★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK113 > 737.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
「言った、言わない」を繰り返す永田町の懲りない人々 ウソを真実に塗り替える「記憶」のミステリー
http://www.asyura2.com/11/senkyo113/msg/737.html
投稿者 sci 日時 2011 年 5 月 27 日 17:37:38: 6WQSToHgoAVCQ
 

日経ビジネス オンライントップ>企業・経営>河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学

「言った、言わない」を繰り返す永田町の懲りない人々 ウソを真実に塗り替える「記憶」のミステリー

2011年5月26日 木曜日
河合 薫


 何でこんな時にまで、「言った、言わない」の低次元な論争しか、あのお方たちにはできないのだろうか。

 「原子力安全委員会の班目春樹委員長が『再臨界の危険性がある』と指摘した」

 「私はそんなことは言っていない。専門家としてそんなこと言うはずがない」

 「エッと、『再臨界の可能性はゼロではない』という発言でした」

 「首相の指示で、海水の注入が中断された」

 「いや、私はそんなこと言っていない。そもそも海水注入が始まったことも知らなかった」

 おいおい、またかよ。もういい加減、不毛な議論は止めてくれ――。

 おそらく永田町以外で生活する人たちは、大半がこう感じたことだろう。
まるで小学校のホームルームのようなやり取り

 それにしても本当に、「言った、言わない」のトラブルが多い内閣である。大震災以降、毎週のように、小学校のホームルームで起こっているようなやり取りを聞かされているような気がしてならない。

・「『最悪の事態になったら東日本が潰れる』と首相が言った」と笹森清内閣特別顧問が発言し、「そういった説明をしたことはない」と、翌日、菅直人総理は否定(3月16日)。

・「『指示どおりに作業を続けなければ処分する』といった趣旨の発言が政府側から現場の隊員にあった」と東京都の石原慎太郎知事が菅総理大臣に抗議。「自分が直接、現場と話したのではなく、かなりの事実の混同も入っているので、いずれしっかり話したい」と海江田万里経済産業大臣(3月22日)

・「『福島第一原発周辺は10年、20年住めない』と首相が言った」と松本健一内閣官房参与が発言し、「そのような発言はない」と、菅総理(4月13日)。

 そして、今。またもや「言った、言わない」が繰り返されているのである。

 政治家たちは、よほど「言った、言わない」議論が好きなのか。よほど責任を取りたくないのか。よほど自分の決断に自信がないのか。それとも、何を言っていたのか忘れてしまうくらい、何を聞いたか妄想してしまうくらい、目まぐるしく忙しいのか。それともやっぱり隠したいことが、知れたら困ることが、あるってことなのだろうか?

 あ〜、そんなことはどうでもいい。考えるだけでむなしくなる。

 だいたい大切なことを話し合う会議なり会談であれば、議事録くらい取って残しておくのが当たり前だし、議事録も取れないような密室の私的な会話の内容を公式の記者会見で漏らしたり、他者に言いふらすべきじゃない。小学生にだって分かることだ。真面目に意見するのもバカらしい。そう思えてしまうほど、次元が低いトラブルが続いている。だから、これ以上、政治的な話は止めておこう。はい、止めよう、そうしよう。

 とはいえ、「言った、言わない」でもめることは、誰しも一度は経験があるだろうし、どこの組織でもある話でもある。

 「言った」と記憶している人は、「確かにそう言った」と繰り返し、「言っていない」と反論する方も、「そんなことは言っていない。言った本人が言ってないと言ってるんだから、これほど確かなことはない」などと、絶対に引くことがない。

 いわゆる水掛け論。結論の出ない議論、だ。

 「言った、言わない」というトラブルは、コミュニケーションの問題なのか、それとも記憶の問題なのか。はたまた、不毛な議論をなくすには紙に書くしか手立てはないのだろうか?

 ということで、少々手探りになりそうな気もするが、今回は「言った、言わない」について、あれこれ考えてみようと思います。

 まず、「言った、言わない」トラブルは、基本的には人間の記憶に基づいているものであるわけだが、そもそも人間の記憶とはどういうものなのか?

