http://www.asyura2.com/11/senkyo114/msg/317.html
Tweet |
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?P=1
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?P=2
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?P=3
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?P=4
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?P=5
2011年6月3日(金)
判決は気味が良かったですか?
AUTHOR 小田嶋 隆
先月の30日、いわゆる「君が代不起立訴訟」について、最高裁が原告側の上告を棄却する判決を下した。
興味深い話題だ。
が、記事として取り上げるのは、正直に言って、気が重い。
今回は、私自身のこの「気後れ」を出発点に原稿を書き始めてみることにする。
「君が代」について書くことが、どうして書き手にストレスをもたらすのか。
「君が代」の最初の課題はここにある。圧力。見逃されがちだが、大切なポイントだ。
気後れの理由のひとつは、たとえば、コメント欄が荒れるところにある。
愛国心関連の記事がアップされていることが伝わる(どうせ伝わるのだよ。どこからともなく。またたく間に)と、本欄の定期的な読者ではない人々も含めて、かなりの数の野次馬が吸い寄せられてくる。その彼らは、「売国」だとか「反日」だとかいった定型的なコメントを大量に書きこんでいく。休止状態になっている私のブログにも、例によっていやがらせのコメントが押し寄せることになる。メールも届く。「はろー売国奴」とか。捨てアドレスのGmail経由で。
私は圧力を感じる。コメントを処理する編集者にも負担がかかる。デスクにも。たぶん。
ということはつまり、コメント欄を荒らしに来る人々の行動は、あれはやっぱり効果的なのだ。
この程度のことに「言論弾圧」という言葉を使うと、被害妄想に聞こえるだろう。
「何を言ってるんだ? こいつ」
「反論すると弾圧だとさ」
「ん? 読者の側に言論の自由があるとそれは著者にとっての言論弾圧になるということか?」
「どこまで思い上がってるんだ、マスゴミの連中は」
圧力と呼ばれているものの現実的なありようは、多くの場合、この程度のものだ。
憲兵がやってくるとか、公安警察の尾行が付くとか、目の据わった若者が玄関口に立つとか、そういう露骨な弾圧は、滅多なことでは現実化しない。その種の物理的な圧力が実行されるのは、お国がいよいよ滅びようとする時の、最終的な段階での話だ。
わが国のような民主的な社会では、目に見える形での弾圧はまず生じない。
圧力は、「特定の話題を記事にすると編集部が困った顔をする」といった感じの、微妙な行き違いみたいなものとして筆者の前に立ち現れる。と、書き手は、それらの摩擦に対して、「いわく言いがたい気後れ」や、「そこはかとない面倒くささ」を感じて、結果、特定の話題や用語や団体や事柄への言及を避けるようになる。
かくして、「弾圧」は、成功し、言論は萎縮する。そういうふうにして、メディアは呼吸をしている。
当初、私は、この話題を、大阪府の橋下府知事が、起立条例の法案について語ったタイミング(具体的には先々週)で、原稿にするつもりでいた。が、その週はなんとなく気持ちが乗らないので、別の話題(IMF専務理事の強制わいせつ疑惑)を選んだ。翌週も同様。メルトダウンについて書いた。
結局、私は、書きたい気持ちを持っていながら、実現を先送りにしていたわけだ。
理由は、前述した通り、面倒くさかったからだが、より実態に即して、「ビビった」というふうに申し上げても良い。
が、いずれであれ、面倒くさいからこそ書かねばならないケースがある。
君が代は、そういう話題だ。
ことほどさように、君が代は面倒くさい。
「面倒くさい」ということが、事実上の圧力になっている。
ということはつまり、繰り返すが、君が代問題は、何よりもまず第一に「圧力」の問題なのだ。
教育現場において、君が代は、指揮系統を顕在化させる踏み絵みたいなものとして機能している。
明らかな圧力だ。
「考えすぎだよ」
と、笑うムキもあるだろう。
「ただの歌じゃないか」
が、ただの歌に過ぎないものに対して、起立をするかしないかで、職責を問われる事態が現出している以上、それは圧力と考えざるを得ないのだ。
うちの国では、圧力が、暴力を伴った威圧として発動されるようなケースは滅多にない。
圧力は、通常真綿で首を絞めるような、絶妙な「面倒くささ」として立ちはだかる。
