http://www.asyura2.com/11/senkyo115/msg/170.html
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長谷川幸洋氏(東京・中日新聞論説副主幹)は、マスメディアに在籍する中で“まとも”であることでは極めて稀な論者の一人。
(その対極には、朝日星・読売橋本・毎日岸井・共同後藤など)
それはここにも多く転載される現代ビジネスのコラム「ニュースの深層」でもご承知のとおりです。
◇長谷川幸洋「ニュースの深層」
http://gendai.ismedia.jp/category/news_hasegawa
今回は、中央公論に寄稿した『福島原発とともにメルトダウンした菅政権』という記事をご紹介します。
◆「中央公論」2011年7月号掲載
http://www.chuokoron.jp/2011/06/post_83.html
◆Yahoo!ニュースより
(その1)中央公論 6月11日(土)17時10分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110611-00000303-chuokou-pol
(その2)中央公論 6月11日(土)17時11分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110611-00000304-chuokou-pol
土俵際まで追い込まれながら、菅直人政権がしぶとく生き残った。「辞める」と言ったように見えるが、実は肝心の退陣時期を明示しない玉虫色の「退陣表明」である。
東日本大震災に東京電力・福島第一原発事故という戦後最大の危機にあって、菅政権は「政治」を投げ出す一方で「政権」にはしがみつこうという姿勢が鮮明になっている。最悪の展開である。本格的な二次補正予算にしても、口ではやるといいながら、中身はまったく見えてこない。東電賠償問題も行き詰まっている。
まるで政権が炉心溶融(メルトダウン)したかのようだ。政治不在の先に、なにが待っているのか。
■ 東電をめぐり閣内の空中分解が始まった
政権のメルトダウンは五月十九日、西岡武夫参院議長が『読売新聞』への寄稿で菅首相に辞職勧告した一件が象徴している。憲法は衆院で不信任案が可決成立した場合、首相に衆院解散か内閣総辞職の選択肢を与えている。参院に首相を辞めさせる権限はない。にもかかわらず、参院議長が公然と首相に辞職を勧告するとは、まさに前代未聞の事態だった。
西岡は参院で首相に対する問責決議が可決成立すれば、議長として「本会議の開会ベルを押さない」ことをにおわせながら、菅に辞職を迫った。憲法も想定していなかったガチンコ対決である。本稿執筆時点で対決の行方がどうなるか見通せないが、与党である民主党出身の議長が倒閣宣言した事実は重い。
それだけではない。
政権の内部崩壊は東電の賠償問題でもあらわになった。
原発事故の収束が見えない中、三井住友銀行はじめ東電に融資していた銀行と東電に既得権益をもつ経済産業省、それに東電自身は早くから「このままでは経営破綻」と覚悟して、生き残りのために政府の支援を引き出そうと懸命に動いていた。その結果が五月十三日に発表された政府の賠償案である。
政府が新たに設立する機構に交付国債を発行し、東電は資金が不足すれば、交付国債を現金化する。その後、長期で国に分割返済する仕組みだ。国は最終的に賠償負担を回避できる。株主は一〇〇%減資がなく、上場を維持するので株式が紙くずにならずにすむ。銀行も融資や社債の債権カットを免れた。
カネはどこからも降ってこない。東電の純資産は三兆円しかないことを考えれば、一〇兆円以上とも言われる賠償金を賄うには一〇〇%減資してもまだ不足する。まして東電を存続させるなら、だれも腹を痛めずに生き残れるわけがない。海江田万里経産相は「国民負担を極小化する」と強調したが、ツケが結局、電気料金値上げの形で国民に回るのはあきらかだった。
被災者にさえ料金値上げの負担を背負わせる案に、国民が納得しないのは当然である。批判を避けるために、枝野幸男官房長官は政府案の発表当日「(銀行に債権放棄を求めなければ)国民の理解は到底得られない」と述べた。その場しのぎにも聞こえたが、自分たちが決めた政府案の骨格部分をひっくり返すような発言だった。
すると与謝野馨経済財政相が「公益性をもった事業に貸し手責任が発生することは理論上、ありえない」と枝野発言を批判した。政府案を決めた直後に閣内の意見対立が表面化し、支離滅裂状態に陥ってしまったのである。