 心理学の世界では古くから記憶は関心の的で、古代ギリシャの哲学者プラトンは、「記憶の領域では、その人の過去が完全に保存されている」とし、絶対的な記憶の形を信じた。

 一方、オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイトは「記憶は夢と現実の寄せ集めで、必ずしも絶対的ではない」と、プラトンの主張を肯定も否定もしないあいまいな姿勢を示した。

 「だってプラトンが言ってるんだから」「いやいや、フロイトが言ってるんだから」というわけではないだろうが、長年、2大巨匠の意見に追従するのが心理学者の王道だった。

 ところが、この巨匠たちに真正面から異を唱えた人がいる。「20世紀で最も一般人に知られた心理学者」とも揶揄された米国の心理学者、エリザベス・F・ロフタスである。

 ロフタスは、米スタンフォード大学で博士号を取得するという才媛でありながら、テレビのトーク番組やバラエティー番組に出演し、ファッション誌にコラムを書いた。それまで学者が越えることのなかった、“タレント”への境界線を最初に越えた心理学者だと言われている。

 「記憶は川のように流れているもので、書き換えが可能で、全く信頼するに値しないものだ」。これがロフタスの持論で、今なおその立場で研究を続けている。彼女は現在、米カリフォルニア大学アーバイン校のディスティングイッシュト・プロフェッサーである。

 そんな彼女の持論を証明した最初の心理学実験は、信号機とヒゲの実験だった。
「記憶の塗り替え」を実証したロフタスの実験

 信号機のある横断歩道に、数分間被験者を立たせる。その後、別の場所に移動してもらい、「信号は黄色でしたか?」と聞くと、実際は赤だったにもかかわらず、多くの人が、「はい、黄色でした」と答えたそうだ。

 一方、ヒゲの実験では、覆面をかぶった男が出てきて事件を起こすビデオを被験者に見せる。ビデオが終了した後、「男がヒゲを生やしていたのを、覚えていますか?」と聞くと、たいていの人は、「はい、覚えています」と答えたという。

 その後もロフタスは持論を証明すべく数々の実験を重ねた。その彼女が世間から注目されるきっかけとなったのが、1993年に米アメリカン・サイコロジスト誌に投稿した、「ショッピングモールの迷子実験」である。

 ロフタスはこの実験で、人間の記憶は書き換えが可能で、さらにその嘘の記憶が、本人によって上塗りされることを明らかにしたのである。

 まず、この実験では24人の被験者を集めた。実験は、家族への聞き取りから始められた。家族に、被験者の「子ども時代の出来事」を3つ思い出してもらい、その時の様子を短く文章にしてもらう。そして、次に家族に実験の内容を話し、4つ目の出来事として、「ショッピングモールで迷子になった」という嘘の話を加えるように依頼した。もちろんこの嘘の出来事にも、前述の3つと同じように簡単な文章を作成するよう指示した。

 家族への聞き取り調査が終わると、ロフタスはそこで得られた4つのエピソード(1つは迷子になったという嘘の記録)をそれぞれ小冊子にまとめた。そして、その小冊子を被験者に渡し、それぞれのエピソードについて、記憶にあるかどうかを書き込んでもらったのだ。

 その結果、全体の25%に当たる6人が、「迷子になった記憶がある」と答えた。嘘の記憶なのに、「記憶にある」と答えたのである。おまけに、日を経るごとに、その“記憶”に自分なりのエピソードを加え、記憶の上塗りを始めたのだった。

 「だんだん思い出してきたんですけど、あの日は確か兄たちと買い物に来ていて、おもちゃに夢中になっているうちに迷子になってしまって。そうそう、そんな僕を助けてくれたお年寄りがいて。……えっと、青いマントをはおってメガネをかけていた老婆です」

