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大阪府知事が代表を務める「大阪維新の会」の府議団が、「君が代起立条例案」を議会に提出したことを受けて、 日弁連は宇都宮健児会長名による反対声明を発表した。なお「子どもと教育・文化を守る府民会議」 など大阪府に基盤を置く市民団体や労組の7団体が共同アピールを発表して、 「憲法と教育本来のあり方に背く条例をつくることは絶対に許されない」と訴えている(→東京新聞)。
この会長声明について大阪府知事は、同日、「憲法の考え方がまったく違うので仕方がない。憲法違反でも何でもなく、 職務命令に従いなさいという話」(産経関西)と、記者団に対して述べた。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
日弁連は会長声明で、「首長が教職員に、免職を含む制裁を公言して起立・斉唱を求め、条例で強制することはかつてない事態」 と厳しく指摘し、「思想・良心の自由などの基本的人権の保障に加え、 教育の内容や方法への公権力の介入は抑制的であるべきという憲法上の要請に違反するものとして、看過できない」と批判している。
現大阪府知事は、「憲法の考え方がまったく違う」「職務命令に従いなさいという話」と、自身が知事を務める地域内における「強制」 の仕組みの提案について、動機の面から当初から正当化と責任逃れを試みているが、「思想・良心の自由などの基本的人権」及び 「教育の内容や方法への公権力の介入は抑制的であるべきという憲法上の要請に違反」する行為であることに変わりはない。
会社や団体など「組織」における「マネジメント」の論理をこれみよがしにかざそうとも、その大阪府知事の「常識」も、 相当初歩的な水準(組織論をかざして一流の経営者か何かのような言動をしているが、あの内容はロワーマネジメントのレベルでしか通用しない、 それも相当稚拙な部類だ)との声もある。府知事はまず、「もしドラ」を観ることからはじめたらどうか、とも思う< 「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(ダイヤモンド社)、略して「もしドラ」。 130万部を超えるベストセラーとなり、NHK総合でもアニメ化>。
限られた職場内の人間関係がうまくいかない、あるいは障碍があるから、「職務命令に従いなさい」と叫ぶ論理と、一企業に対して、 企業市民として社会的な責任を果たすよう要請される論理とはまったく次元が異なる。人間関係の円滑化を業務として過度に必要としたり、 あるいは職務・業務の効率性の観点から性急に障碍を排除しようとする風潮が、厳しい企業環境や雇用環境を背景に広がっているが、 小集団内部への要請や圧力をうけての論理、あるいは「常識」とされるものを、そのままより広域の社会、地方自治体や国などの「停滞」 「行き詰まり」打破のための「論理」「常識」として通用すると思い込んでやまない。
そこにはしばしば「ヒステリック」とも感じ取れる「急進性」があるが、その「急進性」は、まさに現大阪府知事が主張するように、 「職務命令に従いなさい」という水準の管理・統制を必要とする要件、つまり「お役所仕事」という言葉が象徴するような無責任、隠蔽、 責任逃れ、人命・人権無視の<体質>が根付いている場合がある。
しかしながら、それを打破するために、なぜ式典などで「君が代」を流し、国旗を掲揚することを義務付け、 さらにその際に起立を義務付け、それに従わない場合には解雇もあると強要する「条例」を持ち出す必要があるのか。それが、「旧弊」 をただすのにどのように役立つというのか。まして、日本国憲法に明示された条文、そしてその精神を踏み越えて逸脱してまで、 そこへ突っ込むことで、いったいなにを得られる、得ようというのだろうか。
条例案に罰則はないが、府知事は、起立しない教職員について「やめさせる」と公言している。 免職を含む教職員への処分基準に関する条例案を別途作成して、9月議会で成立させる考えを表明している。日本経済新聞によると、 大阪市の平松邦夫市長この条例案について「何のために政令市として人事権を持って教育に取り組んでいるのかを考慮していないのかな、 という印象。条例が越権行為なのか精査したい」(25日)と話している。
