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13日の参議院予算委員会で菅総理は浜岡原子力発電所の運転停止要請について「評価は歴史に判断を頂きたい」と大見得を切った。この要請を「大英断」と持ち上げる向きもあるから高揚した気持ちがそう発言させたのだろう。だとすれば「墓穴を掘る事になる」かもしれない。多くの権力者の栄枯盛衰を見てきたが、権力を失うきっかけは絶頂期に高揚した気持ちで判断した事から生まれ、権力を失う時は外の敵ではなく内側の味方から崩れていくのが常なのである。
大震災の発生直後からの政治の対応にどうしようもない「違和感」を感じてきたのは私だけだろうか。理解できない動きの連続に唖然としてきた。それを「想定外の事が起きたから」という言い訳で政権は切り抜けてきたが、とてもそれだけで納得できるものではない。
前に「大災害から国民と国土を守るのは国防そのものだ」と書いたが、さらに刺激的な書き方をすれば「今の日本は戦争状態」である。自然から攻撃を受けて被災した国民を守る一方で、福島を戦場とする「原子力との戦い」は瞬時の休みもなく続いている。
この戦いに勝つためには何よりも日本経済の力を損なってはならない。「欲しがりません、勝つまでは」の日本が平時を上回る増産体制を敷いたアメリカに敗れたように、戦争の帰趨を決するのは経済である。ところがそうした意識をこの政権から感じ取る事が出来ない。「一生懸命やっている」と言うが事態は一向に良くならない。
浜岡原子力発電所の停止要請など悪化する一方の「フクシマ」から目をそらさせるための「目くらまし」に過ぎないと私には見える。しかもこの「目くらまし」の論理が滅茶苦茶なのである。地震が起こる確率が87%と異様に高いから防潮堤が出来るまで停止すると菅総理は言ったが、防潮堤建設に投資したら中部電力は100%原発を再開しようとするはずである。そうしないと投資に見合わない。そして防潮堤が確実に防護するかは「神のみぞ知る」話なのである。
しかも柏崎・刈羽原発も福島原発も地震の確率が低いところで事故が起きた。今必要なのは目先の数字に躍らされるのではなく、想定を越える事まで考えて対策を練ることではないか。原発を見直すにしても、局部ではなく日本のエネルギーの全体像を俯瞰し、経済の落ち込みを少なくする方法で手を打っていかないと政治にならない。
菅総理は浜岡原発の停止要請を「熟慮」で決めたと言うが、ただ一人の専門家の意見も聞いていない。それは日本の全体を考えた話ではなく、国民感情に動かされたポピュリズムだからである。リーダーがそういう姿勢だと政治が国難を乗り切るどころか復興の方向を誤る事になる。
私は1990年8月にイラク軍がクエートに侵攻してから91年1月にアメリカが湾岸戦争に踏み切るまでのアメリカ議会の議論を見た事がある。戦争をする国の政治の議論というものを初めて見た。夏の終わりからアメリカ議会は歴代の国防長官、国務長官、軍人、経済学者、ジャーナリスト、さらには外国の政治家まで200人近い専門家を公聴会に呼んだ。
そこで戦争に踏み切ればどのような影響が出るかをあらゆる角度から検討した。中東地域はどうなる、各国の反応はどうか、アメリカ経済への影響、国民生活への影響など2ヶ月にわたって意見を聞いたうえで、議員たちが戦争権限を大統領に与えるかどうかを決めた。その判断は自らの政治生命に関わるから、採決の日の議会は異様な緊張感に包まれた。
全員が戦争すべきか否かを意見表明する。民主党議員の多くが反対する中でゴア上院議員は賛成演説を行なった。次の大統領選挙に出馬する意向を固めていたからである。こうして湾岸戦争は開始されたが、戦争中も戦争後も軍事費を巡る議論はしっかりと行なわれた。国民の税金を使う話だから、戦費をしっかり監視し、無駄をさせないのが政治の役目である。シビリアン・コントロールとはこういうことなのだと実感した。
ところがこの国の国会ではいつも予算の詳細がほとんど議論されない。今回の大震災など戦争と同じで日本経済に深刻な影響を与える事になり、しかも復興には巨額の資金が必要になるから金の話はしっかりしてもらわなければならない。ところが「最後は国が責任を持つ」と手形を乱発するような話ばかりで、どうやって国民生活を落ち込ませないか、どうやって経済を上向かせるかの議論は聞えてこない。
そして「違和感」を感ずるのは何につけても責任の所在が曖昧になっている事である。浜岡原子力発電所の運転停止も「命令」ではなく「要請」であるから最終決断をするのは中部電力で、放射能から非難する住民は「自主判断」を求められ、東京電力の社内に作られた「福島原子力発電所事故対策統合本部」は法律によらない任意団体である。法律による「原子力災害対策本部」を使わずに政府と東京電力が一体となった責任の所在が曖昧な団体がわざわざ作られている。
政治は国民生活を守るために仕事をし、結果について責任を取るものである。しかし他人の意見を聞かず、責任の所在も曖昧なままの政治に「歴史の評価」を求めても、歴史が判断するまでもない事で、このままでは政治に対するアパシーが広がるだけの話である。
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2011/05/post_261.html#more
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