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「1207」 原発の避難者の皆さん、子供もつれて自分の家に帰りましょう。もう、大丈夫です。安心してください。と、私は、言い続けるしかない(報告文 10)。 副島隆彦 2011.4.1
副島隆彦です。 今日は、2011年3月31日 午後9時です。
以下の文を書き上げた時には、4月1日の午前2時 になっていました。
以下は、私の福島原発事故の「 報告文 の 10 」となります。
(よしなお君へ。 要所要所に、10枚ぐらい、現場で取った写真を貼り付けてください。お願いします。)
私は、弟子たち6人と、まず28日(月)の朝から、福島第一原発の正面玄関(正面ゲート)を目指しました。郡山で集合して、準備を整えて、朝の10時ごろから動き始めました。 前回の19、20日は、大滝根山(おおたきねやま。原発から30キロ地点。NHKや民放が望遠カメラを設置しているところ。自衛隊の電波通信塔あり。1192メートルの高峰)の南を通って、あぶくま洞という鍾乳洞で有名な土地を通って、川内村(かわうちむら)から、県道36号線を、ひたすら東に向かって、原発を目指しました。
そして、富岡町(とみおかまち)に入って、滝浦(たきうら)大橋という鉄橋の上から、福島第一原発から、8キロのところから、原発を目撃して、写真を撮り、「放射線量は、わずか15マイクロシーベルト毎時(15μSt/h)であるから大丈夫だ。日本国民は救われた。東電と政府の発表している数値は正しい」という第一報を、送りました。
それで、なによりも、福島県の人たちを安心させました。 私にとっては、この事実がい一番、嬉(うれ)しい。
3月28日は、車2台で、7人で、三春町(みはるまち)を通り、大滝根山の北側に当たる、田村市(たむらし)を目指して、県道288号線(都路街道、みやこじかいどう)を使って、東に東に向かいました。田村市のはずれで、原発から30キロ地点あたりで、警察の検問が有りました。そこで、私の名前と住所を伝え書き留められました。「どちらへ」「大熊町に入って、原発に行きます。現地取材です」「そうですか。気を付けて行ってください」という対応だった。
以後、翌日の夜まで、ずっと、私たちは、警察の検問でも、何も聞かれることなく、自由に原発の周囲を移動して、線量測定と、写真撮影、現場のヴィデオ撮影が出来ました。 私、副島隆彦の動きを、自動車のナンバー等で、確認済みなのでしょう。 警察は、「事件性、犯罪性がなければ、国民の行動を制止しない」という基準で動いているようでした。翌29日に、一時、警察の車両が、私たちの後を付いてきたことがありましたが、30キロ圏を離れたら消えました。
原発15キロ地点で、玉の湯温泉(2軒の温泉宿あり)があって、以後、原発調査の前線本部にするなら、ここが一番いい、と分かりました。が、温泉宿は、避難していて誰もいませんでした。県道288号をさらに東進して、11時51分に、大熊町(原発から10キロ)に入りました。
このあと、12時30分に、双葉町(ふたばまち)に入り、双葉バラ園という施設を通過。そのまま双葉町の中心まで向かいました。このあと広野小高(ひろのおだか)線、あるいは、県道391号という道路を通って、そのまま、福島第一原発の正面ゲートまで、行き着いてしまいました。後で分かったことですが、この391号線が、原発の敷地をぐるりと囲んでいる公道だと分かりました。6号線(古代以来の常磐道)の海寄りの内側です。
途中で、なんと、原発の第5号機の姿を、向こうの林の先に、はっきりと見ました。写真に撮りました。「5」という青空色の建屋(たてや)のきれいな建物であることを確認しました。ここは、原発から、わずか、800メートルの距離だということが分かりました。ここで、放射線の線量が、80マイクロシーベルト毎時でした。
この地点から、さらに進んだら、実にあっけなく、正面玄関(正面ゲート?)に出ました。近寄ったら、2名のゲート職員(門番)が、走り出してきて、「何の用ですか。ここから先は入れません。名前を言って下さい」と問いただしました。実に軽装の防護服を着ていました。私は、「現地調査に来ました。日本国民のための報道の自由、言論の自由に依るものです」と言ったら、「駄目です、駄目です」と言われて、中の本部に連絡していました。「写真も撮ってはいけません」と言われましたが、私は、弟子たちに、「いいから、どんどん撮りなさい」と指示を出しました。
そして、線量を計ったら、やはり、ここはさすがに高い。ガイガーカウンターが、初めからガーガー鳴って、550マイクルシーベルト毎時を指しました。そして、860マイクロシーベルト(860μSv/h)の、やや高濃度の値を出しました。私も、すこしびっくりしました。東電の社員や協力会社の作業員たちは、こんな環境で当たり前のように仕事をしているのだ、と思いました。それでも、まだ、マイクロ(μ)の単位です。
私は、これぐらいの数値は、大人の人間なら平気で生きて行けると信じています。
