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女たちの2011年へ― 「心かき乱し、かき乱され」4/29
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女は居心地の良さを求める生き物だと謂う。
しかしこの言い方にはたいていの場合、常に幾分かの蔑視がそこに含まれているようだ。つまりその一方に“外で日々闘う戦士機能としての男”という対立的優位概念が、暗に含まれているのである。家でテレビを見ながら寝転がり、旨い物を食ってまた寝転がる、”亭主元気で留守がいい”を謳歌する主婦のイメージとつながった言説である。
もちろん彼女達はただ漠然と居心地の良さを求めるだけでなく、自ら家の中を居心地の良い空間として創造していく才能を備えているのであって、男もまたその才能に惹かれ、彼女達の作った居心地良い空間を共に享受する事を喜びとする訳であるが。
しかし外でミサイルや銃弾がしきりに飛び交い、すぐそこで爆撃が着弾しまくっているさなかに、なお呑気に鼻歌を歌いながら家の中においてせっせと居心地の良い空間作りにいそしんで満足している淑女が居たとしても、枯渇したのか或いは休眠しているのか、いずれにしてもその女の女としての才能の根幹部分を疑わざるを得ないだろうな・・・。そんな事を考えていた。震災・原発事故の起こる前の事である。社会には、女たちのそのような気配が、確かにあった。
(ドンパチはいつだってテレビの中だけ、と根拠無く信じてる。)
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今はどうなのだろうか?
4月19日、文部科学省は学校活動を行う際の放射線基準値を年間20ミリシーベルト(1時間3.8マイクロシーベルト)にまで引き上げた。既定値の20倍である。
ICRP(国際放射線防護委員会)の「事故収束後の基準」の1〜20ミリシーベルトの最大値という説明であるが、福島市や郡山市の線量を見ると概ね2〜4マイクロシーベルト毎時で推移している地域が多く、ここから逆算してそれを許容すべく基準値を設定したのでは?とも疑いたくなる。少なくとも子どもの健康と生命を第一に考えて算定した基準でないことは確かである。
労働基準法で18歳未満の作業が禁止される「放射線管理区域」に指定されるのが0.6マイクロシーベルト/時以上であるから、3.8マイクロシーベルト/時となればその6倍以上である。また年20ミリシーベルトというのは、原発労働者が白血病を発症して労災認定を受けている線量にも匹敵するという。
更に言えば、この年20ミリシーベルト基準は、吸気や食品・飲料水などからの内部被曝についてはまったく考慮に入れていない。食品・飲料水についても厚労省が3月17日に大幅に基準を引き上げたが、1986年のチェルノブイリの大事故を経験したウクライナでは、内部被曝の影響を実地に認めた結果、’97年に野菜のセシウム基準値を1キログラム当たり40ベクレル(日本の暫定基準値は500ベクレル)、飲料水の基準値を2ベクレル(日本は200ベクレル)と、それぞれ下方に修正している(週刊現代4/30号より)。日本政府は経験者に習うどころか、見事に逆行している訳である。
放射性ヨウ素は小児甲状腺がんの危険を増大させる。週刊現代からの引用である ―< ベラルーシの「国立甲状腺がんセンター」によれば、’95年までに診察した甲状腺がん患者420人の年齢別の割合は、0〜4歳が66.2%、5〜9歳が31.4%、10〜14歳が2.4%となった。ベラルーシで小児甲状腺がんの治療経験を持つ、医師で松本市長の菅谷(すげのや)昭氏が説明する。「15歳未満の甲状腺がんというのは、100万人に1人か2人しかならないのが普通です。ところがチェルノブイリ事故の汚染地では、それが100倍から130倍に跳ね上がった。発生が増え始めたのは事故から5年後で、10年後にはピークを迎えました。」(中略)菅谷氏によると、800人の患者のうち20人弱が死に至り、ミンスクの甲状腺がんセンターでは、6人に1人が肺への転移が見つかった。「甲状腺がんにかかった子どもには、自覚症状がないんです。だから気付きにくい。定期的に触診や、超音波検査などを行って、早期に見つけ出さないといけない。甲状腺がんにかかると甲状腺を摘出しますので、一生、薬で甲状腺ホルモンを補充し続けなければいけないんです。薬の服用は毎日で、それを一生続けなければならない。今回の福島の事故では、絶対に子ども達にこんな思いをさせてはいけないんです。」 >
