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近聞遠見:菅首相に足りないもの=岩見隆夫
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毎日新聞 2011年4月16日 東京朝刊
10年ほど前、岩手県水沢市(現奥州市)の後藤新平記念館を訪ねたことがある。記念館の隣が公民館で、玄関に後藤(1857〜1929)と正力松太郎(1885〜1969)の胸像が並んで建っていた。
ところで、3・11の東日本大震災以来、後藤の名前がメディアにひんぱんに登場する。1923年の関東大震災のあと、後藤は内相兼帝都復興院総裁として復興の陣頭に立ち、東京改造計画を手がけた先達だ。
菅直人首相の対応と指導力に対する不信、不満が、<平成の後藤>は出ないか、という声を誘っている。後藤とはどんな人物だったのか。
後藤・正力の物語が興味深い−−。
関東大震災の発生が23年9月1日。それから約4カ月後の12月27日、虎の門事件が突発する。帝国議会開会式に出席のため、赤坂離宮から国会に向かう摂政宮裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が虎の門交差点で無政府主義者に狙撃されたのだ。
皇太子は無事だったが、山本権兵衛内閣は総辞職、後藤も内相を辞任、警視庁警務部長として警備責任者の任にあった正力は懲戒免職になった。
このあと、正力のもとに、
「読売新聞を買わないか」
という話がくる。正力は先輩の後藤を訪ね、
「10万円貸してほしい」
と頼んだ。88年前だから、いまに換算するとゆうに1億円を超える。
後藤は、即座に、
「2週間たったら取りに来い」
と快諾し、2週間後、ぽんと渡してくれた。後藤は何の説明を求めるでもなく、
「ときに君、新聞というのは非常に難しいと聞いている。やって失敗したら、きれいに金は捨ててこい。返さんでいいぞ。おれが金を出したのを人に言ってはだめだよ」
と念を押しただけだった。正力は読売新聞社の7代目社長に就任、その後政界入りし、56年、鳩山内閣で新設の原子力委員会委員長に就いている。
融資の10万円は、後藤が経済人から借りてくれたものと思っていた。ところが、亡くなったあと、長男が明かしたところによると、父親に、
「正力に約束したから、麻布の5000坪の土地の権利書で金を作ってこい」
と言われたという。屋敷を担保の金だったと知って、正力は号泣する。
すでに後藤が死去するまでの5年余に、正力は分割で完済していた。その後、20万円を郷里の水沢市に寄付し、日本で初めての公民館が建つ。豪快な友情を偲(しの)ぶ2人の胸像がそこにある。
大正末期と今では時代背景が違う。だが、この物語からは、後藤の人間的スケールの大きさが伝わってくる。即断即決、太っ腹、男気、潔さ……。
後藤について、塩川正十郎元財務相が面白いことを言っている。(07年9月のセミナー「今、なぜ後藤新平か」)
「後藤に興味を持ったのは、第一に頭がでかい。東北の偉人は原敬(元首相)も野口英世(細菌学者)もでかい。胴体がちっこいもんだから、不細工だが、愛嬌(あいきょう)のあるスタイルが非常に頼もしい。
そして、後藤は独断に走らず、周辺と協議して積極的にやる。功を見せびらかさない。
ずっと経歴をみると、『進む時は人に任せ、退(ひ)く時は己で決せよ』という人生訓があるが、これを地で行った男だ」
後藤はスケールだけでなく、用兵術にたけていた。大震災という大敵を迎え撃つのに、菅はどちらも欠いている。防災服を着込んで、現場主義を気取ったにすぎない。(敬称略)=毎週土曜日掲載
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