ところが、弟子の六城(ろくじょう)君が、「先生、地面を計ってください」と言って、道路の脇も芝生を計ったら、なんと、すぐに、カウンターの数値が振り切れて、1100マイクロシーベルトを超えて、おそらく、4から5ミリシーベルト毎時の数値を示したでしょう。
そうか。これが、野菜などの農作物にとっての放射能汚染の問題で、深刻なはずだ、と分かりました。 3月11日の原発事故から3週間の間に、地面には、放射能が降って、雨の中にも入っていて、それで、かなりの濃度です。だから、これを一年間の放射線量に、積算すると、8760倍だから、かなりの線量になります。
福島市で、ひどいときには、20マイクロシーベルト毎時(20μSv/h)ですから、これに、24時間かける、365日を掛ける、をすると、一年間で、175ミリシーベルトになります。これが、果たして、子供たちの体にとって、将来、害毒となって、病気の原因となるか、という問題になります。 私、副島隆彦は、「一年間で、1ミリシーベルトが限度」とする、今の放射線量の健康基準は、どうせ、見直さなければならないと、思います。 このことは、また、あとで書きます。
原発の海側の小道は、陥没して、車が落ちていました。原発は標高8メートルのところにあるそうだ。だから15メートルの津波を被(かぶ)ったとして、7メートルの水を被ったことになる。しかし、正面玄関あたりには、海水を被った感じはありませんでした。奥の方に見える建物を弟子たちがどんどん写真に撮りました。 4号機の燃えた感じの建物は、見えませんでした。
あまり長いすると、警察が来るだろうと判断して、南の方へ退去しました。展望台とか、原発学習館のような施設がありました。小学生の頃、ここに来た人はたくさんいるでしょう。 原発から離れるにしたがって、どんどん線量(数値)は落ちます。2キロも離れると、50マイクロ(μ)シーベルト毎時になります。 5キロ地点では、20マイクロシーベルトですから、何の心配もいりません。
と、私、副島隆彦が書くから、皆が、「どうして、素人である、副島隆彦が、勝手に安全宣言などするのか」と、一部の人たちから、非難されるか、疑われているのです。 私は、現場に入って、現地で、自分の体で味わっている。 そして、福島県の人たち、とりわけ、津波被災者と 原発避難者(退避者)たちを、安心させたいのです。
私、副島隆彦は、はっきり書きます。皆さん、どうか、20キロ圏、10キロ圏の中の人でも、数時間なら、大丈夫ですから、ご自分の家に戻って、ご自分の財産や、犬猫、家畜の安否を確認してください。脅(おび)えてばかりいても、何もなりません。50マイクロシーベルト毎時ぐらいの放射線量は、たいしたことはありません。どうぞ、ご自分の家に避難所から戻って、(津波に遭っていなければ、ほとんどの家は)何の損傷もないのですから、しっかりと、自分の家を一度は、調べてください。
警察も、政府も、自宅が心配で帰りたい退避者たちを、止める気はないのです。本当です。あまり、過剰に心配しないで、一度、家に帰ってみてください。現に、帰っている人たちが、いるのです。 それを誰も止めることは出来ないし、道路は、海岸線(6号線から海沿い)の近くでなければ、全く問題はありません。ただし、津波に遭った家々は、悲惨です。あたり一面が、瓦礫の山です。もう、家もなにも有りません。
私、副島隆彦は、あとあと、どんなに非難されてもいいと、覚悟しました。「無責任に、放射能の安全宣言を出した、何の専門性もない、評論家が、危険な発言をした。そのせいで多くの体内被曝(たいないひばく)の患者が生まれた」と、5年後、10年後に、言われて、指弾されても、甘んじて受けると、決めました。私には、核物理学、放射線医療の、何の専門知識もない。それでも、自分の体で感じて分かります。そして、現に自分の家に帰って来ている人たちがいるのです。
問題は、20キロ圏から先30キロまでの、日本政府が、「屋内待避(おくないたいひ)地区」として、のちに「自主退避(自主避難)地区」とした、南相馬市や、広野町(ひろのまち)いわき市の北部の人たちです。 この「屋内待避」の地区は、電気も水道も、すぐに復旧していて、生活に支障はないはずです。私、副島隆彦は、この20から30キロ圏の住民たちは、子供含めて、家に帰るべきだと思います。
そして、さらのその外側の、40キロ圏のひとたちで、他県にまで避難している人たちは、進んで家に帰るべきだと思います。その方が、皆にとって、しあわせです。避難所暮らしの窮屈さと、屈辱と、惨8みじ)めさ、を考えると、自宅に戻った方が、ずっと幸せだ。私は、本気で、そのように思います。 そして、たかが、20マイクロシーベルト毎時ぐらいの線量は、赤ちゃん、幼児、青少年にとっても、将来にわたって問題ないと、私、副島隆彦は、敢て、断言しようと思います。
