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−両人の無責任&内ゲバ体質は、学生運動を“総括”しなかった事にあるのでは?−
菅直人総理は最早「詰み」の状態です。いくら当人が「瓦礫処理の8月まで、いや原発事故収束の時まで」とほざこうが、今月末乃至来月中の退陣は必至の情勢です。
対して一時「陰の総理」と称された仙谷由人官房副長官は、今やすっかりキングメーカー気取り、石井一党副代表の前で「ポスト菅」の名前を一人一人挙げてみたり、大島理森自民党副総裁や立ち上がれ日本の園田博之幹事長に大連立話を持ちかけてみたり。
12日午前のフジテレビ『新報道2001』では、「菅首相が正式に退陣表明する時期は今週開かれる両院議員総会が一つの節目になる」などと踏み込んだ発言までしています。「きのうの友はきょうの敵」さながらの内ゲバ状況です。
菅直人、仙谷由人という奇しくも名前の下に“人”のつく“人非人”どもは、元々「70年安保闘争」における全共闘学生運動に身を投じていたという共通項があります。
同運動は、69年1月の東大安田講堂攻防戦、同年10月の新宿騒乱、70年3月のよど号ハイジャック事件などを経て、その後は徐々に下火になっていきました。そして72年(昭和47年)2月の「浅間山荘事件」によって、最終局面を迎えることになりました。
同事件では、浅間山荘に立て籠もった連合赤軍のメンバーが、その前の逃走中“総括”と称する集団リンチで仲間たちを次々に殺害し、榛名山中などに埋めるというおぞましい実態が明らかにされ、学生運動全体が国民の支持を急速に失っていきました。
「この国で二度と学生運動などは起こさせない」。浅間山荘攻防戦における警察庁の責任者の一人だった、佐々淳行氏は後年このように述懐していました。この国家方針のもと、当時の警察幹部らは集団リンチの実態をマスコミにリークし、また同山荘での攻防戦を10日間余24時間ぶっ通しでテレビ放映させ、同年2月28日の最終突入の場面、連赤メンバーの逮捕などの一部始終を国民に強く印象づけたのです。
浅間山荘事件の終結は、即70年学生運動の終結も意味していました。この前後学生運動家たちはヘルメットを脱ぎ、ゲバ棒を捨て、長髪を短く切って続々と社会復帰していきました。
そして戦後間もなくからデモや学生運動や暴動に明け暮れていたこの国は、奇妙なことに、この事件以降それらがピタッと止みました。政治家や官僚たちがどんな無理無態を押し付けても、何ら異議申し立てをしない、子羊のようにおとなしい社会へと成熟(単なる変質?)していったのです。
この辺の事情については、以前の『日本国民は、なぜおとなしくなったのか』記事でも述べました。
同学生運動家の中に、菅直人や仙谷由人もいたわけです。二人も一応は学生運動家だったのです。
菅直人は東京工業大学の学生として、当時新しいセクトを立ち上げた東工大学生運動のリーダーの一人でした。前出の佐々淳行氏は当時警察庁幹部として、東工大の集会にも何度か足を運んだそうです。佐々氏いわく「菅さんはよく覚えてますよ。集会ではいつも“4列目”に座っていました。万一機動隊に踏み込まれた場合、3列目までは確実に捕まる。4列目だと逃げられる。だからいつも4列目にいたわけです。それで覚えているんです」
菅直人は当時から、今日に至る「逃げ菅」「ズル菅」の片鱗をいかんなく発揮していたというわけです。
一方菅と同年の1946年生まれながら学年で1年上の仙谷由人も、当時東京大学法学部の学生として学生運動に身を置いていました。しかし仙谷の場合は、安田講堂に立て籠った同志たちのように命がけで戦うといったタイプではなく、最前線で戦う仲間たちの連絡、食糧運搬などを担当し、仲間からは「弁当運び屋」と呼ばれていたといいます。
そして小ずるくも司法試験の勉強時間はしっかり確保し、現在に至るも「オレは司法試験に一発で受かったんだ。どうだオレ様は凄いだろう」と自慢の種にしているのです。
菅直人と仙谷由人が学生運動に見切りをつけたのがいつだったか、詳しいことは分かりません。ただ二人の今日の国家観、政治哲学の欠如からして、学生運動自体にそんな重きを置いていなかったのではないだろうか?と推測できます。
菅や仙谷だけではありません。70年学生運動家たちに共通しているのは、自分たちの運動を徹底的に“総括”した形跡があまり見られないことです。国家がそれを黙認したのです。
曲がりなりにも彼らは、やがて「社会の中核」を担ってもらわなればならない人材です。そこで当時の国家は、すべての責任をよど号犯や連合赤軍メンバーに押し付け、その他有象無象の運動家たちは「免責」して世の中に解き放ったのです。
菅直人も仙谷由人も、おそらく「無反省」で社会に入っていったクチでしょう。
彼らの先輩世代である「60年安保闘争」に実際身を投じていたある人は、3年ほど前自身のブログで「私は学生運動に挫折し、転向したのだ」と、半世紀前の体験について苦しい胸の内を吐露していました。この人は、W大学出身で某民放テレビ局政治部ОBです。
翻って菅や仙谷はどうだったのでしょうか?学生運動の挫折によって、良心の呵責に苛まれたり、何年間も自問自答の猛省の日々を続けたでしょうか?二人はおそらく国家の無罪放免をいいことに、次の瞬間学生運動などきれいさっぱり忘れてしまったのではないでしょうか?
菅や仙谷にとって学生運動は、単なる一時的な“ファッション”でしかなかったということです。
それが証拠に菅直人は、それから何年も経たないうちに、学生運動の経験などおくびにも出さずに、今度は「市民運動家」を装って登場します。故・市川房枝女史に取り入り、その後の政界進出の重要な足がかりとしたのです。菅はその頃から総理大臣になるという“不純な夢”を抱いていたといいます。市川房枝女史が菅にいかに不信感を抱いていたか、(既述のとおり)今日では余すところなく暴露されています。
仙谷由人も同様です。東大法卒業後は、気鋭の弁護士として事務所を開業。時には闇社会の弁護を引き受けるなど“悪徳弁護士”の才能をフルに発揮していきます。そして仙谷も目指すところは政界進出。胃を全摘出した10年ほど前までは、総理大臣を目指してギタギタしていたそうです。
そんな経歴を有する二人が、昨年6月の鳩山由紀夫・小沢一郎ダブル辞任という政変後の民主党を壟断してきました。元々政治的に共通点などあまりない二人を結びつけたのは、「反小沢」というキーワードです。
熾烈を極めた昨年9・14代表選の直前だったか。某週刊誌は、「小沢、菅、仙谷の三つ巴の戦い。これによって、三人のうち誰かが政治生命を失うことになる。それは小沢か、菅か、仙谷か?」というような特集を組んでいました。
その時スパッと結論が出ていれば、以後の政界いな日本全体がこれほど酷い状態にはなっていなかったものを。
今回ようやくその結論が出そうです。三人のうち真っ先に政治生命を失うことになるのは、菅直人であることは明らかです。これほど見苦しい退陣をしてしまえば、たとえ議員を続けるにせよ事実上政治的影響力を自ら無くしたも同然です。
今後は「小沢一郎vs仙谷由人」の一騎討ちとなるのでしょう。このガチンコ対決、次は仙谷由人が政治生命を失う番だと予告しておきます。
(大場光太郎・記)
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