「君が代なんかほっとけよ。どうしてわざわざ地雷を踏みに行くんだ?」
と、だからたとえば親切な友人は、そういうふうに忠告してくれる。
でも、結局踏みに行くのだな。
特定の話題の周辺が地雷原になっているということは、その話題が「圧力」を獲得したことを意味している。
そういう場合、誰かが地雷を踏みに行かないと、議論が死ぬ。と、無理が通って道理が引っ込む。かくして、弾圧は成功する。考えすぎだろうか。
さてしかし、道理について述べるなら、私は、このたびの最高裁判決が「無理」な判決だったとは思っていない。
当該の判決について、5月31日付けの読売新聞は、
《君が代の起立斉唱命令を巡る訴訟で、最高裁は30日、命令を「合憲」とする初判断を示し、長く教育現場を混乱に陥れてきた憲法上の論争に終止符を打った。―後略―》
と端的に書いている。私もおおむね同意見だ。
判決は、理屈の上では筋が通っている。
私自身、自分が教師で、自分の受け持ちの生徒たちの卒業式に列席する機会があったら、起立斉唱するつもりだ。
理由?
面倒くさいからだ。
そう。自分が立たなかったり歌わなかったりすることから生じるであろう様々な波紋について思いをいたせば、答えは明らかだ。穏当に立って歌ってさえいれば誰にも文句は言われない。であれば、誰が一体風車を相手に喧嘩を売るみたいなバカなマネをする? それも子供たちの教育にかかわろうという職業の人間が。ガキじゃあるまいし。
山嵐が恫喝しに来るわけではない。
赤シャツが嫌味を言っているのでもない。
うらなり君が困った顔で歌うように頼んだ事実もない。
でも、私は立って歌うだろう。
そういうことになっているのだ。
職場の圧力というのは、それは精妙に働くものなのだ。
私が言いたいのは、法律論としての整合性についてではない。
法の問題は、読売の記者さんが言っている通り。既にカタがついている。
入学・卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱が学習指導要領で義務づけられている以上、それに従わない教員が処分されるのは、仕方のない展開だ。
その意味では、司法の最高機関である最高裁判所が示した判断は、妥当だったのだと思う。
ただ、「愛国心」や「儀礼」といった「心」の問題について、法的な強制力を持って処することが果たして適切なやり方であるのかどうかについては、依然として大きな疑問が残っている。
だからこそ、最高裁判所も、判決文に、長文の補足意見(「不利益処分を伴う強制が、教育現場を疑心暗鬼とさせ萎縮させることがあれば、教育の生命が失われる」「国旗・国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが重要だ」)を付加した、と、私は考えている。
折しも、橋下大阪府知事が率いる「大阪維新の会」は、府内の教職員に対して、国歌斉唱時の起立を義務づける条例案を提案している。現状の状況では、6月3日の府議会最終日に可決する公算が大きいらしい。
橋下さんの真意が、愛国心の涵養にあるのだとすると、おそらく強制は逆効果になる。
なんとなれば、起立や斉唱を強制することは、自発的な愛国心の発露であるところの起立や斉唱をスポイルするはずだからだ。
愛国心は国家の側が制御できる感情ではない。むしろ、国民の内心に育った愛国心が国をコントロールするというのが正しい順序だ。愛は求めるものではない。与えるものだ。
愛国心に限らず、どんな感情であれ、人間の心の動きは、強制できるものではない。
強制可能なのは、形式だけだ。
たとえば、結婚指輪の装着を強要することはできる。
が、愛情それ自体を強制することはできない。
メールの末尾に必ずハートマークの付加を要求することは可能だし、毎日一回必ず「愛してるよ」と口に出して言うことを条件づけることもできるだろう。結婚記念日の度に体重分の花束を持って帰るルーティンを習慣化することも不可能ではない。
でも、永遠の愛を義務化することはやはりできない。誓うことはできる。でも、誓いの遵守を強いることはできない。誓いて遠きは男女の仲。残念だが。
起立と斉唱の法制化は、愛国心の有無をではなく、愛国心の形式を規定するものだ。
と、愛国心そのものは、強制の影で、萎縮するかもしれない。
萎縮するだけならまだ良いが、強制された愛国心は欺瞞を身につけるかもしれない。
結婚指輪の着用を義務づけられている男は、それを外した瞬間、変身モノのヒーローみたいに華麗な人格変容を果たす――という話を聞いたことがある。そのデンで行くと、強制された国歌を歌い続けた子供たちは、国という主体に対して、裏表のある感情を抱くようになるかもしれない。面従腹背。って、売国奴の定型だぞ。どうするんだ?