ただし野菜や農産物は、やはり、今、やっているように、原発30キロ圏のものは、廃棄処分にするべきであり、食べるべきではないでしょう。政府(行政)も、東電も、20キロ圏から外側は、住民に、自宅に帰って来て欲しいと思っているのでしょう。だから、私、副島隆彦という いつもは政府と官僚たちの悪口ばかり書いている人間を、うまく利用して、「絶対に政府と東電の肩を持たない、第3者の立場の人間が、そのように、自宅に帰りなさい。大丈夫です」と、言うことを期待しているのだろう。
私、副島隆彦は、今は、東電や、日本政府までも含めて、世界中から見たら、哀(あわ)れな日本人であり、原発の事故の重要なデータ作りの生体実験のモルモットにされた国民(民族)だと、思っていますから、非常事態ですから、あまり、同じ民族どうして、いがみ合いや、責任の追及をやっている時期ではないと、思うのです。 こういうことを書くと、「東電の責任追及の重大さを忘れた、間違った知識人」として、先々、私は、糾弾されることになるだろう。それでもいい。 私は、もうそういう小心者の考えは捨てました。
東電の歴代幹部たちが、木川田一隆(きかわだかずたか?)から、平岩外四(ひらいわがいし)、荒木(あらき)、那須(なす)、そして、今の勝俣(かつまた)に至るまでが、「裏の財界天皇、電力・エネルギー経済人のドン」として、国民政治まで壟断(ろうだん)して、政権政治家(大物政治家)たちまで操(あやつ)って、自分たちのいいように、原発推進(さらには、プルトニウムの蓄蔵による、核兵器の保有の秘密計画。自分たちでは、民族主義者の愛国派を気取った)してきたことを知っている。さらに元凶は、やはり、正力松太郎(しょうりきまつたろう)であり、中曽根康弘であり、渡邉恒雄(ナベツネ、読売CIAのドン)である。
だが、この者たちでさえ、アメリカのグローバリスト(地球支配主義者)と、ヨーロッパの原発ビジネスの操(あやつ)られ人間の、パペット(マリオネット、傀儡=くぐつ=人形)だ。
今度の、原発巨大事故の大凶事の、本当の原因は、GE(ジー・イー、ジェネラル・エレクトリック)社が作ったのだ。GEこそは、犯罪者である。GEの最高責任者たちを、日本の警察は、逮捕して、日本国で裁判に掛けなければならない。
GE社製 の緊急の炉心冷却の装置(ECCS,イー・シー・シー・エス)が、津波で流されて動かなったのではない。その前の地震の時に、壊れたのだ。だから、予備の緊急の電源盤と、ジーゼル・エンジンとポンプが、地震で、案の定、作動しなかったらから、だから、12日午後3時36分に、1号機が水蒸気爆発して建屋が吹き飛び、14日午前11時1分に、3号機が水蒸気爆発した。この時に、小さな きのこ雲が立ち上(のぼ)った。
続いて15日の午前6時14分に、2号機の圧力抑制室(あつりょくよくせいしつ、サプレッシン・チェンバー)が爆発して損傷して、放射能が漏れた。そして、同じく15日に4号機の使用済核燃料が火災を起こし、米軍の特殊部隊が消し止めたのだが、よく16日に再び出火して、それを自衛隊のヘリコプターが空から水を入れようとしたが、役に立たなかった。それで、2日間の準備をして、18日の午後一時半に、東京消防庁のハイパーレスキュー隊が、1高層建築用の火災用の、200トンの水の水を注入することに成功して、使用済み核燃料のプールの水不測の危機を回避した。この18日の丁度同じ、午後一時半に、私は、南の富岡町で、原発8キロから、原発を望遠して、放射能の測定をした。
すべては、GE社製の 緊急の冷却装置が動かなかったからだ。オンボロの、故障の多い、冷却装置であることを、GE自身が、よく分かっていた。だから、青ざめたGEが、アメリカ政府に、急いで、7代のガス・タービンの冷却用のエンジンを空輸すると、申し出ている。14日のことだっただろう。
アメリカが、自分ですべてを設計して、すべてを日本の送り出し、日本人の技術者たちに手を触れさせないようにして、そして、欠陥であると、分かっていた、緊急用の冷却装置だったのである。この件で、20年ぐらい前に、GEの3人の技術者が、自ら設計したものであることを知っているので、抗議して退職している、という新聞記事がある。あとで示す
日本の日立と東芝(ここは、実質は、GEの子会社なのだ)の技術者たちが、このことで怒り狂っているという。「もっと早い時期に、緊急冷却装置と電源盤を、日本製にすべて取り換えておくべきだったのだ」と、現場をよく知っている技術者たちが、上を突き上げているという。 だから、今度の福島第一原発の凶悪事故では、GEという会社の責任が一番、大きいのだ。これから、このGEの責任を、日本国民は、徹底的に、追及しなければいけないのだ。
それは、1985年8月12日の日航機のジャンボ・ジェット機が御巣鷹山に墜落した事件も、本当は、アメリカ空軍の練習機が、日航のジャンボ機を標的練習にして、誤って、誘導ミサイル(パスワインダー)を発射して、それが日航機の尾翼に当たって、それで錐(きり)もみ状態で、群馬県の山に墜落したのだ。だから日航が悪いのではなかった。
