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http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2010/04/post_215.html
政治家の説明責任
「政治家には説明責任がある」と言う人たちがいる。これも「利益誘導は汚れた政治」と同じで、官僚政治に洗脳され、信じ込まされた「もっともらしい嘘」である。政治家は本人が「説明する必要がある」と判断した事を説明すれば良いのであり、何でも説明しなければならない「責任」などない。選挙の洗礼を受ける政治家には「ノーコメント」を言う自由がある。
リクルート事件の時、国会で最大の焦点となったのは疑惑の中心にいた中曽根康弘前総理(当時)の証人喚問だった。野党は予算を人質にして竹下政権に証人喚問の実現を強く迫った。国会で虚偽の証言をすれば議院証言法違反で刑事訴追される可能性がある。従って質問をする方は虚偽の答弁を引き出そうと手ぐすねを引いている。公開で行われる証人喚問には相当のプレッシャーがかかる。中曽根氏は頑として喚問に応じなかった。
窮地に陥った竹下政権は議院証言法の改正を行った。ロッキード事件やグラマン事件の証人喚問の際、プレッシャーのため手が震えて自分の名前を署名できない証人の姿がテレビカメラに映し出されていた。その点を取り上げて人権的配慮を名目に証人喚問のテレビ映像を静止画にしたのである。そうする事で中曽根氏に喚問に応ずるよう促した。この法改正によって日本ではしばらくの間、国会の証人喚問は静止画になり音声だけが流れる奇妙な放送となった。
当時アメリカ議会の審議映像を日本に紹介する仕事をしていた私は、自民党議員からアメリカ議会の証人喚問について質問された。アメリカでは、証人喚問を公開するか非公開かを決めるのは証人自身である。証人が公開を望まなければ非公開になる。法律で公開を強制することはない。それが人権的配慮である。しかし公的な立場にある者が非公開を望めば国民に「クロ」の心証を抱かせる。特に政治家は選挙の洗礼を受けるから選挙に不利になる。従って公開するのを望む者が多い。
しかし政治家が公開を拒む事もあり得る。非公開となればメディアは一切取材できない。映像は流れないが音声は流れるなどという中途半端ではない。国民には非公開の事実が分かるだけで内容は公表されない。しかし与野党の議員が証人喚問するので、国民の代表がしっかり見届けた事になり、証言内容は重い意味を持つ。つまり民主主義にとって不都合はない。
私の説明を聞いた自民党議員は「合理的だな」と感想を述べたが、日本の仕組みはそうはならなかった。法律で静止画と決められ、再び法改正があって動画に戻った。肝心の証人の意思は全く無視である。この国で「メディアに取材させない」などと言ったら、「国民の知る権利を妨害するのか」とか「民主主義に反する」とか言ってメディアが怒り狂うだろう。この国ではメディアは権力であり取材規制は出来ない。しかし成熟した世界ではメディアに取材させないのも民主主義にとって重要なのである。そして政治家には日本のような「説明責任」は求められていない。
経営方針を決める会議をガラス張りにするような企業はすぐ潰れるに違いない。ライバル会社に手の内を知られたら競争に勝てない。仮に従業員がどんなに透明な経営を求めても、むしろ従業員を守るため、経営陣は表に出す情報と出せない情報を識別し、タイミングを図りながら公開していく。そこを間違うと命取りになる。企業には企業秘密がつきものである。
国家の経営は企業のそれより遙かに複雑で競争も熾烈である。どんな政策を実現するにも、国の内外の至る所に敵がいる。敵は味方のような顔をして近づき、手の内を探り、手の内を知ると、包囲網を構築して潰しにかかってくる。従って政治家には味方のような顔をする敵を探り出す必要があり、そのため言を左右に炙り出しをかけ、最後の最後まで誰にも手の内は明かさない。政治こそ秘密が強力な武器になる。
企業が株式会社なら最高決定機関は株主総会である。株主の一票によって企業の経営方針が左右される。何故なら株主から預かった資金によって企業は運営されているからである。企業秘密があると言っても、株主から預かった金の使い道について株主に秘密にする事は許されない。経営者は株主に「説明する責任」が求められる。これがアカウンタビリティ、すなわち「説明責任」である。
国家も同様である。国民から税金を預かった政府は、税金の使い道について機密費を除けば秘密にする事は許されない。税金は各役所に配分されるから各役所が説明する責任を負う。国家の最高決定機関は国会だから、国会の求めに応じて各役所は使い道を全て明らかにしなければならない。それが政治の世界のアカウンタビリティ、「説明責任」である。そもそもは70年代のアメリカで、行政府が主権者国民に対して負わなければならない責任として導入された。
その言葉が輸入されると日本の官僚は得意のすり替えを行った。官僚のお先棒担ぎで検察と二人三脚のメディアが広めるものだから、税金の使い道より政治家の倫理や道義の「説明」にすり替えられた。検察が政界捜査を始めると、メディアは早々に政治家の「説明責任」を求める。するとそれに立法府が反応する。捜査はいずれ司法の問題になるから、司法の場で処理するのが世界の常識だが、この国はそうはならない。
国民生活をいかに向上させるかを議論する立法府が、そうした議論を全てなげうち、ひたすら政治家の道義的倫理的な「説明責任」を求めるのである。国家の経済が順風満帆ならいざ知らず、世界がみな経済の行方に真剣に取り組んでいる時、この国だけはすり替えられた「説明責任」にとりつかれ、証人喚問だとか、政治倫理審査会を開けという話になる。
官僚ではなく「政治家の説明責任」を叫ぶことが民主主義だと思っている政治家やメディアには呆れかえるしかない。この国の経済の舵取りに責任を持っているのは与党だけではない。野党にも同様の責任がある。政治家は司法の問題は司法に任せ、本来の自分たちの仕事に精励し、「説明責任」は行政府の官僚に求めるべきだと思うが、それをやらない。どうも「民主主義」とか「改革」を叫ぶ者ほど、官僚のマインドコントロールにどっぷりと浸かって官僚に利用されているのが今の日本である。
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