また、秋の県知事、大阪市長ダブル選挙をみすえての「パフォーマンス」との冷ややかな見方も出ているが、そこにいまいち浸透しない 「大阪都構想」がらみの思惑も入れてのパフォーマンスだとすれば、そういうものにひょいひょい乗せられる市民こそ、そのツケが後々、 まわりまわって自分のところに回ってくる可能性がある点で、いい面の皮(=とんだ恥曝し。いい迷惑)ではないだろうか。最終的に、 自らや周辺の首を絞めることにもつながりかねない動きなのだから。
現大阪府知事のパフォーマンスは、「綱紀粛正」の風潮を高めて、 自身の求心力を高めるところに狙いがある可能性が高いように私は感じている。「起立」 できない事情を有する人や拒絶する人に対する締め付けを見せしめとして役所内部の緊張感を高め、 続いて人気を集められるような具体策を迅速に実現に向けて動かして見せることで、さらに自身への求心力を高めようとするやり方が、 大阪府知事の頭の中で渦巻いていはしないか。
そうしたやり方は、狭く限られた集団内部で反論がでにくい部分に「障害物」として狙いをつけて、公衆の面前で除去してみせることで、 自分に脅威となる相手や勢力をけん制したり、自分流を貫きやすくしたりして、効果的と思える手法を駆使し、多少強引な手法をもってしても、 最後に結果を出せばすべて通る、まわりを黙らせることができる、というような考えに陥っているような場合 (陥らねばならない事情をかかえているような場合)に、度々みうけられる類のものだ。
だが、このケースでは、お役所の「効率性」至上主義の旗の下、日本国憲法やその精神の問題ではないと最初から逃げを打って、 国歌や国旗に忠誠を示すことに躊躇する事情や考えをもつ人をターゲットに選んで、 自らの<威勢のよさ>が口だけではないことを証明して見せようとする方法であるがゆえに、その小賢しさは悪質といわざるをえない。
だが、「憲法の考え方がまったく違うので仕方がない」から、「論点が違う」へ、そして「考え方が違う」、さらに「勘違いだ。 話がかみ合わない」へ、「勘違い」から「考えが違う」「自分の考えは職務命令に従うべきだという点にポイントがある」のように、 ふらふらゆれうごいて「相対化」をいかに試みようとも、その行為のもつ意味は変わらない。文部省も「聞いたことがない」 と首をかしげる条例案提出に、大阪府知事が走ったことで、 その行為は大阪府知事が自由にリーダーシップをふるうことのできる狭く限定された小集団内部の論理ではなくなった。
その意味で、今回の橋下氏を筆頭とする「大阪維新の会」府議団による「君が代起立条例案」提出は、 橋下氏の府知事としての適格性をそのまま疑わせる行為となっている。そのことを府議会は会派の枠を超えて、 提案者らときちんと議論をたたかわせ、深める役割を負ったといえる。
また「大阪維新の会」の府議は、府議会の過半数を握る勢力を確保している。いかに同会派は、選挙前に今回の「君が代起立条例案」 やそれに付随した考え方を公約などで明言していなかったといえども、この件を無視するわけにはいかなくなっている。
少なくとも大阪府知事の「考え方が違う」は、社会的には致命的な「勘違い」の部類である (だからといって責任を逃れるものではないが)ことを自ら印象付ける狙いがあるのかもしれないが、そこに潜む問題点を多様な観点から指摘し、 議論を尽くしていかねばならないだろう。「大阪維新の会」は選挙後唐突にこの「条例案」を持ち出してきたのであり、これは民主主義の土壌、 土俵にかかわる問題である。民主主義のイロハについて、この機会に大阪の地域社会だけでなく日本社会全体でおさらいして、 その成果と教訓を共有する事例の一つとしていくことがとても大事になっているように思う。
大震災と原発事故という深刻な事態を抱える日本。その事態のなかで起きた大阪府知事の暴走は、日本国憲法とその精神だけでなく、 府知事の役割と権限を逸脱した<越権行為>である可能性が高い。その行為の背景、やり方、内容、目指そうとするところも含めて、 これに正しく対処していくことは、菅政権や原発関係各機関・企業、役所のありようを見直していくことにもつながるだろう。日本社会に潜む、 重要な課題を含んでいるように思えてならない。
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)
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