「知ってる? N山さんって指輪を外すと別人28号に変身するらしいわよ」
なんと、指輪は不倫用の切り替えスイッチとして機能している。なんたる皮肉。
もっとも、起立斉唱を条例化しようとしている人々が問題にしているのは、愛国心ではなくて、それ以前の「秩序感覚」であるのかもしれない。
実際、橋下知事は、自身のツイッター上で
「これは君が代問題ではない。教員は職務命令を無視できるのか?の問題」
であると述べている。
たしかに、愛国心云々を抜きにしても、式典に際してその場にかなった振る舞いをすることは、教育上、大切なことだ。社会人としての常識でもある。
とすれば、愛国心を持っていようがいまいが、君が代を好きであろうがなかろうが、皆が起立して歌っている場では、自分も立って歌うのが社会の中に生きる人間としてのあるべき姿であり、ましてや人に教えを施す立場の者が、生徒の前で、公共の秩序に対してあえて反抗的な態度を貫徹して良いはずがない、と、そういう理屈になる。
もっともな話だ。
私の方から異論はない。
しかしながら、それでもなお、この種の事柄(儀礼や感情)は、法の強制にはなじまないんではなかろうかと、どうしても私はそのように思うのだな。特に学校のような場所においては。
学校は工場ではない。
教育現場が目指すところの理想は、歩留まりや均質性ではない。効率でも生産性でもない。
学校は、人間を扱う場所だ。
と、当然そこには一定のバラつきが前提として遍在しており、そうである以上、多様性を許す環境が担保されていなければ、教育は十全な機能を果たすことができない。
生徒の個性を尊重するためには、個性ある教師の存在が不可欠だ。というのも、多様な個性を守ることができるのは、多様な個性だけだからだ。
高校の二年生だった時のことだ。
例によって私は留年の危機にあった。
特に政治経済の出席日数が不足気味で、それゆえ、三学期の期末試験は正念場だった。
試験では、国会の議決についての問題が出た。
予算の成立や、憲法の改正や、法案の成立や、条約の締結について、それぞれ衆参両院のどのような議決が必要であるのかについて、表の空欄を埋める問題だった。
私は、「条約の締結」の横の空欄に「乱闘」と書いた。
正解でないことは分かっていた。でも、当時は、日米安保条約が、乱闘国会の中で自動延長に至った記憶がまだなまなましい時代でもあったし、それ以上に、私はこの種の思いつきをどうしても捨てることのできない生徒だったのだ。
果たして、その解答には、一答で50点という破格の得点が付いた。
そのおかげもあって、私は、無事に進級することができた。温情と言えば温情。茶目っ気と言えば茶目っ気だったのかもしれない。いずれにしても私は、少し変わった教師の、いくぶん道を外れた気まぐれのおかげで、なんとか高校生活をまっとうすることができたわけだ。ありがとう河野先生。
個性を尊重するということは、言葉を変えて言えば寛大さのことだ。
教師は、寛大に、辛抱強く生徒の成長を待たなければならない。場合によっては、ひとつの解答に50点を与えてでも、生徒の覚醒を待つ覚悟が必要になる。
そのような待機と教育の場である学校は、成長過程にある人間のバラつきについて、原理的に寛大であらねばならない。と、同時に、学校は、教師の人間性についても、ある一定の寛大さを持って臨まないといけない。理由は単純。抑圧された人間は、自由な人間を導くことができないからだ。
「教育現場であるからこそ、些細な逸脱を見逃すべきではない」という考え方を採用する人々がいる点は承知している。ある面では、彼らの考えが当たっていることも分かっている。たとえば、卒業単位の取得数や入学試験の実務については、安易な妥協は許されない。そこのところをゆるがせにすると、学校としての依って立つ基盤が崩壊してしまう。