今でも、この原因は、日本国民に伏せられている。これらのことのすべてを、私は、自分の主著の一冊である『属国・日本論』(五月書房、1997年刊)に書いた。今度の原発凶悪事故も、GEというアメリカの巨大な電気会社の、杜撰(ずさん)な緊急用(予備)の、電源と炉心の冷却装置が、欠陥が有るので、作動しないことが分かっていて、それで、大地震で、実際に動かなかったのだ。この一点の事実を軽視したり、他の問題にすり替えたりしたら、すべての原因究明が、またしても、闇に葬られる。私、副島隆彦は、日本の国家戦略家(こっかせんりゃくか)の名にかけて、このGEの大責任を、糾弾し続ける。
だから海江田万里(かいえだばんり)経済産業大臣が、重苦しい感じで、「今回の東電の原発の事故の (原因とは言わず)経緯」を記者会見で、発表している。
(転載貼り付け始め)
「原発の非常用電源確保を=津波対策、各社に指示−福島第1原発事故で・経産省」
2011年3月/30日 20:14 時事通信社
東京電力福島第1原発で、津波により非常用を含むすべての電源が失われ原子炉の冷却ができない事態に陥ったことを受け、海江田万里(かいえだばんり)経済産業相は、30日、原発を保有する電力会社10社と高速増殖炉「もんじゅ」を運転する日本原子力研究開発機構に対し、電源車の配備など緊急安全対策を指示した。4月中旬ごろまでに報告を求める。
会見した海江田経産相は「抜本的な安全対策は引き続き検討するが、最初の一歩として取らなければならない中身だ」と話した。 緊急安全対策は、津波で電源を失っても冷却機能を維持し、放射能の外部放出を防止することが目的。原子炉や使用済み核燃料プールを冷却できるように、非常用電源車の配備や冷却水供給用の消防車、消火ホースを準備するよう求めた。中長期的には、今回の津波の経験を踏まえ、全国の原発で想定すべき津波の高さを見直し、防潮堤の設置などの抜本対策を取る。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。私が、テレビでチラと、この海江田 経産相 の 会見を見た時には、はっきりと、「原発事故の原因」ということで、3つの点を挙げて、説明していた。ひとつめが、やはりこの記事にある通り、「、津波により非常用を含むすべての電源が失われ原子炉の冷却ができない事態に陥ったことを受け」 であった。しかし、実際の会見では、「津波により」とは、言っていなかった。はっきりと、「地震の時に」「非常用を含むすべての電源が失われ原子炉の冷却ができない事態に陥った」と言った。
7メートルの津波が、タービン建屋(発電機がある) というより海に面した建物を通り越しして、4つの原子炉建屋の中にまで、海水が押し寄せたのか、どうか、を私は知りたい。もし、この水が、原子炉建屋の地下にまで入っていたら、その後の 応急の作業は出来なくなったはずなのだ。事実関係を、しっかりと正確に把握しなければならない。
GE(ジェネラル・エレクトリック社)の責任こそは、徹底的に、日本民族の、存亡の危険を受けた、怒りを込めて、これから激しく追及してゆかなければならない。そのために、すべての日本人が団結しなければいけないのだ。 この場面では、日本人どうしが、内部で、あれこれ、小賢しく知識をひけらかしあっての、「自分の発言が、あとで叩(たた)かれないように、という自己保身からの態度」によるものではなくて、もっと、もっと、悲惨な凶悪事の当事者となった怒りを込めて、情報と知識を集めて、知恵を絞らなければならない。私、日本民族は、アメリカとヨーロッパの原発ビジネスの大悪党どもの、モルモット(人体実験)に供されて、自ら、貴重なデータにされたのだ。このことの怒りが、私の中で、怒髪天を衝くものとなっている。 GEと原発人間ども、許すまじ。
地震と津波の天災(自然災害)のせいにして、彼ら、アメリカの原発会社の責任を見逃してはならない。
私と弟子たちは、第一原発を離れて、南に向かった。10キロ南に第二原発がある。ここは富岡町(とみおかまち)である。ここの正面ゲートにも、ずけずけと車で入って行って、制止する門番職員に、「すぐに立ち去りますから」と言いながら、線量を測定した。ここの原発は、すでに安全に冷温停止している。 だから、放射線も、10マイクロシーベルトぐらいしか出ない。全く安全である。 こっちの原発の中の施設に、もしかしたら、東電の幹部たちまでがやってきて、ここの秘密の指令本部を置いているのではないかと、私は感じた。
それから、第二原発に行く前に、すぐ隣の、波打ち際にある JR常磐線(じょうばんせん)の富岡の駅に入った。この駅とその前の商店街、小さな旅館街は、文字通り、全滅していた。きっと多くの人が逃げ遅れて死んだだろう。駅は、富岡町の商店街とは、3キロぐらい離れている海のすぐ傍(そば)だから、きっと風光明媚な駅として名高ったたのだろう。
私は、この駅のあたりの瓦礫の脇にいた、一匹の猫の餌をやって、もう一匹いたのだが、こっちは、近寄って来なかったので、餌だけおいて、そして、一匹の方だけを、連れてきた。今、私のPCの前で、邪魔をしながら、寝込んでいる。メス猫で、雉(きじ)と三毛(みけ)の雑種で、一歳ぐらいだろう。きっと飼い主は死んだだろう。私は、タマと名前を付けた。以後、この「富岡タマ」は、私が死ぬまで一緒に暮らすだろう。
