08. 2011年3月13日 09:45:39: 4nOPvvqNmY
暴れる波、日常無残 東日本大震災 津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町志津川の中心部。人、物の動きはない=12日午前11時20分ごろ 釜石市内は津波に破壊された家屋の残骸で埋まっていた=12日午前6時45分ごろ ◎宮城・南三陸志津川/家々跡形もなく 朝日を浴びたがれきの山に目を疑った。登米市と宮城県南三陸町を結ぶ国道398号から12日午前7時、津波で壊滅的な被害を受けた同町志津川の小森地区に入った。 志津川湾は南東に約2キロの距離。山間に住宅が点在するのどかな地区のはずだった。 家々を支えていた建材はバラバラに折り重なり、トラックや泥だらけのトラクター、大破した漁船が縦横に打ち上げられている。 旧志津川町の中心部にあった美容院の三角屋根はここまで1キロ以上、運ばれてきた。地元建設会社の資材置き場も柱ごと数百メートル押し流された。 南三陸町の建設業西城孝一さん(57)は、小森に住む親戚の安否確認に訪れた。「家は跡形もなかった。もう駄目だ」 中心部に着いて、避難所から自宅の様子を見に行く人が少ないことに気付いた。難を逃れた人々は前日、避難した高台で元の場所には何一つ残っていないことを見届けてしまったからだろうか。 志津川の防災計画はチリ地震津波(1960年)を基準に組み立てられていた。旧町役場は崩壊し、災害時に「司令塔」となるはずの総合防災庁舎は赤い鉄骨だけになった。町職員らによると、佐藤仁町長の安否が不明になっている。 屋上に避難した患者らの一部が12日、ヘリコプターで救出された公立志津川病院(5階建て)も「本来は4階部分に患者を避難させるマニュアルだった」(医療スタッフ)という。 ヘリで救出されたのは人工透析が必要だったり、病状が重かったりした人たち。自力で動ける患者は、看護師らに付き添われ、徒歩で避難所や高齢者施設に移動した。 「まったく動けない患者さんたちは、流されてしまった」(同)。想定を超えた津波の威力がもたらした惨事だ。 町職員西城彰さん(59)は津波で父を亡くした。「遺体があるだけでも、まだいい方だ」。声を詰まらせた。 (斎藤秀之、柏葉竜) ◎釜石/目の前で妻消える 海岸から200メートル、釜石市只越町の高台から市街を見た。鉄骨以外の建物は基礎だけを残し、そっくりと無くなっている。がれきと泥水に覆われている。 12日午前7時半、波が引いた。「津波が来るぞー」。消防署員らがハンドマイクで叫んで回った。 自宅で被災した小川誠也さん(83)は、目の前で妻の静子さん(80)を津波にさらわれた。11日午後、地震のわずか3分後だった。2階にいた小川さんは、1階の静子さんに「上がれ!」と声をかけたが、すぐに波が1階天井まで押し寄せた。「あー」と声を上げたまま、静子さんの姿が消えた。 土橋梅蔵さん(76)は外に出て近所の様子を見ていた。急襲した津波にのまれた。隣家の雨どいにつかまった。必死に約1時間耐え、消防団に救出された。「寒くて大変だった。命があってよかった」。疲れた表情で語った。 12日午後4時すぎ。がれきの中で生存が確認された女性(77)が、布に包まれて避難所に運ばれた。「もうちょっとだ。頑張れ」。自衛隊員が励ました。 (山形泰史、酒井原雄平、道下寛子) ◎貨物列車脱線横転/宮城・亘理 津波に見舞われた宮城県亘理町も12日、被害の実態が明らかになった。大きな塊となった水は海岸線から5キロ以上内陸に入り、JR常磐線の線路付近まで到達した。 山下駅北側では3両編成の貨物列車が津波に巻き込まれ、2両が脱線、横転した。先頭車両にいた乗員1人は避難し無事だった。 スーパーやドラッグストアなどの郊外店が並ぶ一帯は津波襲来から丸1日が経過しても水浸しのまま。駐車場には、衝突事故を起こしたように壊れた車両が何台も止められていた。 (佐々木篤) ◎宮城沿岸/猛炎、幾筋もの白煙/陸自ヘリ同乗校庭に「SOS」も 黒い濁流は街の全てを丸ごと奪い去っていた。被災地を視察する陸上自衛隊東北方面総監部の多用途ヘリコプター「UHー1」に12日午後、同乗した。仙台市東部から南三陸町志津川までの宮城県沿岸を上空から見た。そこには、あらがいようのない大津波の猛威が広がっていた。 