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【永田町・霞が関インサイド】「復興庁」の先にあるもの 菅首相は見えているか
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110329/plt1103291549002-n1.htm
2011.03.29
「平成の後藤新平」はいないのか−。
3月11日の東日本大震災は、三陸海岸を中心に岩手、宮城など各県の沿岸部を焦土と化した。最終的に死者の数は3万人に達するという。
さらに、首相官邸と東京電力の初動における対応の遅れもあって、福島第1原子力発電所周辺地域は、住民、農産物、水、土壌まで深刻な放射線汚染の危険にさらされている。
街全体が壊滅した岩手県の釜石、陸前高田市、宮城県の南三陸町、石巻市など被災地では行方不明者の安否確認を優先しているため復旧作業が遅々として進んでいない。
地域再生の道程は険しくて厳しい。それでも、気丈な被災者の中から1日も早い復興をとの心強い声が上がってきている。政府サイドでも、枝野幸男官房長官が22日の記者会見で、複数省庁にまたがる復興政策を統括する「復興庁」(仮称)を創設することを示唆した。
95年1月の阪神・淡路大震災時には、阪神・淡路復興委員会(下河辺淳委員長)が設置された。そして、当時の小渕恵三自民党副総裁と小沢一郎新進党幹事長の2人が党派を超えて「危機管理のプロ」後藤田正晴元副総理のもとに日参し、同委員会最高顧問に迎えた。
さて、ここで紹介したいのは、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災時のことである。台湾総督府民政長官、鉄道院総裁、東京市長を歴任、当時、山本権兵衛政権の内相だった後藤新平が帝都復興院を設置、自ら総裁を兼務した。
若手内務官僚だった後藤は明治25年、明治の元勲・大山巌元帥の参謀として知られる児玉源太郎陸軍省軍務局長(当時)にその才を見いだされ、若くして内務省衛生局長に抜擢された。
その後藤が最初に行ったことは、内務省、鉄道省、東京市、大阪港湾局、東京帝国大学などから有為の人材を集め、帝都復興院の要路に配したことだ。大阪市港湾部長を三段跳び人事で同院技監に引き上げるなど、人事任命権者として適材適所の見本を示した。
「大風呂敷」といった批判もあったが、後藤新平は策定した帝都復興計画の中に欧米最新の都市計画を採り入れた。今日の東京の内堀通り、昭和通り、靖国通り、環状線など都心・下町のほとんどの街路はこの復興事業によって整備されたのだ。
復興庁設置もいいだろう。問題は、国家指導者である菅直人首相の歴史的(長期的)見通しがそこに込められるのかどうかである。でないと国家百年の大計を誤る。(ジャーナリスト・歳川隆雄)
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