 こういった具合に、話せば話すだけ本当にあったようなストーリーが出来上がっていったのだという。

 この実験結果には、異論を唱える学者も多かった。

 そのほとんどは、「75%は否定したじゃないか。人間の記憶はそうそう簡単に作られるものじゃない」というもので、プラトンやフロイトを支持する意見だったのである。

 だが、ロフタスは何を言われても、屈しなかった。

 「25%というのは大きい数字。何よりも、どんどんと自分の記憶の隙間を埋める作業を、当事者自身が誰の指示もなく行ったことは実に意味のあること」と反論したのだ。

 「記憶の隙間を埋める」ことは、いわゆる冤罪の現場でもよく起きると言われている。実際はやっていないのに、「やった」と言ってしまい、その後、自分が不利になるにもかかわらず、事件のストーリーを構築し、あたかも本当の犯人だったように、自ら記憶を上塗りしていくそうだ。

 米国で取り調べの録画が行われているのは、ロフタスの実験の成果だとも言われている。

 ちなみに、ロフタスは児童虐待の法廷にも立ち続けた学者でもある。児童虐待の裁判では、児童の証言だけで親が罪に問われることが多い。「子供がやられたと言っているんだから、やられたんだろう」と受け止められることが普通なのだ。

 だがロフタスは、これにも真っ向から対立した。「子供の記憶で冤罪になっている親を救うのが、自分の役目だ」と断言。まるで自分のライフワークのように現在も、徹底的に児童虐待の冤罪の可能性について主張し続けている。
記憶に真実を求めるのは無駄なのか?

 確かに、記憶が上塗りされることはあるように思う。例えば、一代で企業を立ち上げた方や、ある分野で成功を収めた方など、いわゆるサクセスストーリーに関するインタビューを何回も受けている方にお会いすると、塗り替えられたかもしれないであろう、“思い出話”に遭遇することがある。

 昔、話していたことと明らかに異なっていたり、サクセスが引き立つような完璧な悲劇のストーリーが出来上がっている、と感じる瞬間があるのだ。

 おそらく本人は無意識なのだろうし、相手をだまそうなんて気はさらさらないはずである。でも、やはりロフタスが言ったように、「記憶は川の流れのようなもの」なのかもしれないと思ったりもする。

 いずれにしても、人間の記憶はあいまいなどころか、嘘に変わる可能性も秘めた不思議なもの。芥川龍之介の小説ではないが、真実は「藪の中」。記憶に真実を求めても、結局は無駄な作業なのかもしれない。

 では、コミュニケーションさえ良くすれば、「言った、言わない」はなくなるのか? というと、そんなこともない。

 コミュニケーションは、受け手がどうキャッチするかで投げたボールの意味が変わる。「あなたはきれいですね」と褒めたとしても、「嫌味を言われた」と受け取られた途端に、意地悪な発言という事実が出来上がる。

 また、どんなに積極的に情報を交換し、コミュニケーションを取る頻度を増やしたとしても、「言った通り」「伝えたかった通り」になるとは限らない。もちろん頻度を増やした方が、正確に伝わる確率は上がるだろう。だが、観念という魔物が邪魔をすることがある。人間は自分の観念に支配されるのが、大好きな生き物なのだ。

 では、文章にすればいいのか? というと、そんなこともない。同じ文章でも、人によって受け止め方は全く違う。

 だいたい、書いた方が意図した通りに伝わるなんてことはない。少なくとも私の場合は文章で伝える方が、オーラルの伝達よりも難しいと感じている。書くよりもしゃべる方が百倍楽だし、自分の気持ちを伝えやすい。何と言っても相手の反応を見ながら、言葉をとっさに選べるからだ。

 また、「何について話しているかを明確にし、共有すれば、コミュニケーションがうまくいく」と指摘する人もいるが、これもそう簡単にいくものではない。
人が介在する限り、誤解は起きる

 例えば、私は天気予報をやっていた時に、「明日は晴れて雨の心配はありませんが、南風が強く吹きます。南風で気温はぐんぐん上がりますので、コートはいりません」と予報したところ、翌日、スタッフの1人が大汗をかきながらダウンジャケットを着ていたことがあった。

 そして、「河合〜。お前の予報を信じてダウンを着てきたんぞ!」と怒られた。

 「何でですか〜。ばっちり予報当たってるじゃないですか。今日は暑くなるっていったじゃないですか」と反論した。すると彼はこう答えた。

 「え? そうなの? 風が強くなるって言ってから、寒くなるんだと思ってダウンを着てきたんだよ」と言ったのだ。

 彼の中には、「風が強い=寒い」という観念が出来上がっていたのだ。「明日の天気」という、明確、かつ共有された話題についてであっても、こうなのだ。自分の意図した通りに相手に伝えるのは簡単ではないのである。

