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経産省広報は取材から逃げ回るだけ「政府は国民を守り、メディアが報じる」というウソはもはや通じないパラダイムシフトが起きている
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/6362
2011年05月27日(金) 長谷川 幸洋「ニュースの深層」:現代ビジネス
東京電力の賠償案をめぐる細野哲弘資源エネルギー庁長官のオフレコ発言をきっかけに、私は過去3回の当コラムで賠償案の評価にとどまらず、官僚が使う「オフレコ手法」の本質、さらに記者クラブ問題にも触れてきた(5月14日、17日、20日付け)。
読者からいただいたツイッターでの反応は累計1万通を超え、途中から始めた私のツイッターへのフォロワーは8000人を超えている。職場にもファックスやはがき、メールが届いた。ほとんどが激励してくれる内容だった。本当にありがたい。あらためてお礼を申し上げる。
東日本大震災と福島第一原発事故を経て、国民の間に政府に対する不信感がこれまでになく高まっている。単に情報公開が不十分というだけではない。ひょっとしたら政府は国民をだましているのではないか。被災者に補償するといいながら、実は国民につけを回そうとしているのではないか。そうした不信感である。
読者からのツイッターなどを読みながら、私はそう思った。
政府や政治に対する国民意識がこれまでになく先鋭になっている。4月1日付けコラムで、大震災と原発事故が政治や経済、メディアに対するパラダイムシフトをもたらす可能性について書いたが、コラムへの反響はまさしく、そうした意識変化を物語っているようだ。
パラダイムシフトとはなにか。
簡単にいえば、これまで政府は国民の命と暮らしを守り、豊かな生活を実現するために仕事をしていると思われてきた。ときどき批判にさらされていても、基本的に政府は国民のためにある。これまではそう思われてきた。
ところが、実はそうではない。官僚が、自分たちの既得権益を守るためには、国民に犠牲を強いることさえある。そのことが今回の震災ではっきりした。
一方、メディアは政府を批判しているように見えるが、実は細野発言のような官僚の本音は報じない。それどころか、官僚が「ここはオフレコで」と言うと、唯々諾々と従ってしまう。「なにを報じて、なにを書かないか」というメディアの生死にかかわる最重要の判断基準を官僚に委ねてしまっている。だから、官僚に本当に都合が悪い話はなかなか表に出てこない。
「政府は国民を守り、メディアは真実を伝えている」と思われたパラダイムが大震災と原発事故をきっかけにガラガラと音を立てて崩壊している。多くの国民が「本当に起きていることはなんなのだ」と怒りをにじませて、声に出している。そうした認識の変化である。
■深刻な危機になればなるほど、本当のことをが書かないメディア
普通の人々が認識の大変化をもっとも先取りして、肌感覚で理解している。ところが、メディアはその変化を捉えきれず、相変わらず政府と東電の発表を追いかけるのに精一杯になっている。
たとえば、メルトダウン(炉心溶融)と汚染水問題である。
原発がメルトダウンしているのは、事故の非常に早い段階から多くの専門家が指摘していた。いまになって「専門家の間では常識だった」などと報じられているが、そうと知っていたら、なぜ書かなかったのか。
汚染水も毎日、上から大量の水を注ぎ込んでいるのだから、汚染除去に成功して循環システムが構築できない限り、タンクに収容するといっても、いずれ満杯になるのは、だれにも分かる話だった。それなのに「タンクへの収容話」は連日報じられても「一杯になったらどうするのか」はほとんど報じられなかった。
私は専門家ではないが、常識的に考えて抜本的な解決策が見つからない限り、いずれ高濃度の汚染水が再び、海に垂れ流されてしまうのは時間の問題だと思う。
メディアは基本的に当局が言わない話は書かないのだ。なぜなら、当局が言わない話なら「当局によれば」と責任転嫁できず、メディア自身が責任を負わねばならなくなる。あるいは「風評被害を撒き散らすのか」と批判されかねないからだ。
深刻な危機になればなるほど怖い話を書けなくなる、というジレンマに陥っている。
これは、かつて「大本営発表」を垂れ流した事情と本質的に同じである。当局が好ましくない「戦争は負けている」という真実を書けば、メディアの責任が問われ、投獄されてしまう。いまは投獄されないかもしれないが「風評被害」と批判されるのだ。