第一原発から、18キロぐらい南に、Jヴィレッジがある。このプロ・サッカー選手たちの大きな合宿施設の中に、私たちは、堂々と車で入り込んでいったが、誰も制止しない。
50台ぐらいの、防衛省(自衛隊)と書いた、大型の朱塗りの電源車とポンプ車がずらりと並んでいた。28日の陽気の中で、自衛隊員たちが、くつろいだ感じで、防護服のまま、練習場の一部で、放射線量の測定をやっていた。あとで、聞いたら、この宿泊施設の部屋には、自衛隊員たちを泊めないで、通路とかに、雑魚寝をさせえているという。どうせ、東電のカネで、出来た大きな施設だろうが、こういう緊急事態の、国民の英雄たちに、対しても、スポーツ業界と言う威張り腐った、人間たちは、芸能人化して、自衛隊を、見下すことをする。Jヴィレッジの経営者どもは、自衛隊員に、きれいな部屋を汚されるのがいやだから、と、はっきり思っただろう。覚えておけよ。Jヴィレッジ、許さん。
そこから、5キロ下ると、久ノ浜で、ここに警察の検問が有って、30キロ地点だ。前回の19日の、決死の突入の時は、ここで阻止されて、原発の南側からは、それ以上は近づけなかった。28日には、逆方向から、私たちが、出てきたのだから、「出るのは自由」だから、警察官たちがいまいましそうな顔をして、車両の中から、私たちは見られていた。おそらく私たちの動きは原発の周辺の警察に見張られている。そんなことは構わない。
久ノ浜から、5キロも下(くだ)ると、目的地の四ッ倉海岸に着いた。この四ッ倉の海岸沿いの家を、私たちの活動拠点として提供してくださる人がいて、それで、この家を探し出した。しかし、6号線の海側で、無残に、津波に襲われていて、とても人が住めるような家ではなかった。ずっと向こうの、さらに海沿いの破壊された家の家財道具と瓦礫(がれき)が、あたり一面に流れ込んでいて、全壊(ぜんかい)地区にすぐに指定されるだろう。だから、私たちの四ッ倉支部の建設と、残留、常駐の計画は、打ち砕かれた。
この四ッ倉は、大きな、広域合併した、いわき市の北のはずれで、海に面している。いわき市は、大きな市だから、さすがに、ようやく道路の瓦礫の撤去作業が始まっていた。ブルドーザーとクレーン車が動き出していた。
私は、学問道場の 活動拠点は、やはり、原発から、5キロ以内の、双葉町(ふたばまち)か、大熊町(おおくまち)か、富岡町(とみおかまち)でなければ、用をたせないと、考えるようになった。 35キロも離れた処から現場の報告は出来ない。
だから、私のこの文を読んでくださる人で、双葉町か大熊町から、避難してきた人で、ご自分の家を使っていい、と言ってくださる人がいたら、お願いします。私たち学問道場に使わせてください。
例の、双葉厚生病院前にも言った。双葉町の役場の前には、翌日の、29日にも言ったので、前回の19日、20日と合わせると、私は、もうなじみの町だ。誰もいない、ゴーストタウンのままだ。「原子力 明るい未来の エネルギー」という大きな鉄製の横断幕がメインストリートにある。「正しい理解で 豊かなくらし」 という 道路を横断している大きな看板もある。
駅のそばだ。きっと、浪江町(なみえまち)と双葉町と、大熊町と、富岡町と、楢葉町(ならはまち)と、広野町(ひろのまち)は、原発から、10キロ、20キロ圏だから、全員が退避してしている。他県に散り散りバラバラになって、あるいは、親戚の家に避難しているのだろう。原発御殿(げんぱつごてん)と呼べそうな立派な家もある。東邦銀行というのが、この原発の町々では、やたらと威張っていて、東電とグルで、原発推進をして来たのだろう。
だから、原発推進で、どっぷりつかったこれらの、町の人々には、いくら避難者だと言っても、内心は、相当に複雑なはずである。私は、これらの町に住みたい。 120から、多くても250マイクロシーベルトマ毎時ぐらいの このあたりの放射能の値には、私は動じない。これぐらいは、毎日、ずっと喰らっても、もう、何ともない。 こう書くと、私は、東電の手先、回し者ように言われるだろう。しかし、そんなことは、構わない。言いたい人が、遠くから言っていればいい。
放射能さえ、やたらと怖がらなければ、実にのどかで、いい所だ。誰―れもいない、というのもいい。何をそんなに恐(こわ)がることがあるだろうか。40歳も越して、もう、余生は、ここでいい、という人は、どんどん、この双葉町、大熊町に棲(す)み付けばいいのだ。 誰か、家を私に貸してくれませんか。原発までは、あとひとつ林をこした向うだ。
一般的な放射能の他に、他の放射性の元素である、ヨウ素131とか、セシウム137とか、ストロンチウム90とか、それから、28日にも盛んに、どこから漏れたのか知れないが、プルトニウムの検出のことで、騒いでいた。他に中性子(ちゅうせいし、ニュートロン)も出たとか言う。本当か。中性子を、無理やり、不活発なウラン238にぶつけて、無理やり核分裂を起こさせたら、プルトニウム(超ウラン)となって、凶悪な放射線を出す、とか言う。
