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<田中角栄が首相でいたら、ブルドーザー部隊を先頭に立てて、瓦礫で埋まった道路を切り開き、タンクローリー車や物資輸送のトラック部隊を送り込んでくれただろうな!」と被災地で声があがる。
批判はあっても住民生活の動脈は”道路”にあると、田中角栄は鋭い直感力を持っていた保守政治家で、抜群の行動力があった。
河野一郎にも同じことを感じる。そういう迫力のある政治家がいなくなった。被災地は、さながら戦場のような姿を曝している。いまこそ戦時宰相が求められる。>元共同通信社常務理事 古澤襄氏の杜父魚=かじかブログより。
私は若いころの角栄と最晩年の河野一郎氏を担当した記者である。自民党で当時河野担当だった各社の記者は殆ど鬼籍に入り、河野一郎を語る最後の記者になったわけだ。
私が担当した頃の河野さんは池田勇人内閣の無任所大臣で、東京オリンピック担当相。折からの東京都の水不足対策も任されていた。
それ以前は建設相として新潟の大地震や雪害を担当したが、「私が現場に行くからには、いちいち閣議に諮っていては時間が勿体無い、全権を委任してれなけりゃ行かない」と池田首相に掛け合い、災害をあっという間に解決したという逸話があった。
残念ながら菅首相にはこの片鱗も無い。
政治記者から代議士になり、敗戦後は鳩山一郎を総裁に担いで自由党の幹事長になったが、鳩山が組閣直前にマッカーサーによる公職追放されたため夢は水泡に帰した。
以後はバトンをなかなか返還しない吉田茂に徹底的に逆らい、蛇蝎の如く嫌われたが遂に奪権を成就。鳩山を晴れて首相の座に就け、ソビエト(現ロシア)との国交正常化を達成した。
その頃から党内に派閥を構成し、自らを実力者と称した。やがて首相岸信介と対立、新党結成を策したこともあったが、岸後継の池田氏と組んで党主流に坐るようになった。
酒を一滴も呑めない河野さんなのにクレムリンで渡り合ったフルシチョフにウオッカを飲まされる羽目になったことを懐かしく思い出していた。
盛岡から転勤してきたばかりの若造をリンカーンに「箱乗り」させたり、自宅で照子夫人と3人で夕食を一緒にしてくれたりしたのは、「あなたの右目は義眼ですか」と質問したからだった。「ほら、義眼じゃないだろ。こんな質問、君が初めてだ。君はいい記者だ」と褒められたのがきっかけだった。
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