 もちろん、トップやリーダーが指示を文書と口頭の両方で行い、その指示を部下に復唱させて相互に確認を取り、その時のやり取りをすべて記録すれば、指示をできる限り正確に伝えて100%に近づけることはできるだろう。だが、100%近く正確に伝わった情報であっても、時を経て人を介すことで、変わり果てた姿になることがある。いったん放たれた情報は、独り歩きを始めてしまう。

 要するに、自分の言いたいこと、言ったことを、相手に100%伝えることなど、そもそも不可能なのだ。おまけに、人間は何らかの不満を相手に抱いている時、細かいしぐさや表情に過剰なまでに反応し、嫌悪感を抱くこともある。時には、相手のはしの上げ下げまで気になるほど、生理的に受け付けなくなることもある。

 そうなった途端、同じ言葉が全く逆の趣旨に入れ替わる。「そんなこと言ってない」ことが、相手の記憶に刻まれるのだ。人が介在する限り、誤解が起きる可能性は無限に広がっているのである。
その背景にはやはり何らかの不満がある

 ただ1つだけ言えるのは、「言った、言わない」が問題になる時には、たいていの場合、何らかの欲求不満が渦巻いているということだ。

 「え? そんなこと言ったっけ?」と自分の記憶を疑うのではなく、「そんなこと言ってないだろ!」と相手の記憶を執拗に疑ったり、「あんなこと言ってたよ」と明らかにその人に批判が及ぶような発言を言いふらす時には、何らかの不満が要因として存在する。その不満を「言った、言わない」問題が代弁しているだけなのではないのだろうか。

 つまり、「言った、言わない」問題は、「本当に言ったのか、言ってないのか」の問題ではなく、「それが問題になること」自体が問題なのだ。で、あるならば……。永田町の人たちの不満要素は何なんだろうか?

 いやいや、やっぱりそんなことはどうでもいい。「不満を明らかにしろ」と言った途端に、「言った、言わない」議論よりも大好きな“政局”が始まる。 これで本当にいいのだろうか? どんどん時間は過ぎていく。
このコラムについて
河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学

上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。

⇒ 記事一覧
著者プロフィール

河合 薫(かわい・かおる)

河合 薫博士(Ph.D.、保健学)・東京大学客員研究員・気象予報士。千葉県生まれ。1988年、千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。2004年、東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了。長岡技術科学大学非常勤講師、東京大学非常勤講師、早稲田大学エクステンションセンター講師などを務める。医療・健康に関する様々な学会に所属。主な著書に『「なりたい自分」に変わる9:1の法則』(東洋経済新報社)、『上司の前で泣く女』『私が絶望しない理由』(ともにプレジデント社)、『<他人力>を使えない上司はいらない!』(PHP新書604)
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2011年5月27日 18:39:15: qMgd17wAMA
民主党は議事録が残ってない! 責任はホニャホニャ
自民党は議事録が残っている! 責任を取ってもらう!
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110511/plc11051120460023-n1.htm

 枝野幸男官房長官は11日午後の記者会見で、東日本大震災発生直後、原子力災害対策本部(本部長・菅直人首相)の会合など、東京電力福島第1原発事故の対応をめぐり開催された会議の議事録がほとんど作成されていないことを明らかにした。

 議事録がない部分については「多分、記憶に基づく証言などを求められることになる」と述べた。

 また、枝野氏は「制度的な問題を含め、事故を事前に抑止できなかったのかということが一つの大きなポイントだ」と、自民党政権時代の対応も検証の対象になるとの考えを示した。

責任回避しか頭に無いから
端から議論を進めようともしないのな


02. 2011年5月30日 15:10:07: w8MwegmeMM
消費税の増税言った言わないから始まっているのです。この首相になってからです。

やっぱり言っていたのだ、10%上げルと、それが6月の税と社会保障の一体改革などと言うばかげた政策でわかる。


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK113掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK113掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