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今の日本に横溢しているのは、既存の政党政治に対する絶望と、強力な指導者への待望である。2月6日の名古屋市、愛知県における選挙、住民投票の結果は、代表民主主義に対する欲求不満を物語っている。また、菅政権に対する支持が極めて低いことも、首相の指導力の欠如、民主党が政党の体をなしていなことなどへの不満の表現である。逆に河村たかし名古屋市長や橋下徹大阪府知事への期待が極めて大きいことは、これらの首長が既成政治家という敵と果敢に闘っているように見えているからである。
民主主義を指導者選出のための競争の仕組みと考えるならば、日本国民の政治に対する態度は主権者らしいものと言えるかもしれない。もっとも、偽指導者を排除するための眼力を自ら身につけようとしない点で、主権者としては失格だともいえるが。
それよりも大きな問題は、民主主義を指導者選出の仕組みと考えることが適切かどうかである。民主主義とは、本来デモス(民衆)の支配という意味であり、治者と被治者の同一性という原理から出発しているはずである。ならば、被治者として支配者を選ぶことだけに満足するならば、民主主義の半面しか実践していないことになる。そのような考え方では、民主政治は指導者が人気を競う市場ということになってしまう。
折しも、アラブ世界で市民の決起による体制変革が相次いでいる。それらの光景を見れば、民主主義の原点がどこにあるかを思い出すことができる。もちろん、日本のように民主主義が制度化されて数十年もたった国では、民主主義とは主として選挙や議会に存在することとなる。それにしても、政治の根源はあくまで人々の意思にあることは、制度化以前と以後で変わりはない。
所詮、指導者は被治者の反映である。受動的に、魅力的に見える指導者の出現を待ち望む国民の前には、魅力的に見せることの上手な指導者が現れる。それが政治における市場原理である。人々が指導者の力量を詮索する能力を持たないならば、魅力的に見せることだけが指導者を選ぶ基準になる。だから、テレビのバラエティ番組で訓練を受けた人物が圧倒的な人気を集める結果になる。
民主政治を自治と考えるならば、指導者には異なった資質が求められる。公共的課題を見据え、的確な解決策を提示し、それに対する支持を集めるための説得能力を持たなければ指導者は務まらない。市民税10%減税を売り物にし、それに疑問を唱える市議会を解散に追い込むような市長を私が偽指導者と呼ぶ理由は、本誌の読者ならば容易に理解されると思う。
自治と言っても、そんなに難しい話ではない。サウンドバイト(断片的な言葉)に飛びつかないこと。ある政策が自分にとって得かどうか少し時間をかけて考えること。それができるだけでも自治は前進する。
人々がよい指導者の出現をただ待つだけならば、何度政権交代を起こしても、欲求不満が解消されることはない。4月の統一地方選挙は、多少能動的に選挙に参加することを試みるチャンスである。
社会運動372号(2011年3月15日)
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