さらに霞が関からも批判が飛び出した。
細野哲弘資源エネルギー庁長官は新聞、テレビ各社の論説委員らを集めた懇談会で、枝野発言について「これはオフレコですが」と断ったうえ、こう言った。「はっきり言って『いまさら官房長官がそんなことを言うなら、これまでの私たちの苦労はいったい、なんだったのか』という気分ですね」。細野は東電存続のために苦労して政府案をまとめたのに「いまさら銀行に債権放棄とはなにを言っているのか」と非難したのだ。
細野の立場は明快である。事実上「国民にツケを回すべきだ」と言っている。とても支持できないが、正直な感想は問題の所在と構造を明確にしていた。
この話を私がネットや新聞紙上で紹介すると、ひと騒動が起きたのだが、それについては後で触れる。ここでは、舞台裏で政策をつくる霞が関からも異例の政権批判が飛び出した点を指摘するにとどめよう。
霞が関が政権中枢に不信感を抱いているのはあきらかだった。これは菅政権の行く末を暗示するかもしれない重要なポイントである。
政策そのものも混乱していた。
東電を存続させるかどうかは、エネルギー政策全体にかかわっている。賠償案は東電存続を前提に組み立てていたが、菅首相はその後、電力の地域独占を見直し発電部門と送電部門を切り分ける「発送電分離」を進めて、太陽光など再生可能エネルギーの利用促進を検討する考えを表明した。
地域独占を廃止して発送電分離となれば、東電は必然的に解体の方向になる。存続と解体では政策の基本的ベクトルが真逆である。菅政権はいったい、どちらの方向で進めたいのか、はっきりしないどころか、あきらかに矛盾していた。
ようするに、菅政権は重要政策をめぐって閣内が空中分解し、霞が関からも見放されつつあった。西岡参院議長が辞職勧告したのは、やむにやまれぬ思いがあったのだろう。
■ 復興構想会議に丸投げ呆れた「政治主導」
メルトダウンした政権は、もはや重要政策を動かす意思もなかった。本格的な復興対策を裏打ちする二〇一一年度第二次補正予算案の提出は、会期を一ヵ月半も残した五月の連休中に早々と臨時国会への先送りを固めてしまった。
喫緊の最重要課題が被災地復興であることに議論の余地はない。国民の命と暮らしを守る。これができなくて、政治家が職責を果たしたと言えるのか。菅政権は自分が決めた東電賠償案も閣内不一致を隠せず、国会提出を先送りしようとしている。
東電の先行きは見通せない。銀行は東電が結局、破綻するとなれば、水面下で返済期限の来た融資を引き揚げる可能性が高い。そうなれば東電から資金が流出する。結果的に賠償に回す資金が減って、打撃を被るのは数万人に及ぶ被災者である。政権が政治から逃亡したツケが被災者に回る。菅政権の存続自体が被災者に二重の「政治災害」をもたらすのである。
私は五月中旬にもっとも被災が激しかった地域の一つ、宮城県石巻市にある石巻市立病院を訪ねた。病院に人影はなかったが、壁には避難者リストの張り紙が残り、患者や医師たちが一斉に退去した直後の姿をとどめていた。浸水した一階は完全な廃墟、二階は暗闇に包まれ、三階以上には枠だけのベッドやマットが散乱している。医療拠点が崩壊した中、残った人々は街を去るか残るか、苦しい決断を迫られていた。
水産加工業者たちは震災から二ヵ月を過ぎても復興計画が決まらない中、同じ地で再建に動いていいものかどうか、設備投資に踏み切れないでいた。まさに地域の生活基盤をどう立て直し、産業をどう再建するのか、政権の姿勢が問われていたのだ。
菅政権は「復興構想会議の報告ができるのを待って二次補正を編成する」と唱えている。そういう姿勢こそが政権のあり方として根本的におかしい。
民主党政権はそもそも「脱官僚・政治主導」を掲げて、〇九年総選挙に大勝し成立した政権である。政治主導を実現するための仕掛けとして新設したのが、国家戦略室と国家戦略大臣だった。
被災地を新たなモデルタウンとして復興し、明日の日本の姿を先取りする。そんな菅首相の意気込みを額面通り受けとるなら、復興策づくりこそ本来、国家戦略室の仕事ではないか。ところが、国家戦略室はまったく機能を停止していた。
四月末にテレビ朝日系列の「朝まで生テレビ!」で同席した平野達男内閣府副大臣が国家戦略担当の副大臣と知って、私はCM中にスタジオで平野に「国家戦略室はいったい、なにをしてるんですか」と聞いてみた。すると平野は「この一ヵ月半、まったく開店休業状態です」と率直に打ち明けた。岩手県出身の平野は副大臣というより、政府の被災者生活支援特別対策本部副本部長として動いていた。