たとえば、メルトダウンは4月末にテレビ朝日系列の『朝まで生テレビ!』に出演した原発推進派と反対派の専門家が番組中で奇しくも一致して認めていた。推進派と反対派が一致して「もうメルトダウンしていると思う」と語ったところに「報じるべき、新しいニュース」があった。
スタジオで同席していた私がその点を指摘すると、なにが起きたか。
同じく出演していた大塚耕平厚生労働副大臣が私の発言に割って入り「ちょっと待ってください。これは全国の人が見ている。まだ分からないことを確定的に言うべきではない」と発言を制止したのだ。
このシーンが事態を象徴している。
大塚はそうやってメルトダウン話が一人歩きするのを封じた。私が「あなたは政府の人間だからね」と言ったら、大塚は「いや、そうじゃない」と返した。大塚は分かっている事態を正確に伝えるべきだと思ったのかもしれない。それはそれでよし、としよう。
だが、メディアが政府と同じであってはいけない。
■官僚の「本音」こそ、報じるべきだ
立場の異なる最高の専門家がともに指摘するなら、それをそのまま伝えるべきなのだ。「朝ナマ」は討論形式ながら、それをやった。だが、ストレートニュースとしてメルトダウンの可能性を真正面から報じたメディアはあっただろうか。
メルトダウンの可能性がもっと早い段階で報じられていれば、飯舘村をはじめ被災者たちの避難ももっと上手に進んだかもしれない。事実は後になってみなければ分からない。だが、結果的に「可能性という真実」を報じなかったことで、浴びなくてもよかった放射能を浴びた住民もいたはずだ。
東電の賠償問題でも同じことが言える。
経産省・資源エネルギー庁の本心は東電の温存だ。そのために税金投入も厭わない姿勢だったが、それは財務省に阻まれた。すると銀行の金融支援が鍵を握る。銀行の支援がなければ資金がショートして、不測の経営破綻が起きかねない。
だから細野は枝野幸男官房長官が「銀行に債権放棄を」と発言すると「それでは、いったい何のために苦労して案をまとめたんだ」と反発したのである。
経産省・エネ庁は東電温存のためなら将来の電気料金値上げで「国民に賠償負担のつけを回してもかまわない」と本心から思っている。そういう官僚の本心を報じないと、普通の人々は「国民負担を極小化する」という政府の公式発言にまどわされてしまう。
メディアは政府ではないのだから、政府の大本営発表ばかりを大々的に報じるのではなく、細野のような官僚の本心が表れた発言こそ報じるべきなのだ。
オフレコかどうかなんて、はっきり言えば、たいした問題ではない。メディアが自立しているかどうかの問題である。
■官僚の信頼が得られない、そんな批判はチャンチャラおかしい
ネットでの議論を読むと、「オフレコ話を書いてしまうと、官僚から情報をとれなくなる」とか「信頼関係を損ねる」とか議論もあった。それに短く反論しておこう。
表の政策情報は別に官僚から話を聞かなくても、いまは役所のホームページをみれば、いくらでも手に入る。それ以外の情報をオフレコで聞いたところで、報じなければ、なんの意味があるのか。
かつて私は官僚にとって「特Aクラスのポチ記者」だった。だからこそ、たとえば財政制度等審議会(財務相の諮問機関)の臨時委員にもなった。そういう私からみると「官僚に信頼されなければ情報がとれない」などとは、チャンチャラおかしくて話にならない。官僚が信頼するとは「自分のポチとして使える」というだけの話である。
官僚が記者に書いてもらいたくて流す情報とは、ほとんどが「官僚の既得権益にプラスになる話」である。その本質が分からないなら、ジャーナリスト失格である。細野発言は珍しく本音がポロッと漏れ出た例外なのだ。だからこそ書く価値があった。それだけの話である。
こういうメディアと官僚の構造問題に関心のある向きは、拙著『日本国の正体 政治家・官僚・メディア―本当の権力者は誰か』(2009年、講談社)を参照していただきたい。
さて、前のコラムで「考える時間を与えた」経産省の大臣官房広報室長にはその後、今週に入って電話で4回にわたってアプローチした。しかし毎回、不在か「ミーティング中」か留守電状態だった。折り返し電話をくれるよう、広報室の人間に伝言を頼んだが、返事はない。
どうやら私とは接触したくないらしい。税金で仕事をしているのに、役所の広報室長が記者の相手をしたくないなら、それだけで失格である。まったくばかげている。「経産省はほんとにダメになったな」と実感した。
東電賠償案が示すように、経産省は国民の利益優先ではない。根本的に産業界の既得権益に寄り添って生きていこうとしている。その挙げ句、記者からも逃げ回っている。こういう役所はいらない。
(文中敬称略)
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