普通の原子炉のウラン235 に比べて、ウラン238(あるいは、ネプツニウム239)は、プルトニウム(ギリシア神話の地獄の悪魔プルトーンから取られた名前)になるとか言う。 これが体内に入ると、ポロニウムα(アルファ)線やら、クリプトン、コバルトβ(ベータ)線などになって、肺や、女性の卵巣や、男の睾丸の精子を、遺伝子を壊すこと江、痛めるとか言う。 私は、そういうことは知らない。
知らないのに、私は、「もう、大丈夫だよ。帰って来て、自分の家に住みなさい」と言う。そのように今も、書いている。この態度を、私は、変えない。誰から何と言われようと、構わない。私は、自分の信念に従うまでだ。
もし、原発の周辺は、危ない、危険だ、体内被曝(たいないひばく)が、恐ろしい、「安全だ、と言った、原子力安全・保安院の西山は、とんでもないやつで、許せない。あの頭は、かつらだ」とか、言っている人間たちは、遠くから、そういうことばかり言っていないで、一度でいいから、現地に来なさい。仕事が忙しいとか、自分は、現地に行く掛ではない、とか言ってないで、来なさい。
特に、核物理学と、放射線医学の 学者、専門家は、今すぐ、事故を起こした原発の周辺に来るべきだ。来て、自分の専門の器具を使って、どんどん、正しい数値を測定すべきだ。自分の主張や、理論の根拠を、東電のものを使っていて、それで、「危険だ、危険だ」と言って、自分が、何か、大変優れた、頭のいい人間のふりをするのはやめなさい。今すぐ来て、あらゆる種類の、精密な数値の測定をやるべきだ。私が、双葉町で待っていてあげます。
誰も止めはしないよ。現地の警察も、消防も、自衛隊も、誰も邪魔はしない。 どんどん入って来なさい。 私たちは、11頭の牛たちが、道路を歩いて、こちらに来て親しそうにするのにも出会った。このまま放置したら、そのうち、この20キロ圏は、野生になった動物たちの王国になるのではないか。 その方がいいかもしれない。 ゴーストタウンのまま、蔓草(つるくさ)が茂って、自然のサンクチュアリになればいい。
日本政府は、このあと、この20キロ圏を、放置するだろう。住民が帰って来て従来通り住まれるのは、困る、だろう。しかし自分の家に帰って来て、住み始める人を、無理やり連れ出すことは出来ない。冷たい体格館で、凍えて死ぬよりは、自宅でのんびりする方がいいに決まっている。 原発の放射能漏れは、もう、止まったのです。あとは、水にと溶けている高濃度の放射性物質(濃度、1シーベルトぐらい。触ると、被曝する)の処理が残っている。 私、副島隆彦が、このように、「もうだいだい、安全だよ。子供は、心配でも、大人は大丈夫だから、帰って来なさい」と言う。
ところが、20キロ圏から内側は、日本政府は、インフラを復旧する気が無いのかもしれない。自分の家財道具を取りに来たり、洋服を着替えに来るぐらいは、すべきである。土壌(つち)は、さっき書いたように、3週間で、最悪、5ミリシーベルトぐらいに放射能汚染されているだろうが、屋内は大丈夫だ。地震と津波でやられていない家が、ほとんだ。
その人たちに、一時、帰宅を認めるべきだと思う。あとで、ベクレル検査をして、はっきりさせればいいだけのことだ。私は、検査してもらって、300ベクレルだった。10000ベクレルから上を、要注意とするようだから、今のところ、一般の避難者で、被曝どころか、衣服が汚染されている人と言うのは、初めの12日の1号機の水素爆発の時に、移動中の作業員たち以外には、いないのではないか。正確には分からない。
20キロから30区キロ圏の、自宅待機地区=自主退避(避難)(つまり、逃げたければ、ご自分の判断で逃げてください)と、政府が指示を出した地区も問題だ。ここは、上下水道他の、生活インフラは大丈夫のはずだ。ここには、逃げないでひっそりと暮らしている老人たちがいる。避難場所の冷たい体育館なんかに、逃げなかった人たちの方が、ひどい目に遭わなくて、良かったと言える。
政府は、この自宅待避地区は、原発の事故の被害をを、農業補償、営業補償はするだろうが、果たして、一般住民の精神的な被害まで補償するだろうか。 20キロ圏の人たちには、別の家を一軒あげるから、納得(合意)するなら、他県で、新しい生活をしてください、という方針だろう。そのために、全部で、2兆円の損害賠償金を、東電は作ったようだ。政府は、地震・津波の被災者の分と、福島県の原発避難民(退避者)に対する 損害補償の分を、合わせて、最低限度の道路とか港湾の復旧費や、仮設住宅の建設費を含めて、20兆円ぐらいを掛けるだろう。
私、副島隆彦としては、原発5キロの双葉町と大熊町のインフラを復旧してほしい。そこに、核物理学者や、放射線医学者や、東電の幹部たちは、原子力安全委員会のメンバーたちと、全員で、住み込みたい。 インフラを復旧してくれないと、住むに住めないのです。サンプリングして、貴重な事故データを、今のうちに集めましょう。テレビで偉そうなこと言っていた、専門家たちは、皆、NHKの解説委員たちも含めて、現地に来なさい。
今も、ここに、住民たちが住んでいるんだぞ! 分かっているのか!