玄葉光一郎国家戦略相の影も薄い。大臣は危機にどう対応したのか。いや、多くは望むまい。国家戦略室は菅が総理になった後「総理のシンクタンク」に格下げされた。それなら、せめて独自の助言があったのかと言えば、それもない。いまや完全に名前だけの国家戦略室と大臣なのだ。官僚と報酬の無駄遣いではないか。
菅政権は内閣法を改正して、逆に大臣を三人も増やす方針を決めた。そのための改正案は通常国会に提出している。大臣の事業仕分けこそが必要なのに、さらに無駄遣いを重ねようとしていたのだ。入閣待ちの議員たちに期待を抱かせ、菅政権に忠誠を誓わせるためである。ここでも本来の「政治」がなく、政権維持の思惑だけが露骨に表れていた。
政府が復興策づくりをしない代わりに設けたのは、「復興構想会議」だった。
もっともらしい有識者を集めて議論させ、当たり障りのない結論を並べる。舞台裏を仕切るのは財務省をはじめとする霞が関官僚である。分かりやすく言えば、自民党時代の「審議会政治」の復活だ。だからこそ肝心の議論が始まる前に、いきなり五百旗頭真議長(防衛大学校長)の増税路線が表に出てきた。
政治を投げ出してしまった菅政権であっても、政権にしがみつくには政策づくりにいそしんでいる姿を国民に見せねばならない。そのための仕掛けが復興構想会議だったが、具体案は財務省に丸投げせざるをえないので、出てくる結論が最初から「増税」になったのは必然である。復興構想会議はいまや「増税構想会議」になりつつある。
東電賠償も経産省と財務省に丸投げしたものの、最後の最後になって耳触りの良い「銀行の債権放棄」を枝野が口にしたので、ぶち壊しになってしまった。政治家が政策づくりに主導権を発揮せず、官僚まかせにした挙げ句の醜態と言うほかない。
■ 政官業学報ペンタゴンがつくりだした安全神話
政権がメルトダウンする一方で、国民は原発事故から大きな教訓を学びつつある。事故は自然災害というだけではなく、人災の側面があった。正しい安全対策があれば、事故は避けられたかもしれない、という教訓である。
安全対策はなぜ十分ではなかったのか。ひと言で言えば、政治家と霞が関、学会、電力会社さらにマスコミも一体となって「安全神話」をつくりだしてきたからだ。いわゆる「政官業学報ペンタゴン(五角形)」の構図である。
原発の安全監視をする原子力安全・保安院は経産省の外局になっていた。経産省は同じ外局に原発推進の旗を振る資源エネルギー庁を抱え、歴代幹部は何人も電力業界に天下っている。保安院とエネ庁は同じ官僚が行ったり来たりしている。退職後の世話になりながら、原子力安全・保安院が十分な安全監視をできるわけがない。
内閣府の審議会である原子力安全委員会も似たようなものだ。ここには原発推進派の学者が特別職公務員として入れ替わりで陣取っていた。元委員長の一人はテレビのインタビューで「(十分な安全対策を実施するには)費用がかかる」と発言している。
税金で年間一〇〇〇万円以上の報酬を受け取りながら、電力会社の利害を代弁していたのだ。多くの政治家は票とカネの世話になっていた。マスコミにとっても電力会社は有力なスポンサーだった。
そうやってつくられた安全神話の下で、原発の安全対策はなおざりにされてきた。電力自由化や再生可能エネルギーを活用していく政策は形だけにとどまった。
原子力村と呼ばれる官業学トライアングル(三角形)はいまも強固な基盤をもっている。政府が決めた東電賠償案すなわち東電温存策こそが証拠である。先に紹介した細野エネ庁長官の発言は銀行に債権放棄を求めた枝野発言を批判する内容だったが、それは銀行の金融支援が東電存続の鍵を握っていたからだ。
政府が賠償負担せず、銀行も金融支援から手を引いてしまえば、東電はその分のコスト増を電気料金引き上げで国民に転嫁せざるをえなくなる。そうなると「国民負担の極小化」という宣伝文句がでたらめと分かってしまう。だから細野は枝野を批判したのだ。
■ 経産省の陰湿な反撃
私がネットの署名コラムでオフレコ発言を暴露すると、経産省は陰湿な反撃に出た。コラムを書いた当事者である私にはいっさい接触せず、苦情も反論も言わない一方、私の職場の上司に対して大臣官房広報室長が「おたくの会社は信頼できない。今後はそういう前提で対応させてもらう」と電話で抗議してきた。
抗議を聞いた私は直ちに広報室長に事実を確認し、その一部始終をまたネットで書いた。新聞の署名コラムでは、細野発言を紹介したうえで「経済産業省・資源エネルギー庁は歴代幹部の天下りが象徴するように、かねて東電と癒着し、原発を推進してきた。それが安全監視の甘さを招き、ひいては事故の遠因になった」(五月十八日付『東京新聞』「私説・論説室から」)と書いた。
