http://www.asyura2.com/11/senkyo112/msg/515.html
Tweet |
http://news.livedoor.com/article/detail/5527829/
1.政治の機能不全
震災対応や先の統一地方選挙の敗北を受けて、菅首相への批判や退陣を求める動きが加速している。3月11日におこった東日本大震災から50日が経過したが、これは天災ではなく人災であるという言い方を超え、「菅災」との声まであがっている。
参考:時事ドットコム:「菅災だ」「官邸去れ」=野党が辛辣批判
政治が機能不全に陥っていることは、今回の大規模な被害に、平時の法体系では対応しきれないにもかかわらず、一ヵ月半経っても震災関連の立法が行われていなかったことからも明らかだ。
1つ例をあげよう。
1000年に1度ともいわれる大津波はあらゆるものを押し流し、船が陸に打ち上げられ、民家に自動車が乗り上げた。
現行の法律では、修理すれば使用可能な自動車や船舶を、持ち主の許可なくして撤去したり壊したりすることはできない。しかし、死者・行方不明者が2万人を超え、10万人以上が避難生活を送っているなかでは、これらの自動車や船舶の持ち主がどこにいるか、それどころか持ち主の生死すらも不明な場合がある。それにもかかわらず、持ち主の許可を得ることができないことで、これらの撤去作業が難航し、復旧・復興の大きな妨げになっている。
政府はこうした自動車や船舶の処分について、まだ議論をしている最中とのこと。
以下、「松本内閣府特命担当大臣記者会見要旨 平成23年月4日26日」より。
(問)災害廃棄物についてですけれども、自動車や船舶については、遺失物法を適用するという報道がありますけれども、いかがでしょうか。
(答)いろいろ、今、樋高政務官のところで、研究といいますか、早い時期に結論がでると思いますけれども、様々、今、議論をしているところでありまして、船舶につきましても、保険との関係とか、移動するときの保険であるとか、様々、今、やっているところでありますし、もう動き出しているところもありますから、そこに対して、私どもも、適宜、対応については、走りながら考えているという状況であります。
震災から一ヵ月半が経過したのに、あまりにも遅い対応ではないだろうか。こうした既存の法体系や規制を超えた対応こそ、政治主導で行うべきであろう。
一方でやったことといえば、場当たり的なパフォーマンスと会議の乱立、精神論的な空虚な言葉の乱発である。権限や役割が不明確なまま節電啓発担当大臣や災害ボランティア担当の首相補佐官を任命し、「福島原発事故対策統合連絡本部」「緊急災害対策本部」「復興構想会議」など20もの対策本部・会議を乱立させた。
参考:佐藤正久オフィシャルページ
危機にあって会議を増やし、会議に出て仕事をしている気になるのは、ダメ会社の典型だ。
また原発に詳しいと自認する首相が、福島第一原発への対応を最優先と考え、震災翌日の原発視察を断行し、さまざまな指示を出したが、首相の任務は原発の専門家になることではない。同時多発的におこってしまった災害の全体像を把握し大きな方針を打ち出し、指揮命令系統を明確にして、担当者が仕事をしやすくすべきではないだろうか。
まとめると菅首相には、未曾有の大災害において、全体を俯瞰して問題を解決する意思と能力が欠けていたといえる。
2.自称市民運動家の限界
菅首相が自らの原点とする市民運動とは、既存の社会体制に対する異議申し立てをして、国家と対決する告発型の運動であるといえる。そこでは、環境保護や人権の尊重などがテーマとなり、一部の人々の利害や権利を代表する。国益や国全体としての利害調整などは考慮されず、全体に対して責任を負うことなく、「国に勝つ」ことに喝采が送られる。そして、外部に対して情報を公開し、説明責任を果たすことも求められない。
菅氏の市民運動としての実績は、市川房枝氏の選挙活動を手伝ったこと以外にははっきりとしないのだが、かつての長崎県諫早湾干拓事業における行動には、市民運動家としての菅氏のありかたが見られるように思う。
「ムツゴロウがかわいそうだ」と自然環境保全の観点から諫早湾干拓事業に反対していたいた菅氏は、1997年4月、水門が閉められる時間に現地事務所を訪問し、テレビカメラの前で「誰の指示でやっているのか。責任者を出せ」と叫んだ。地道な反対運動ではなく、パフォーマンス重視の行動であったといえよう。
誤った政策があればそれを正し、責任を追及していくことは民主主義国家においては不可欠である。しかしそれは、あくまで国政を補完することであり、国政の代替機能にはならない。そして、菅氏の政治手腕の限界は、以下に見るように市民運動家の限界であるといえる。
1)リーダーシップのなさ
リーダーシップとは、端的にいうと決断力である。決断するためには大局的な方針が必要であり、首相としての決断には日本という国がどうあるべきかという国家観が問われることになる。しかし、市民運動家には国家観は必要ない。
2)外交不在
市民運動に国際感覚は必要ない(もっとも世界には、シーシェパードのように国を超えて活動をする団体もあるのだが、日本の市民運動ではこうした要素はないように思う)。海水への放射線汚水放出に関して、周辺国から事前に情報提供がされていなかったと非難されたが、国としての対応について意識が欠けていたのではないだろうか。
3)責任不在、パフォーマンス重視
諫早湾干拓事業で水門が閉められる時間に現地を訪れても、事業を止められるはずがない。マスコミに取り上げられれば話題になり、自分の行動がアピールできるが、それは責任を伴わない。
4)情報開示と説明責任の意識の欠如
一部の権利の代弁者であれば、国民全体へはもちろん、他国に対しての情報開示も説明責任も意識する必要がない。
こうした思考・行動パターンがしみこんでいるのであれば、菅氏に首相としてのリーダーシップを期待することはできない。市民運動家として国家に反対することを原点としてきた人には、国民の生命と人権を守る主体としての国家像がなく、首相の座におさまっても、何をすべきか分からないのだろう。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK112掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。