私は、弟子たちと、翌日の3月29日(火)は、朝から、この日も天気が良くてよかったが、今度は、撤退した郡山(こおりやま。原発から西に55キロ。線量は、たったの2マイクロシーベルト毎時。だから、大丈夫なんだって)から、やや北の方の、川俣町(かわまたまち)に向かった。ここで、Yさんという、犬猫と動物を救助して、リリースする運動を、一人でやっている女性と会った。
浪江町と双葉町と大熊町に主に行く。私たちも、このあと、浪江町を目指した。浪江町(原発から20キロ地点)に入ると、11時40分に、125μシーベルト毎時(125μSt/h) のやや高濃度の数値を観測した。ここと、飯館村(いいだてむら)と、その先にある福島市が、一直線に並んでいて、第一原発から北西の方向の、「風の谷」になっている。そのことを、福島市の人たちはよく知っている。
浪江町の駅前で、12時30分に、15,5マイクロシーベルト毎時だった。風向き次第では、少量になる。南に下って、再び、ここから前日に続いて、双葉町に入った。浪江自動車学校あたりで、13時0分に、たったの5.9マイクロシーベルト毎時だった。浪江の町役場で、帰り道で計ったら、15時20分に、15マイクロシーベルトだった。29日にも、原発まで北の方から近づいて、再び、正門近くまで行った。第五号機が見えるところで、再び測定した。70μシーベルト毎時だった。
ここから、双葉海水浴場の方に、原発敷地の北の方に回り込んで、海の到着しようとした。そして、幸運にも、津波で崩れ果てた海岸線に出ることが出来た。そこの断崖、絶壁の上から、今度は、原発まで2キロの地点から、原発の全貌を見ることが出来た。これは感動ものだった。すると、4号機ぐらいから、白い煙が立ち上るのが見えた。それは、うまく写真に撮れた。この北側からの原発展望スポットは、きっと、先々、重要な場所になるだろう。
ここから、引き返していたら、なんと、原発の構内からの、構内放送が、流れてきて、まるで小学校の校内放送のように、「職員は、午後○○時に、第2講堂に集合して下しあ」というアナウンスが、風に流れて聞こえてきた。私たちの目の目の林の向こうは原発の敷地なのだ。私たちは、原発のすぐ周りを、動きまわっていたのである。まるで米軍の基地のような、二重の金網が周囲を取り巻いているから、分かる。
私たちは、このあと、北上して、南相馬市(みなみそうまし)を目指した。ここは、7万人の人口のうちの5万人が避難(退避)している市だ。40キロ圏である。次第に住民が帰って来ているとも聞いた。ところが、海岸線の国道6号をゆくと、小高(おだか)地区から、すぐに、息をのむような、一面の瓦礫の山に出くわす。
海岸線から、内陸に2キロぐらいが、海になっている、というか、地盤が50センチ以上陥没して、2キロ四方が、海になっている。瓦礫だらけの中を進むと、道路が、ひび割れで、進めなくなる。きっと、あの海になってしまった瓦礫の下には、おそらく、多くの遺体が、まだ、収容されないで、そのままになっているだろう。
私たちは、石神(いしがみ)第一小学校に行った。そこで、管理している、もはや、避難民はいない学校の、きっと先生だろう人から、聞いた。「福島県は、まだ、900人しか死者が出ていない。おそらく5千体ぐらいが、今の海の中だろう」とのことだった。
私たちは、夕暮れの中を急いだが、途中で、半壊した自分の家に、洋服を取りに帰って来た住民に会ったりする。消防と警察の車が、飛ばしているのに出会ったが、きっと、別の人が、自分の家の中に、死体を見つけた通報したのだろう。
自衛隊は、40キロ圏である 南相馬市の海岸部で、まだ救援の活動をしているようだが、30キロ圏から中には、入って来ていない。福島県は、原発を中心にして、南北60キロの地区は、全くの手つかずで、何の復旧工事も為されていない。この事実を、私たちは、自分の目で確認した。 このことは重要だ。
私は、3月11日の大地震からの、時系列(じけいれつ、クロノロジカル)で、この大災害の全体像を、自分の脳の中に再現しようとしてずっと考えている。そうすると、どうも、自衛隊が、災害出動で、12日には、海岸線一帯に入ったようだ。そして、波打ち際に打ち寄せている死体をどんどん回収して、そして、瓦礫の中の遺体もほとんどは、収容したようだ。自衛隊の物凄(ものすご)い機動力で、救援活動が続いた。家を流されて、着の身着のままで、逃げてきた、被災者たちは、ものすごく心強かっただろう。道路を応急で復旧した工兵部隊の仕事のあともあるから、そのことはよく分かる。
そして、3日間が過ぎた。ところが、14日の午前11時1分の 例の小さなきのこ雲が上がった、3号機(プルサーマル=MOX燃料、すなわちプルトニウムを燃やしている)の水蒸気爆発は、衝撃的であった。これで自衛隊が動揺した。そして、14日の午後6時5日、北沢防衛長官の命令が出て、原発が非常に危険であるので、自衛隊は、(おそらく会津方面、そして、新潟にまで、西方に200キロの地点まで)退避する」ということになった。
それで、自衛隊が、3日間、一所懸命に、救援活動をしていたのに、原発の周囲40キロ圏からは、一斉に、避難民をほったらかして、現地から逃げて行ったのだ。そのあと、住民たちが、パニックを起こして、それで、14日の夜中に、暗い道を、それぞれ、車で、逃げて行った。そして、ガソリンが切れて、あちこちで止まった。ガソリンの供給は、29日の夜の時点で、主要都市の郡山でようやく、なんとか供給された。ということは、原発の周辺40キロでは、まだまだ、ガソリンがない。 だから、動こうにも動けない。