すると驚いたことに、経産省は現場で取材活動をしている記者クラブの同僚記者に対して「幹部との懇談出席禁止」という制裁を科してきた。いわゆる「出入り禁止処分」である。
サラリーマンなら分かるはずだ。「上司に文句を言った。お前の出世に響くぞ」「同僚も『処分』した。仲間ともめるぞ」。会社の縦と横の関係を利用して、真綿で首を絞めるように私に無言の圧力をかけたのである。
論説委員が書いた署名コラム原稿の内容が気に入らないからといって、現場の記者の取材活動を制限するとは聞いたことがない。上司への抗議電話といい同僚記者への取材制限といい、私の言論活動に対する「会社組織」を利用した圧力にほかならなかった。
話が出た論説委員懇談会には数十人の委員たちが出席している。なかば公然だ。こうした場での「オフレコ」とは、官僚が姿を隠して都合のいい相場観を広めたいときに使う常套手段である。官僚が勝手にオフレコと言った話に、記者が必ず同意しなければならない理由はない。そもそも、なぜ本人に文句を言ってこないのか。経産省の過激な反応は、それほど東電存続が役所の重要課題になっていた事実を示している。
もっと驚いたのは、実はコラムに対する読者の反応だった。
三本のコラムがネットに掲載されると、読者がツイッターでコラムに寄せた反応は一週間で累計一万通を超えた。私自身も途中からツイッターを始めたが、私の発信を読むフォロワーは三日で七〇〇〇人を超えた。ほぼすべてのツイート発信が記事を支持し、経産省の対応を厳しく批判していた。
これは、なにを物語っているのか。
単に記事内容を支持しただけではない。地震と津波、原発事故という大災害を通じて、多くの人々が菅政権や東電の対応や情報公開に不満を抱き、不信感を募らせていた。それがコラムをきっかけにツイッターを通して爆発したのだと思う。
■ この癒着構造をどうするのか
政府は国民にとって、どんな存在なのか。政治の使命とはなにか。人々は従来にも増して、政府や政治の根源的役割を厳しく問い始めた。私たちの命と暮らしが脅かされているときに、政治家はなにをしているのか、と疑問に思っている。
人々は直観的に「政官業学報ペンタゴン」が事故の遠因と理解し、もたれ合い構造こそが被災者置き去りの政治を招いていると感じている。政治の現状に大きな不信感を抱いているのだ。一連の大災害と政府の対応を目の当たりにして、政治意識に本質的なパラダイムシフトが起きている。そう思えてならない。そういう視点で永田町と霞が関を眺めると、残念ながら、権力闘争に明け暮れる永田町と既得権益維持に汲々としている霞が関の現状は、多くの国民の気持ちとかけ離れていると言わざるをえない。
政治には国民の命と暮らしを守る絶対的な使命がある。そのうえで政治家は国の大きな枠組みを考え、より良い方向につくり替えていく役割がある。国会議員が「予算を通し法律をつくる」とは、そういう仕事だ。官僚は制度の選択肢を示し、決まった後は着実に実行していく。民間業界は自由な活動と技術革新で生産性を高めていく。学者は真理の追究と産業への応用研究、そしてメディアは公正な報道と自由な論評である。
政官業学報は互いに独立し緊張感を保ちながら、それぞれの職責を果たしてきただろうか。小泉純一郎政権で「政官業トライアングルの打破」が叫ばれて以来、ゼネコンや銀行業界では淘汰が進んだ。しかし電力業界は地域独占体制が温存され、旧体制の「最後の楽園」と化していた。
原発事故はそうした癒着の構造をどうするのか、国民に問いかけている。「脱官僚」や「政治主導」というだけでは足りない。電力はあらゆる民間活動の源である。国民から不信を買った電力業界をどう再設計し、どう民間部門の活力を解き放つか。学会とメディアはどう自立するか。
水面下の握り合いではなく、公開の議論が必要だ。「みんなでがんばろう」だけではなく、緊張と相互批判こそ歓迎すべきである。国民に深く広がった不信のサイクルを解きほぐし、政官業学報がそれぞれの立場で建設的な議論を始めなければならない。それが大震災と原発事故の真の教訓である。
政権への失望感が広がる中、野党は内閣不信任案提出によって菅を退陣寸前にまで追い込みながら、最後の局面で逃げ切られた。だが、いずれ衆院解散・総選挙は必ずある。国家権力を行使する「政と官」が国民の不信に真正面から答えられないなら、そのときこそ本当の危機が来るに違いない。菅政権に新しい時代を切り開いていく力が残っているだろうか。残念ながら、もはや期待できない。(文中敬称略)
(了)
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