霞目飛行場(仙台市若林区)から飛ぶと、まず目に入ったのは水浸しになった同区の荒浜地区。海岸線はまだかなり先だ。飲み込まれた民家は、乗用車や雑木などと一緒に水面に浮いている。 猛烈な炎に包まれていたのは、仙台塩釜港の石油コンビナート。周囲の青空と、もうもうと噴き上がる黒煙のコントラストが不気味に感じた。 石巻市付近。津波の濁流は、民家が身を寄せ合うように並ぶ入り江の奥深くまで達していた。陸に乗り上げたり、横倒しになったりした船はまるでおもちゃのようだ。市街地は一面水没し、傾いた民家や幾筋もの白煙が見えた。 志津川上空。穏やかだった港町は泥水に漬かり、人の姿が見えない廃虚になっていた。 「SOS」。高台の志津川中の校庭には、助けを求める白文字が描かれていた。校舎内に人が取り残されているという。 別のビルでは、海上自衛隊のヘリが屋上から避難民をつり上げて救助していた。「一刻も早く救出を」。ひたすら願うしかなかった。 (成田浩二) ◎仙台港/車200台以上横転 12日早朝、仙台市宮城野区の仙台港周辺は一面、海砂で覆われていた。港湾道路は200台以上の乗用車が横転し、津波の猛威の跡が生々しく残る。 車を運転していて流されたという塩釜市の会社員根本松二さん(58)は「もう駄目だと思ったが、樹木に引っかかって何とか助かった」と話す。根本さんの後ろにいたトラックは横倒しになったという。 運転席を見ると、男性がフロントガラスに体を押しつけるようにして亡くなっていた。 高砂埠頭(ふとう)に向けて歩く。自衛隊員がけが人を担架で搬送していた。6人がかりで車の残骸を乗り越える。「頑張って」「もう少しですからね」。懸命の搬送作業が続いた。 高台に上ると、埠頭ではコンテナが崩れ落ち、沖に流されていた。その向こうでは石油化学コンビナートが黒煙を上げて燃え続けている。 夜明けを待っていたトラックの運転手は、工場が爆発した瞬間を見た。 「7、8回爆発し、地響きのようだった。空が真っ赤に染まっていた」 (神田一道、加藤健太郎) ◎ダム決壊5棟流出/須賀川 須賀川市にある農業かんがい用の藤沼ダムが11日、決壊した。流域の家屋5棟が流され、8人が行方不明に。12日午後3時までに4人の遺体が見つかった。 決壊は地震直後だったという。泥流が流域の家屋や田畑を襲った。流されなかった住宅も流木に壁を打ち抜かれたり、泥流で家具が押し流されたりする被害に遭った。 ダムの約1キロ下流に住む農業小川祐治さん(68)は「ガラガラガラと変な音がして自宅を出た。大木が一気に流れてきた。恐ろしかった」と振り返った。 自宅の床上が泥水で浸水した無職男性(48)は「鉄砲水が来たので110番した。いくら巨大地震といってもダムが弱かったのでは」と話した。 藤沼ダムは1949年完成した。えん堤は高さ18.5メートル、長さ110メートルで貯水量は150万立方メートル。土の堤の一部をコンクリートで補強していたという。 (片桐大介) ◎孤立島民離島脱出/宮城・女川 宮城県女川町の離島、出島で孤立していた島民が12日、自衛隊の大型ヘリコプターで次々に島を脱出した。女川町の本土から約300メートルの島。島民によると、津波に襲われた当時、島内には約400人が残されていたという。 ヘリコプターで、妻(76)とともに石巻市内に降り立った庄子明さん(77)は「海沿いに住んでいたが、津波で家など全てを失った」とうなだれた。 庄子さん夫妻は島で2人暮らし。地震直後、着の身着のままで自宅近くの寺に逃げ込んだ。避難したほかの仲間から防寒着を借り、厳寒の一夜を過ごした。 島民らは島の小学校で炊き出しをして、ラジオを聞きながら励まし合ったという。庄子さんは「家屋の下敷きになったり、津波に流されたりした人もいた。恐ろしかった」と声を震わせた。 須田京子さん(54)は、夫と息子が船乗りで不在で、孫の小学6年弘喜君(12)と被害に遭った。津波で家が水浸しとなり、一晩、知人宅に世話になった。「地域の十数人が命を落としたようだ」と、こわばった表情で語った。 (田柳暁) 2011年03月13日日曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110313t73014.htm
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