この14日の午後6時の自衛隊の一斉の退避を、中心に、原発周辺の、避難民たちの行動の全体像を、作って行くべきだろうと、私は考えている。家を流されて、家族も新で、本当に着の身着のままの人と、家は、丈夫なまま、原発の恐怖感だけで、逃げてきた2種類の、避難民はいるのである。 政府は、おそらく、一律で、津波で、全半壊した家については、居住者と一家庭につき、1千万円ぐらいずつ出すと思う。それでも、別荘にして、住んでもいなかった人にはどうするのか。分からない。
保険会社が、どんどん支払いをするだろう。それは、私的な保険契約の履行である。地震保険はあまり掛けてない人が多いだろうが、火災保険が適用になるだろう。だが、それでも、原発の放射能の危険から、逃れてきた人たちは、家が壊れることもなく逃げてきた場合は、一体、どういう 「被災者」になるのだろうか。
原子力事故の災害からの損害賠償は、東電は、1200億円だけで済み、あとは、政府が払うことになっている。原子力災害補償法の規定どおりだとそうなる。政府は、東電を、さっさと国有企業にしてしまうことをしないだろう。なぜなら、全ての責任が、政府に掛かって来るからだ。政府が責任を持つ、ということは、日本国民全部で、責任を負うということだ。
これぐらいの巨大災害になると、東電の経営者や、政府の責任などと、遠くから、言っていれば、それで、自分が「賢明で、正しい人」だなどと、自分でも思わないだろう。こういう場合の法律学の理論の組み立てなら、私はかなりの専門知識がある。原子力物理学の専門家たちには、何も分かるまい。
日本政府は、おそらく、今、住民たちに、なるべく、自分の家が壊れていなければ、家に帰ってもらいたい、と思っているのだ。私、副島隆彦の、冷静な第3者からの言論に、日本政府と、東電が期待しているのだろう。私は、東電と日本政府の 手先でも、彼らからの期待も無いが、それでも、住民の為に、一度は、自分の家に帰って、安心する、ということが大事だと、考える。放射能をそんなに恐れることはありません。
ただ、政府は、10キロ圏の町だけは、さっさと、行政機能ごと、他県に移しつつある。
双葉町は、1400人が、埼玉県のスーパーアリーナを経て、加須(かぞ)市に移った。大熊町は、会津若松市に移った。広野町は、埼玉県の三郷(みさと)市に移った。浪江町は、20キロ圏だから、今からだろう。富岡町がどこに行ったか、私は知らない。楢葉町(ならはまち)は、確か、・・・だった。
その外側に、40キロ圏の飯館村(いいだてむら)から避難した370人を、村長は、「村に帰って来てください。子供たちの学校も始まりますから」という感じだ。南相馬市も同じだ。いわき市も同じだ。 だが、政府と行政は、「(放射能は、もう安全だから)さっさと帰りなさい」が言えない。だから、私、副島隆彦が言う。 敢(あえ)て言う。もう大丈夫だから、自分の家に帰りなさい。そして、暖かい布団で寝なさい。
頭がいいふりをして、いつまでも、なんがだ知らないが、遠くから、「まだ、安全ではない。体内被曝の怖さを知らないのだ。安全だと言っている人間たちは、責任を取れ」と言っている、人たちよ。自分の目と体で、現地を見に来なさい。それから、何か、専門家ぶった偉そうなことを言いなさい。
東京からさえ、関西に 逃げいている、大金持ちたちよ。もう大丈夫だから、帰って来なさい。皆さんが、臆病者だということはよく分かっています。赤坂や松濤(しょうとう、田園調布の超高級の住宅街は、まだ、人影が無くてガランとしているそうだ。大金持ちたちも、戻って来なさい。私、副島隆彦が、大丈夫、というのだから、大丈夫です。
私は、この国の、どんな勢力にも、団体にも、動かされない。私は、自分の判断力を信じています。私の言うことを信じてください。
私に、双葉町、あるいは、大熊町の家を貸してくれる人からの連絡をお待ちします。
私たち、日本人は、もう、高濃度の放射能の拡散と言う、重大な危険の瀬戸際から、救われたのです。私たちは、子供たちも含めて、健康に生きて行けます。安心してください。
福島県の急速な復興の為に、私たち日本人は、力を合わせましょう。
副島隆彦拝
相変わらず散文的な文章であるのだが、μSV単位だと安心する副島氏がmSVだと心配するようになっている。
でも子供も連れて却って安心だと無責任な事を言っているが無責任な事を言っていると避難して良いと言っている副島氏の言うことをすぐには信じない方が賢明である。
今後副島氏の少なくとも科学本や社会学本などは信用されない方がよさそうだ。これからの未来を担う幼児や児童の親に悪影響をもたらす。政治本も私個人は推奨しない
文句はいろいろあるが私も原発とかけ離れた通常の仕事をしているのでくたくただ、この程度でコメントを終了させていただく
。
でも今回の震災に続発する副島氏のスタンスは信用できないし。原発問題について東電と現状の内閣批判ではお粗末である。
しか10代20代前半の学生運動の延長で原発反対を表明したことは私は認めない。
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