でも、式典の歌や国旗の扱いはその限りではない。
すべてにおいて、統一が必要なわけではない。君が代についての対応は、ほかのたとえば、うどんやそばの好き嫌いと同じく、適当にバラついていても構わない。それらの変異は、教育にとって致命的な問題にはならない。
なぜなら、教育はプレス工程ではないし、式典は品質検査ではないからだ。
結婚指輪が一定の意味(具体的には、「ああ、この人は愛妻家なんだな」と思わせる効果)を持っているのは、それをする人間の数が限られているからだ。
皮肉ななりゆきだが、「指輪をしない人」の存在が、「指輪をする人」の誠実さを立証しているのだ。
もし仮に、すべての既婚者が、結婚指輪を身につける法的な義務を帯びているのだとすると、指輪は絆を証し立てる金属としての意味を決定的に失うはずだ。それはたぶん、犬の首輪みたいな感じの、どうにも陰々滅々たる装身具に成り下がるだろう。
というよりも、家畜に押す焼印に近いものになるかもしれない。
相手が君が代でも事情はそんなに変わらない。
義務で歌うと、まず歌の心が死ぬ。
そして、全員が起立したら、心から起立している人間の雄々しい起立と、法に義理立てして立っているだけの非国民的な佇立の区別がつかなくなる。と、起立という動作に含まれる敬意が泥にまみれてしまう。
サッカーの国際試合を見ていれば分かる。
胸に手を当てて歌う選手もいれば、恥ずかしそうにうつむいて歌う者もいる。歌わない選手もいる。緊張していて歌どころではないのかもしれない。あるいは、金髪のミッドフィルダーは適当に口をあけているだけなのだろうか。とにかく、そのバラつきは、私の目には、好もしく映る。
でなくても、歌う姿にバラつきがあるからこそ、君が代を朗々と歌う選手の頼もしさが引き立つということは現実にあるわけで、結局のところ、この場合は、国際試合における君が代の斉唱が法的に義務化されていないからこそ、われわれは、高らかに歌う選手の君が代の自発性を愛でることができるのである。
葬儀でも、細かく観察していれば、焼香をしない人たちが一定数いる。
故人を嫌っているからではない。
宗教上の理由で焼香を避ける人たちがいる。これは、仕方のないことだ。
追悼には、それぞれの作法がある。信仰や儀礼は、個人の尊厳に属する事柄だ。誰かが強制して良いことではない。
無論、仏教とは別の信仰を持っている人の中にも、故人の信仰に配慮して、仏法の作法通りに焼香をする人はたくさんいる。それはそれで尊い対応だ。
でも、焼香をしない人の態度も、それもまたそれで立派な対処ではあるのだ。大切なのは、焼香の有無や手順ではない。唯一重要なのは、追悼の感情であり、その表し方は、人それぞれの胸のうちにある。というよりも、追悼は、葬儀に駆けつけたということにおいて、既に十分に果たされている。
大阪の言葉で「歌わす」は、「悲鳴をあげさせる」ことを意味している。なので、その応用形の用法である「うたわしたろか?」は、「私に従わないとひどい目に遭わせるが、それでも良いのか」という意味になる。
もし府知事の真意が府教委の先生方を「うたわす」ところにあるのだとすると、その試みは、おそらく成功しない。
法律は行動を縛ることができる。が法を以て人の心を律することはできない。巨大な岩を砕いて、幾千幾百の小石に分解したのだとしても、それでもなおひとつひとつの石には魂が宿っている。府知事閣下にはぜひともいま一度の賢慮をお願いしたい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK114掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。