福島県の各自治体では教員に線量計を持たせたり、屋外での授業をなるべく控え、校庭の表土を掘削除去するなどの対策を講じているが、そうしていても日を追うごとに危険度は増して行くわけで、母親たちは遣る瀬無い思いでいることだろう。国が守ってくれない限り、自分達で子どもを守らなければならないが、“疎開”させるにしてもクリアしなければならない物理的問題が色々あって、二の足を踏んでいる人も多い。家族間や、あるいは近隣の住民間でも、放射性物質の危険度に対する認識の違いから、不協和音も生じているかもしれない。
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ここで再び話を戻したい。
居心地の良さを求める、という女たちの性向の根拠を突き詰めていくと、彼女達がそもそもにおいて身体的な次元における弱者として在る、という絶対的な事実に思い至る。彼女達の生身の身体は、男たちのそれと比べて根本的に遥かに暴力に対して弱い立場に曝されているが故に、むしろ男たちが身体に迫る危険性の観念を忘却してしまっているこの現代社会においては、遥かに<リアル>な身体性を常日頃から生きている存在なのだ。
女たちももしかしたらその事実を半ば忘却していたのかもしれない。しかし今やどうであろう。彼女達の周りには暴力が満ち満ちている。大気中にも、土中や海水の中にも。それらを規制して彼女達を守るべき人達は彼女達には関心は無く、背中を向けて何かのゲームに夢中だ。それ自体が暴力とも言えるだろう。国家は国民を守らない。
子どもという最も身体的に弱者たる事を強いられている存在と、彼女達は眼に見えない強い紐帯で繋がっている。子どもの弱さに彼女達は感応することが出来る。自分の子どもだけではない。他人の子どもとも、母親同士の間でも、とうに子ども達が自立して巣立っていった筈の元母親との間でも、或いはこれから母親になるであろう女たちとの間にも、原発の近くに住んでいようが遠く離れていようが、その紐帯は繫がっている筈なのだ。女としての才能は休眠してはいたが、完全には死滅していなかった筈だ。そうだろう?
国家が国民を守るなどというのは、今の政府に限らず少なくともこの国のこれまでの
近代史全般を振り返ってみても、ただの幻想に過ぎない。
もし国家というものが幻想にとどまらないリアルな集合的利益団体であるならば、子どもとこれから子どもを産出するであろう若い女こそが、国家が今何よりも最優先で守らなければならない、集合的“宝”の筈である。原発近隣の農家や漁業者が今どんなにつらい思いをしていようとも、この前では二義的となる。しかし09年マニフェストの子ども手当に込められた思想すらバラマキとして唾棄して然りとするような今の国会議員やマスコミの大勢を見ると、この国の既得権力者達には、我々の思いは通じないのかも知れない。そしてすべての利害関係者の苦しみを解放する為にも、事故の早期収束が重要なのだ。
“ネトウヨ”と称される、ネットにたむろするエセ保守の連中が居る。彼らは常日頃国民生活を守る為と称し、近隣諸国の住民の邪悪性と軍事的危険性を説くのにたいへん熱心であるが、先に述べたような福島の子ども達の現在晒されている危険性等については、驚くほど無関心である。
