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よみがえる「天譴論」〜石原天罰発言の超克(Kousyoublog)
2011.03.14 Monday23:06
石原慎太郎都知事が今回の東北関東大震災における津波被害を
天罰と言ったと報道されている。
大正十二年(一九二三)に関東地方を襲ったマグニチュード7.9の大地震「関東大震災」後にも、関東大震災が天罰であったという「天譴論」が蔓延した。
WEB上で読める東京大学仲田誠氏の論文「災害と日本人−「心理的現象」としての自然災害−」によると元々「天譴」とは奈良・平安時代にすでにみられる儒教思想に基づいた「為政者に対するる天の譴責」というものだったが、関東大震災後のそれは「浮かれすぎ,堕落した人々を懲らしめ,あるいは目をさまさせんがために天が地震を起こした」という趣旨の、いわば社会に対する戒めであるという説に変わっていたという。
「災害と日本人−「心理的現象」としての自然災害−」
「天譴論」の本質は,災害の発生理由に関する原因論である。しかしこの原因論は反省と自戒を含めた自罰的気分が純粋な物理化学的現象の中に混入しているという点で,著しく合理性を欠いたものとなっている。「天譴論」の中味に強い自己反省の意識が含まれているのは確かであっても、そのことは、「天譴論」の持つ本質的非合理性をほんの少しでも薄めるものではないのである。
この「天譴論」と「天譴論」の思想的バックボーンとなる厭世的な諦観を関東大震災で被災した内村鑑三、北原白秋、芥川龍之介、武者小路実篤、和辻哲郎、寺田寅彦、正宗白鳥・・・といった錚々たる知識人たちがこぞって主張し、そして諦め、無常観が社会全体を覆っていった。
まとめに代えて−「ラジオ」と「天譴論」という補助線
いうまでもなく地震それ自体は自然災害であったにもかかわらず、それは都市文化の軽佻浮薄への天譴、すなわち天罰だったのだという道徳倫理の強制が、公共の思想・言論の世界に現れる。そこにおいては、〈共〉のダイナミズムをどこかで支えていたはずの〈私〉のエネルギーは、「浮華放埒」のもとに全否定されて、〈公〉の規範として「質実剛健の美風」がイデオロギー化されていく。
天罰であった、という諦観は様々な社会状況と複雑に絡み合いながら、精神的な側面から民間の活力を奪い、町内会レベルにまで浸透して市民社会の硬化現象をもたらした。それはやがて緩慢な「公共性」の解体、と画一化した翼賛体制を準備し、そして史上最大の悲劇へと日本社会を転落させていくことになるのである。
仲田論文で昭和56年9月19日〜24日に男女800名に対して行われた『災害観に関する意識調査』の調査結果も紹介されている。
「大正12年、関東大震災が発生し、大きな被害が出ました。この災害の直後に、『災害が発生したのは、世の中が堕落し、人々が浮かれすぎたからだ。天がこれをこらしめるために,地震が起ったのだ』という意見が一時広まりましたが,あなたご自身としてはこのような『天がこらしめのために災害をおこす』という意見について,どう思いますか」という問いに対して以下の結果があったという。
1.全くばかげた意見であり,共感できない 53.4%(329人)
2.ややばかげてはいるが,一部共感できる部分もある 34.6(217)
3.かなりの程度共感できる 8.1(51)
4.全面的に共感できる 1.6(10)
5.DK・NA 3.3(21)
共感できないとした人53.4%に対してかなりまたは全面的に共感できるとした人は9.7%と少なくない割合の人が「天譴論」への共感を示している。またほかの調査結果などを総合していくと、災害に関して運命論的な見方をする傾向が強く見られ、そのような消極的な災害観の人たちが「天譴論」に傾倒する傾向が強い、つまり「無常観」と「天譴論」は相関関係にあるという。
災害と日本人−「心理的現象」としての自然災害−
(1)日本人は自然災書に対して特定のイメージ,観念を持ち,災害に直面した場合に,独特の心理的・精神的反応を示す傾向がある。これらのイメージ・観念,あるいは反応は,「非合理的」,「運命論的」,といったことぱで形容できるものであり,また,「無力感」,「あきらめ」,「はかなさ」,といった心理的基調を持つものである。
(2)日本人と自然災害との関係の土台,日本的災害観の基盤には,日本人固有の人生観・世界観が存在する。日本人の目に映っている自然災害の姿は,「もののあわれ」,「無常観」,「消極的運命観」等々の人生観・世界観というフィルター越しにながめられた像である。
今回の石原都知事の発言は本人が天罰だと思うのは勝手だが、それを都知事という公的な地位にある人が口にしたとき、被災者に対する冒涜という以上に、日本社会全体に広がる「無常観」的な災害観と強力にリンクしやすく、人に「諦め」を誘う。ひいては民間の活力を奪い、災害に立ち向かおうという積極的な意思を阻害してしまうという悪影響を及ぼしてしまいかねない、非常に危険な発言である。リーダーが決して口にしてはいけない最悪の言葉だ。
そして、上記の「天譴論」後の歴史を振り返ってみればわかるように、個人が前を向いて歩こうとする力が奪われた、まさにその時、この国は滅びたのである。歴史の失敗を繰り返してはならない。
奇しくも蓮舫大臣との会談と、その後の出馬会見がその発言の場となったわけだが、まさにこの天罰発言によって、次の都知事選挙は前進か停滞かという選択選挙であるという側面を強く象徴することになった。"石原慎太郎候補"は自らの発言で、「自らの意志で前進する都民の前に立ちはだかる壁」であることを選んだのである。
http://kousyoublog.jp/?eid=2569
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