので参照下さい。 森田稔の時代を斬る http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/WA2-63.HTML 植草一秀著『知られざる真実―勾留地にて―』を読んで ――植草氏の一日も早い名誉回復を祈りたい ◆はじめに――植草氏は「無実」である/あの事件は謀略だ 腐敗した自公政権が日本政治を牛耳るいまの邪悪な世の中では、心ある正義の士は葬り去られる。たとえば、彼らは、自殺を装った他殺や犯してもいない罪をでっち上げられて、社会的に抹殺される。日本の検察や裁判所、それに警察が「正義」だなどというのは、まさに“幻想”でしかない。むしろ彼らは、単に政府(=政権担当者)の走狗にすぎない。 無論、なかには真実・無私の検察官や裁判官、それに警察官もいよう。だが、これらの心ある方々は、自らの心に矛盾や憤懣を感じながら、日々勤務しているのではあるまいか。組織特有の自らに甘い“内向き”の体質が、これらの人々の良心や正義感を時に萎えさせ、時に麻痺させる。 なぜなら、組織で働く人々は、妻子や家庭生活を人質にとられている弱い存在でしかないからだ。それゆえ、いきおい彼らは、自ら感じる怒りや正義感を封印し、日頃、無理難題を負わせる上司の命令に服することになる。ひたすら無念の涙を流しながら、じっと家族のために耐えている人々が、わが国には一体どれほどいるのだろうか。私は、いまの日本にはこのような人々の怒りや憤懣が充満していると感じるのだ。 しかし、このような時の政権の不正や腐敗を座視できず、自ら信じる持論を堂々と展開する勇気ある人もいる。だが、それをなしたがゆえに時の政権担当者たちから憎まれ、罠にはめられた識者も決して少なくはない。植草一秀氏がその代表的な人物だと思う。 植草氏は世に言う「手鏡事件」で不当に逮捕された。そして、2回目など東京拘置所に132日間も勾留された。だが、さまざまな情報を渉猟し精査すれば、誰でもそれらが明らかな“冤罪”、つまり“でっち上げ”だったことがわかる。 では、どのような人々がそんな酷いことを仕組んだのか? それは誰よりも植草氏が名誉を剥奪され、社会的に葬られて、最も喜ぶ人であろう。人に「理性」というものがあるならば、あの事件が謀略だったと確信することだろう。 植草氏は、「天地神明に誓って、このような罪は犯していません」と言明された。私はこの言葉を100%信じる者である。この思いは、私が言うまでもなく、すでに数多くの心あるブロガー(ブログ主宰者)や知識人たちが表明している。 ところで、植草氏は、ご自分のブログ[知られざる真実]の〈財界による「日本郵政私物化」を拒む改革が必要〉(5月21日)と題する論考の冒頭で次のように記している――《政権交代を実現する意義は、日本の政治をこれまでの、「資本の論理」、「官僚の論理」、「中央の論理」に基づく姿から、「生活者の論理」、「国民の論理」、「地域の論理」に基づく姿に転換することである》と。 実に明快だ。まさにそのとおりだと思う。今日、野党勢力はこの視点で選挙運動を展開している。だが、この植草氏の言葉は何度強調されてもされ過ぎることはない。 たしかに、今日の自公政権は「資本」「官僚」、そして「中央」の論理なのだ。とりわけ財務官僚を主にした“霞が関”が自らの保身や職場の権力拡大のために政府の要所を押さえている。だが、この「昔軍人、今官僚」の悪弊を打破し、彼ら(=官僚)の力を国民のために活用することこそが、民主党主体の新政府には何より求められると思うのだ。 ◆竹中平蔵氏の“欺瞞”を最もよく知る植草氏 最近、植草氏の著書『知られざる真実―勾留地にて―』(イプシロン出版企画)を読んだ。これは後世に残る名著だと思う。実に内容の濃い気高い“魂の書”である。 同氏のブログのなかには同書を説明してこう書かれている。「小泉竹中経済政策の深い闇を抉る戦慄の告発書」「満身創痍にひるまず、権力に立ち向かう著者が小泉竹中経済政策を一刀両断に斬る救国の告発書」と。「満身創痍」という言葉は決して大袈裟ではない。 小泉・竹中経済政策がいかに売国的で国民を裏切るものであったかは、年々歳々、明白なものとなっている。「郵政民営化」がその典型だ。無論、植草氏をはじめ心ある識者には、小泉政権が邪悪な従米主義を本質としたものであることは自明のことだった。加えて、同政権がどれほど財務省の言いなりであったかということも周知のことだった。その小泉政権の売国的体質を最も深く認識していたのが、実は植草氏だったように思うのだ。 竹中氏にとって植草氏はちょうど10歳下の経済学者だ。竹中氏は、同業の植草氏に異常なほどの羨望と脅威を感じたことだろう。そのことは容易に想像できる。というのは、植草氏の客観的な経済分析能力は竹中氏をはるかに凌いでいると思うからである。なぜなら、竹中氏はミルトン・フリードマンの「新自由主義(=市場原理主義)」なる欺瞞的な経済理論の“単なる信奉者”に過ぎなかったからだ。簡単に言えば、竹中氏の経済理論なるものは単なる“屁理屈の受け売り”に過ぎないと思う。 私は竹中氏を学者だとは思わない。本来、学者は「真理」に対して謙遜、かつ公平でなければならない。また、自らの持論を「多の中の一」と考えるだけの客観性がなければならない。だが、彼は微塵もそのような謙遜さや客観性を持ち合わせていないと感じる。 いまでも竹中氏は性懲りもなくテレビ朝日系の番組に出演している。だが彼は、人と議論しても、同じ土俵で論じ合うというよりもむしろ自分で勝手に土俵をつくってしまい、そこで自ら覚えた(?)議論をまくし立てているように感じる。換言すれば、彼は学者というよりもむしろ欺瞞的で偏狭な宗教家(=原理主義者)に近いように思うのだ。だが何より問題なのは、彼がアメリカ大資本の悪辣な“手先”の一人だということだ。 これに対して、ジョン・M・ケインズを敬愛する植草一秀氏は、日本国内の現実を直視した正当な経済理論を展開する。その卓越した経済分析はまさに超一流である。2004年4月、彼が不当に逮捕される前、テレビ番組『ウェークアップ』などでのコメンテーターとしての活躍は目を見張るものがあった。植草氏には、単に優れた分析能力だけでなく、むしろ人一倍の正義感とヒューマニズムが感じられた。それゆえに魅力的だったのだ。 私は、植草氏と竹中氏は「月とスッポン」「提灯と釣鐘」だと思う。「太陽」と「月」ぐらいの違いさえあろう。端的に言えば、“ホンモノ”と“ニセモノ”の違いがある。竹中氏が“ニセモノ”であるゆえに、同じ“ニセモノの政治指導者”小泉純一郎氏に重用されたのだと思う。私は、両者は同じ“ニセモノ”であるゆえに“波長が合った”のだと感じる。 竹中氏の欺瞞を最もよく知っているのが植草氏ではあるまいか。それゆえ彼は、虐げられた日本国民を覚醒するために、本著を書かずにはいられなかったと思うのだ。 ◆本書は、絶望の淵から生還した植草氏の清冽な“魂の書”
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