彼らは<リアル>を感じる能力に著しい退行を示している点で、致命的である。そもそも幻想の中でしか生きられない、幻想の捕囚のような哀れな人達なのだが、そのような人間の行き着く当然の帰結として、国家が国民を守ることなどは彼らにとって意味が無くなり、国民が国家を守ることの方だけが重視される。幻想の為にリアルを犠牲に供そうという、身体性のきわめて劣化した、“身体難民”のような人達である。平時ならまだ彼らも社会の片隅に生き永らえる事が出来ただろうが、そのような稚拙な言説は今後一切通用しなくなるであろう。
しかし彼らのことばかり笑っても居られないのだ。<リアル>を感知する能力において、彼らほどではないにせよ、我々全体が知らぬ間に劣化して来ていたと言わざるを得ない。その偏集合的現われとしてネトウヨという存在もあるのだろう。彼等を産んでしまったのもまた我々、という訳である。
そして何度でも何度でも繰り返し言うが、国民のリアルを感知する能力を直接に疎外するものとして、今のマスコミの在り方がある。
放射線量の基準が既得権益者の都合で勝手に底上げされ、その為に子ども達が危険に晒されていることの理不尽さを、まるで追求しない。反原発デモに一万人以上集まっても報道しない。原子力に取って代わるべき新エネルギーの代案についてもまったく議論を喚起しようとしない。増税以外の復興財源の方法は幾らでもあるのに、それらについてもまったく問題提議をしない。そして小沢一郎の元秘書の裁判では、吉田正喜検事の奇妙キテレツな猿芝居の如き取調べの実態や、民野健治検事のヤクザまがいの脅迫取調べの実態等の、検察の異常性が晒された部分は完全スルーする一方で、どのみち当の検察でも立証するつもりすらない、元秘書に5000万円を手渡したという水谷建設元社長のインチキ証言の部分だけは、相変わらず大々的に報道する。(特にNHK、朝日、読売!)そのうえで経産官僚や財務官僚や検察官僚に有利な誘導的な世論調査の結果を毎度毎度捏造してでも世間にひけらかす。
徹底的にリアルを疎外して幻想を垂れ流す、まさに百害有って一利無しの、現代の「幻想装置」の心臓部分にいるのが彼等であり、彼らの存在がある限り我々は常にリアルから疎外された情報難民として生きていく辛苦(身体難民よりは多少マシだがね)に喘がなければならないのだとしたら、もう彼等には此の世から消えてもらうしかないんじゃなかろうか?重ねて言うが、彼らの存在により、多くの弱者が今、生命の危機に瀕しているのである。(戦時中と同じだね!)
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居心地の良さを求める生き物だという半ば蔑視を伴った存在はその深みにおいて、
暴力に曝された弱者たるリアルな身体性に降り立ち、そこから価値は反転する。
実のところこの国においては、大きな社会の変革は、女が立ち上がることによってしか成し遂げられないのではないか、と内心思っている。男の身体感覚の方が鈍っているのだ。周囲の人間と接していてもそれを感じる。
たとえば小沢一郎陣営に対する検察やマスコミの一連の攻撃の理不尽さについて話しても、女性の方が素早く正確に事の実相を理解する。身体感覚とは現実レベルで突き詰めれば“危機感”の謂いであるが、それがどうも男の方が鈍化している傾向にあるようだ。戦士機能といえば聞こえはいいが、実態はそれほど格好のいいものではない。
(テレビ的な)世間ではダーティー・イメージの強い小沢一郎であるが、実は小沢支持者には女性が多いのは、周知の事実である。女のエロス的な力は、世の中を大きく動かす可能性を秘めているが、その力は流動的で、ともすれば方向性を失いかねない。エロスには、道案内を兼ねる触媒が必要なのである。
女が男に「わたしと仕事と、あなたはどっちが大事なの?」と詰め寄る時、彼女達は
実は男に、こう尋ねている。
“<リアル>と<幻想>と、あなたはどっちが大事なの?”
今だったらさしずめ、<幻想>のところに<東電>とでも入るであろうか。
二十世紀的な世界的な幻想の大帝国からいち早く脱却する<チャンス>の、その取っ掛かりに今、日本人は居るのだ。
もう幻想にすがって生きられる時代は終わったのだと、覚悟せねばなるまい。
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