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あえてタブーを語ってこそ言論だ、何度でもいう原発は不要だよ!
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2011年04月19日 | 日記 :世相を斬る あいば達也
最近異様な感じでランキングの数値が急降下している。順位が上下することは、それはそれで納得するのだが、順位の問題ではない。わけは判らないが、兎に角数値が異様に急降下している。まさか筆者程度のブログで内容云々はあり得ない。まぁどっちでも構わんが、チト奇妙だ。
何が言論の自由な国なものか、多くのタブーに満ち満ちている。原発は人間の命を奪うが、クリーンで安心安全なエネルギー源であるのなら、菅直人と東電の勝俣会長と経団連の米倉会長が仲良く平服で視察に行けよ!今さら、程々の放射線浴びたからといって、寿命と良い勝負の後遺症が出るだけじゃないか、蛮勇を見せてみろ。筆者も五十過ぎたが、30ミリマイクロシーベルトくらいなら平気で浴びてやる。
ところが、日本と云う国は戦後一貫して「核」への独特の賛成反対論がまかり通っている。広島・長崎で被爆者を出した唯一の国家。米国が唯一核爆弾を落とした国家なのに、核推進者が大手を振り権力を握り、反対者は「アカ」だとレッテルを貼りまくったようである。今でも「核」に対する反応と原発に反対する人間は同種にカッコで括られるらしい。あえて筆者は言っておくが、核爆弾を持つことが国益であるのなら、その所持について、議論の俎上に乗せるべきだと考えている。
核と原発を同義的に考えることは無知なだけだ。 外交防衛上、国益として原子爆弾の保持が必要であればおおいに語ろうではないか。核爆弾に替わる選択がないのであれば、外交上議論すべき課題だ。核燃料なら六ヶ所村にウザル程残っている。原発全部中止してもウランも残るプルトニュウムも残るから安心せい。まさか、総務省通達でランキングサイト管理者の忖度による介在だとは思いたくもない。
しかし、原発反対を語り、多くのメディアから、多くの論客が退場させられた事実は事実だ。筆者のコラム程度はどうでも良いが、こう云うマスな報道機関における、言論封殺は忌々しきことである。自粛と称した検閲も許すべきものではない。
そもそも、原子力発電と核爆弾は目的が違う。原子力による発電は代替エネルギーがあるのだから、抑止力としての核爆弾とは違う。ここまで原子力エネルギーを国策的に推進した組織は気がつくとマフィアとかシンジケートな団結を示している。
原発からの撤退により経済的に生命線を絶たれる彼等が、必死の抵抗に出てくるのは肯ける。安心安全な銭に守られぬくぬくと生きてきた生活が乱されるのである。ゼネコン公共工事の裾野が広いのと同様に、原発の開発運営は日本経済を大いに潤し、多くの雇用も生んでいるのは事実だし、利権も複雑に絡んで国中を網羅している。だからといって、世界中の人知の粋を糾合しても、イザにおいては、安定した状態に原子炉を制御出来ていないのも現実だ。
遺伝子組み換えで産み出したゾンビに、産みの親が今や喰われようとしている。しかも、アナログな感覚で制御可能な代替エネルギーがあるにも拘らず、あえて死に直面しても原発が良いって言う人が多いのだから、何をかいわんやだ。
賛成か反対しかない世論を作り出しているのはマスメディアだけではないのだろう。リスクは判っているが、生活との兼ね合いで、それをリスクとして受けつけない国民性もある。見ないふり、聞かないふりで、知らなかった事で危機が通り過ぎるのを待とうと云うのだろうが、そのような国民の態度が次の危機を生む素地になっている事を、人々は知るべきである。
原発エネルギー国策事業の継続が本当に国益なのかどうか、真正面から議論せずに、反対者を叩く行為に出ることは、魔女狩りの一種に過ぎないし、ウッカリすると国土を失うのである。原子力発電のクリーン安心安全を教育現場に持ち込んだ文科省の罪も大きい。経産省と文科省の官僚が、どれ程原発マフィアから職を得ているのか、調べずとも判ってしまう事実がある。
菅直人が言ったか言わなかったか知らないが、「20年は住めない」を打ち消すように、否、話を切り替える為に、経産省・東京電力から、福島第1原発事故の収束に向けた工程表なるのもが発表されたが、放射能漏れ、放射能汚染水だらけの、原発事故進行形だらけの中、いかなる工程表が書けるのか訝しいだけだ。読めば読むほど、願望に満ちた工程表であり、信頼性など皆無だ。
