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東北地震・福島原発問題は、日本人のみならず世界中の人々に大きな影響を与えた。大災害というレベルを超えて、世界全体で大きくパラダイムが転換する契機となるだろう。東北地震・福島原発問題によって、何がどう変わっていくのだろうか。
■マスコミ不信
今回ほどマスコミ、官僚、政府の隠蔽・誤魔化しが際立ったことは無かった。彼らはウソを撒き散らした訳では無かったかもしれないが、みんなが考える上で必要な情報や事実を発信しなかった。それぞれの”利権”が優先された結果だという事も可能だが、本来ここまでの社会問題であれば、”利権”を超えて発信されてしかるべきである。なぜ、情報や事実が発信されなかったのか?
政府も官僚もマスコミも東電もマスコミも、それぞれに独立した利権を意識している訳ではなく、相互にもたれあいながら、言わば一つの自閉的な集団のように振る舞っている。東電はマスコミの大スポンサーであり、東電には官僚が天下っており、彼らの理屈を大学教授が支え、更には大学教授の出した結論が政府の方針となり、政府はマスコミにもたれかかる。相互に指摘・監視し合う関係ではなく、相互にもたれかかる関係を維持し、全ての判断は国家国民の為ではなく、その自閉的な集団にとって最適な方針が採られる事になる。彼らにとっての”国民”とは、相互にもたれかかっているメンバーのことであり、それを超えて考えることが不可能な構造にハマっている。
私たちが直面したこの現実は、何も災害時に限ったことではないはずだ。「日常的にそうであった」状態が、危機的な局面で表面化したに過ぎない。従来のマスコミ不信は更に進み、新しい媒体が明確に探索され始めている。
■新しいメディアの登場
彼らの”結託”を象徴する出来事が、福島原発問題を巡る政府とメディアの関係だった。NHKを含めて日本の全メディアは福島原発を遠方から写し、近くに寄った映像は自衛隊などの政府機関から提供される映像を流すのみだった。しかし実際には、果敢なジャーナリストが福島原発付近にまで取材に言っている(ex.APF通信)。彼らは現地から詳細なレポートを送っているが、日本のマスコミはその取材記事を買うことは無く、外国メディアが買っていくらしい。福島原発付近は「政府が定めた退避区域になっており、退避区域内の映像を流すということは、政府の指示を無視して退避区域に入っていることを意味する」からだと言う。
日本のマスコミは信用できないというレベルを超えて、ネットで得られる情報の方が、より事実に近いことを得られる。この事が持つ意味は大きい。TVマスコミの地位は放送法によって定められているが、放送法第6条には
第6条 放送事業者は国内放送を行うにあたり、暴風、豪雨、地震、大規模な火事その他による災害が発生し、または発生するおそれがある場合には、その発生を予防し、またはその被害を軽減するため役立つ放送をするようにしなければならない。
と定められている。TVメディアの特権的な地位は、災害時を基準に考えられてきたもので、今回のような災害時に「役に立たない」むしろ「害悪になる」のなら、TVメディアはその存在意義を失ったといっても過言ではないだろう。
そして、今までネットの情報は玉石混交で、峻別するのが難しいと言われてきたが、今やマスコミの情報から真実を見抜くことの方が、よっぽど難しい。ネットとマスコミの信用度は、逆転したと言っていいだろう。
■原子力利用を支えてきた科学万能主義の崩壊
TVメディアそのものの信用失墜と同期して、出演していた「専門家=学者」の信用も地に堕ちた。彼らの”分かりやすいように工夫した”説明より、ネットで得られるあらゆる可能性を考慮した説明の方がよほど「理解しやすかった」。TV専門家の説明は、単に「誤魔化し」だったということだ。
専門家=学者の信用失墜の背後で、科学そのものへの信用も失墜し始めた。
私たちは、過剰な電力消費の上に、自分たちを取り巻く環境や生活が築きあげられていることを知ってはいた。そして、福島原発問題によって、都市生活が危険な原発の上になりたってきたことを、現実として受け止め始めている。原発のようなどう考えてもリスクの方が大きいシロモノを登場させ、それをコントロールすることが可能たらしめてきた(と思われていた)のが「科学の力」だ。
私たちが生きる「近代社会」は、「科学」と「市場」、そしてそれらの存在を説明する「近代思想」によって作られている。この「科学(の発展が)が全てを解決する」という「近代思想」が音を立てて崩れていった。「近代市場」への懐疑は、2008年リーマンショック以降急速に強まってきた。近代科学や近代市場といった近代社会を支えてきた土台が崩れ、時代のパラダイムが大きく転換しようとしている。
■縮小する消費、停滞する経済 → マネー経済の破綻が近づく
近代社会の土台が大きくグラついたため、たとえ震災や原発の問題に一定の方向性が出たところで、消費が回復していくことはないだろう。しかも、これは日本国内だけに留まらない。近代社会を支えてきた近代科学の限界が露呈したことで、過剰な消費が抑制されていく流れは、世界全体に広がっていく。「地産池消型」「自給自足型」の経済やエネルギーが模索されていく。
実体経済が縮小する一方で、各国政府とも景気回復に血眼になる。かと言って抜本的な対策などなく、打てる手は「マネーの増刷」くらいしかない。景気対策のウラで、大量の国債と大量のマネーが積みあがっていく。こうして実体経済が縮小、一方でマネー経済が拡大し、マネー経済は極大まで膨らむだろう。 原発問題→パラダイム転換によって、『マネー経済が破綻する時期』は確実に近づいた。
私たちは、縮小経済を前提に企業戦略などを考えるだけでなく、マネー経済の破裂=近代市場の崩壊を前提に、これからを考えなければいけない時期に来ている。(以上)
〆[科学(の発展が)が全てを解決する」という「近代思想」が音を立てて崩れてい・・]といわれている「近代思想」には思想史的に2っの潮流が存在した。
ロック・ホプッスらの功利主義・小市民的な世俗思想と、カント・ヘーゲル・ニーチェに至るドイツ観念論の流れである。現在の国際金融資本に連結しているのは前者のアングロサクソンの系譜である。
ちなみに、ドイツ観念論の流れは日本文化の深層底流である「禅」を・・今でも指向しておる。
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