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私はつい空想してしまう。
今後、東日本が数十年汚染され続けることに間違いはないだろう。
もちろん、福島の原発周辺は50キロ、80キロ立ち入り禁止になるだろう。
住民が立ち退き、チェルノブイリ周辺のような廃墟を形成するだろう。
道は間もなく草で覆われ、空き家は木々が繁茂し、小鳥があちこちで囀る「人のいない楽園」と化すだろう。
退去区域のすぐ外側の危険地域には土地を捨てきれない老人たちー愛すべきつつましやかな自然農法従事者達ーが、一定数とどまり続けるだろう。
若者、女性、子供は関西以南に逃げるか、国外に難民として退避するだろう。
彼らは真の意味で「原発ジプシー」となって、ロマのように世界各地を転々とするだろう。
あのユダヤ人のように、故郷を失って、それでも新天地を探し続けるだろう。
それは、また苦難の旅のはじまりであろう。
そうならないために、そうさせないために、一体、いま何をすべきか?
今回の事故で、大なり小なり、膨大な数の人々が「被曝」しているが、またそれらはこれからも継続し続ける事象であるが、「被曝手帳」なぞは国からは一切期待できないだろう。
これは単に原発や震災などというレベルの話ではないのだということが分かる。一部の者の利権のために、必要もない原発があちこちで建設され、それを御用学者がフォローし、最後は政府が隠ぺいするという仕組みである。官僚、議員、政府、メーカー、マスメディアが一つどもえになって、国民を欺き続けてた歴史が、すなわち「日本」なのだ。そして、罪もない現地民が誘致のバラマキで口封じされるという仕組み。何もこれは、原発に限ったことではない。トヨタなどの大企業にも、道路ビルの建設のゼネコンにも、「都市国家」を形作る巨大資本らは利権というもので動いている。つまり「金」なのだ。そういう仕組みが、いま未曾有の災害によって綻びの中から、誰にでもよくみえるようになっているわけだ。
しかしこれらは時代とともに姿形は変わっていくものだ。第二次大戦中は、それが大本営(やはり、利権がからんでいたろう)であり、明治維新も江戸幕府もやはり何かの利権が絡んではいたろう。常に為政者は民を欺き続けてきたのだ。戦後、平和の名のもとにそれが巧妙化し、腹黒いまでに本格化したのだ。そして、いま経済発展という幻想のツケを払うときが来たのだ。
私は考える。もはや国など必要ないのではないか、と。私はそういうことを、これまでずっと考え続けてきた。しかし、そういう考えは別に目新しいものではないのだ。ジョンレノンはそれをユートピアとして言ったのではない。彼の考えをユートピアにしてしまった我々がいけないのだ。
NPOなどが初めてできたときも、あるいは60年代の安保闘争や米国のフラワーブームも「初めは」同じ理念に支えられていたのだ。しかし、それらの火は知らずに細くなり、あるいは挿げ替えられ、本当の火は、ついには「かき消され」てしまった。
いったい、どうしてだろう?体制というものが撒く「エサ」に愚にも私たちは飛びついてしまった。「終身雇用」や「生涯補償」、あるいは「楽で便利で安易な生活」という束の間の安易さに負けてしまった。元来生きるということは、土の上に立つことではないのか。もういちど、取り戻さねばならない。私たちの身体を。
後先考えぬ経済発展の幻想のツケの津波の第一陣がいま、「原発人災」という形で襲ってきた。その時、利権の中で身動きとれなくなっていた政府は国民に何もしてやれなかったというだけの話だ。東電や原子力保安委員会や、しきりに「安心」としか言わぬ御用学者どもは、みなそのカラクリの歯車の一つに過ぎぬのだ。そいつらに対して、罵詈雑言をいったい幾ら言ってみたところで、空しくなるだけじゃないか。
いま、私達がしなければならない事、それは脱国家の流れを作り出すことではないか。そのいい機会を今回の災害が与えてくれたのだ。しかし、もはや今は「革命」の血生臭い時代ではないのだ。だから、カストロのようなことはできないであろう。そのかわり、もっと、真に有効なことができる。それは、私たち一人一人の意識の持ちようにかかっているのだ。
「人はそう想うだけで世界を変えることができる」
違うかね?
山を動かすことの出来たキリストのように。
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