今や、最近では子供まで知っている「除染」と云う放水行為で、原子炉を除染しているのだから、放射線が大気に放出される現象は抑え込めている。ただし、その原子炉をソックリ除染した処の汚染水が、公海上への放流と地下水へと、姿を変え、おそらく土壌汚染も深刻なものになっている筈だ。そのような悪いシナリオに接近すると、正夢になるとでも思って知ろうとしない人々がいるのだから、この国で冷静な議論をすると云うチャンスは訪れないのかも、と悲観的気分になってしまう。
原発と云う、一見見事な人間が作り上げた究極のエネルギーにも限界はある。ウランだって、無尽蔵の鉱物ではないのだ。プルサーマルなどは、原発科学者の妄想妄言の類である。兎に角、暴走したら止められない、人が接近することを阻むエネルギーを人間が利用してやろうなどと考える事は、一種神への冒涜だとさえ思える。例え百の安全バリアを作っても、一人のオペレーターの発狂で、或いは飛行機が落下したら、人間の生命を奪い、人が住めなくなる国土を現出させる原発は、まさに悪である。
菅直人は18日の東日本大震災に関する参院予算委員会の集中審議で、今後の原子力政策について「安全性を確認することを抜きにして、これまでの計画をそのまま進めていくことにはならない」、「これまでの基準でいいか再チェックする必要がある」等々と述べたようだが、原子力政策に安全はない。原子力安全委員会も経産省も文科省も電力会社も、安全安心と言い続けたわけで、彼等が幾ら確認検証しても信ずるアホはおらん。信じてはいないが、自分の棲家から離れているなら良いという奴もいる。(笑)
そもそも、原発が安全だと云うこと自体、虚偽である。 原発は完璧に安全だと言い切れるのは勝間和代くらいのもので、実は危険性はあります。しかし、現時点で最善の防御態勢を構築しているので、ゼロに近い確率でしか事故が起きないように致しました。ただ、残念ながら危険がゼロではありません。しかし、現在の我が国のエネルギー政策としては、原発も容認せざるを得ないのが事実です。生活の質を落とさず、再生可能エネルギーの振興を促進し、理想的には真の安心安全を提供するよう努力いたしますが完璧は保障できません、と言うべきだよ菅君。
副作用が酷い劇薬だけど、今この時、死の病を治すには致し方ないと宣言し、堂々と原発を推進せよ!それでも、国民が了解するなら、筆者などが口を出す次元ではなくなる。危ないモノを安全だと云うのは罪だ、国民を騙すだけだ。
話しは変わるが、震災復興の三陸の各地の復興計画に対する、識者と言われる人々の青写真は、押し並べて菅直人と同じだ。簡単にいえば、危なくない高台に家を建て、集約的に魚市場や加工場を臨海につくり、海の男は港に通勤するのがベストだ、となる。小学生でも判ってしまうリスクマネージメントだ。昔聞いた事があるコルホーズだな。(笑)
一見正しそうな計画で理屈に適っている。しかし、筆者はまったく持って釈然としない。何となくだが、ヨシ!明日からやってやろうじゃないか!と云う気分になれない。つまり、心が揺さぶられないのだ。感動がない。情熱を感じない。
海と共に生きてきた漁師町の人々は磯の匂い、潮騒を子守唄にしなければ寝られないのではないだろうか?筆者も海が好きだが、磯の香りのない海に魅了される事はない。潮風くらいは吹いてくるが、満足は出来ない。まして、漁師町で生まれ育った人々に、この理屈が通用するのか? 安心だ、安全だ!と云う事で波の砕ける景色を見ずに、堤防内の子供は育ったのだろう。
二重の堤防は、想定外の津波に呑みこまれ、尊い命が幾千万と奪われたのだ。危機管理の観点から、大きく二つの見方がある。二重堤防の高さを倍にしておけばよかった。住宅は津波が来るのだから、高台しか認可しなければよかった。しかし、筆者はもう一つあると思っている。津波対策の堤防なんて何ひとつ無かったら、皆はどうしただろうと?これも津波対策の一つの見識だと思っている。
自然と共存する人々、そこには自然への畏敬と畏怖が存在すべきかと……。未来都市のような漁師町に人々は本当に馴染めるのだろうか?筆者は、この世の識者と呼ばれる怪しい奴らの考えを観察させて貰おうと思っている。人は自然と共存する。共存には常に畏敬と畏怖が寄り添うべきなのだ。
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