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読者からのメールではじめて知ったのだが、一昨日(22)の産経新聞の「論壇時評」欄に僕の名前が出ていたらしい。だが、記事を見ないと、いったい、僕の何が記事になっているのか見当もつかない。最近は産経新聞を購読していないし、定期的に読む習慣もない。というわけで、産経新聞日曜版を探してみたのだが、近くの図書館にもなく、産経新聞の販売店を探してみたがその販売店が何処にもなく、仕方なく産経新聞埼玉支局に電話。浦和駅近くの高砂小前の高層ビルにある産経埼玉支局を訪ねて行ったというわけである。
早速、手にいれた産経新聞日曜版を広げて、問題の記事を探すと「時評論壇」という論壇時評欄に僕の名前が出ている。「『死んだ子供』と『子供の死』」というタイトルを見るまでもなく、僕が「月刊日本」に書いた「二万人の死者たちとどう向き合うか?」が取り上げられているではないか。筆者は元産経新聞記者の稲垣真澄さん。こんなことを書いている。
***待ち遠しいコラムというものはある。さしずめ山崎行太郎の『月刊・文芸時評』(月刊日本)はそんな一つだ。4ページという小さなスペースながら、文藝に限らない話題を幅広く取り上げ、ものごとを考え抜くことの楽しさと端正さを示してくれる****
僕は、自分の書く文章に読者がいるとは思っていない。読者がいようといまいと、そんなことには関係なく僕は書きたいから書いているつもりだ。すでに何回も書いたように、僕は自分の書くもの、あるいは自分の書いた文章の中の意見、主張、分析に対する読者の「共感」や「同意」を求めていない。
学生時代の愛読書の一つであった秋山駿の『内部の人間』の後書きに、「せいぜい二、三人の読者がいればいい」というようなことを書いてあったのを読んで以来、僕は、二、三人の読者にしか相手にされない、いわゆる「売れない本」に密かに憧れている。そこにこそ、もっとも読みたい、もっとも本質的な文章があると。
「売れる本」がすべてくだらないとは思わないが、「売れない本」や「売れない文章」の存在価値も、それなりにあると確信している。だから、稲垣さんの「論壇時評」の、過剰に好意的と読み取れる言葉は、かなり僕には意外であった。ああ、こんなところにも熱心な読者がいるのだ、と。むろん、ありがたいことである。
さて、菅直人・枝野幸男コンビが捏造・隠蔽する「海水注入停止命令事件」であるが、予想通り、責任転嫁に失敗すると、今度は「知らぬ存ぜぬ」「私は検討はしたが命令・指令していない」「・・・・・」の言い訳である。自己発生直後には福島原発の現場を視察し、しかも東京電力本社に乗り込んで、東電の幹部たちを怒鳴りあげ、官邸主導で陣頭指揮をとろうとしたのは、何処の誰か。菅直人と枝野幸男だろう。
それが、なんと、今になると、つまり都合が悪くなると「知らぬ存ぜぬ」というのだから面白い。もし、事故処理が迅速に進み、世界の原子力科学者たちが絶賛していたら、菅直人と枝野幸男は、なんと言っていただろう。おそらく手柄を「独り占め」(「二人占め」?)していただろう。結果的に、福島原発事故の処理は、失敗に次ぐ失敗の連続であった。
この大失敗の責任追及が始まろうとしているわけだが、一番先にその責任問題から逃げたのが、日本政府の最高責任者である菅直人と枝野幸男コンビであったという、あまりにもお粗末な「逃げるが勝ち」の政治喜劇である。僕には、事故発生後、必死に事故処理業務に励んできた技術者や東京電力、その関係者を批判する気はない。
つまり事故処理の失敗や不手際を、あるいは原発そのものを、反原発イデオロギー系の原子力科学者たちのように、結果論的見地から責める気はない。問題は、最高責任者たちの、政治責任から逃げ続ける「逃げるが勝ち」の政治学である。(続く)
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20110524/1306197350
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