04. 2011年2月28日 23:39:20: FmB0JlnSpg
自分に相容れないものは、すべてユダヤ、ICAの手先、し●ぶ中、在日朝鮮人のレッテル張り。これでは会話も議論も何もあったものではない。正気の沙汰ではありません。他人の重箱の隅をつつく暇があるなら、独●党が、独自の小沢支援のデモをやった上で、他のかたがたが必死になって取り組んでいるデモを非難されるべきだと思います。これだけえらそうなことを言うならば、本当に一度独●党独自のデモをやって御覧なさい。自らは、高みの見物、何も一切行動しないで、ただただネットで他人の住所を写真で掲載するは、誹謗中傷の汚い言葉を浴びせる、人間として最低だと思います。倒錯、幻想の世界にさまよっている病人としか思えません。 「偽装国士、小沢済州島一郎の化けの皮」について(コシミズブログ) http://richardkoshimizu.at.webry.info/200712/article_26.html (小沢センセイの)生い立ち 東京市下谷区(現:東京都台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった父・小沢佐重喜(オザワサエキ)、母・みちの長男として生まれる。その父の佐重喜が、56歳の時の子供。本籍地は岩手県水沢市(現:奥州市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育つ。 小沢佐重喜は、夜叉の異名を持つ、浅草の香具師。北朝鮮の満州派]の潜入工作員。戦後、岩手方面に進駐した朝聯の指導者。 母の日本通名荒木みちの墓は、韓国済州島。こちらは、南朝鮮労働党の残党。そして、小沢一郎の戸籍は、浅草の泥棒市で入手されたとの疑い、あり。 水沢市立東水沢中学校二年次に文京区立第六中学校に転校し、東京都立小石川高等学校卒業後、弁護士になるため東京大学を目指して2浪したが断念して(2浪目に京大受験説がある)、慶應義塾大学経済学部に入学する。 ★リチャードのコメント:ま、与党も野党も全部、済州島ってことかもね、やっぱり。アメリカも、共和民主どっちも、隠れユダヤであるし。同じ手口かな。 「小沢佐重喜は、夜叉の異名を持つ、浅草の香具師。北朝鮮の満州派]の潜入工作員。戦後、岩手方面に進駐した朝聯の指導者。母の日本通名荒木みちの墓は、韓国済州島。こちらは、南朝鮮労働党の残党。そして、小沢一郎の戸籍は、浅草の泥棒市で入手されたとの疑い、あり。」 出典も示さずにこういうことを書く人間は、コシミズさんに限らず、一切信用できません。 母・荒木みちの墓が済州島にあるという証拠は? みちは、元千葉県会議員荒木儀助の四女です。 長くなるが引用しましょう。 母・みち(元千葉県会議員荒木儀助の四女) : 奥野修司の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁には「みちは明治三十四年二月十五日に千葉県の元庄屋の娘として生まれている。実家はかなりの豪農で生まれたときからお嬢様として育てられたという。九段の精華高等女学校では、のちの鹿島建設会長夫人になる鹿島卯女も同窓だった。」 : 85頁には「このみちは明治三十四年に荒木儀助と妻かのの四女として千葉県東葛飾郡風早村で生まれているが生家は“駅からよその土地を踏まずに家まで帰ることができた”といわれるほどの大地主だったようだ。父親の儀助も千葉県の県会議員になっているほどだからかなり裕福だったことは推測できる。両親はともに教育熱心だった。のちに医者や弁護士になっている家族もたくさんいて、みち自身も東京九段の精華高等女学校を卒業しているほどである。このときのみちの同級生が、のちの鹿島建設会長夫人鹿島卯女である。のちにゼネコン汚職が政界に吹き荒れたとき、鹿島建設から一郎に五百万円の献金が渡っていたことが明らかになるが、他のゼネコンとは違い、小沢家と鹿島家との付き合いはまさにこのときに遡るともいえる。弁護士とはいえ、このときの小沢家は荒木家にくらべれば不釣り合いな生活環境である。二人が出会うのは奇遇としかいえないが、しかし、みちと佐重喜は見合いを通して結ばれる。父親の儀助は佐重喜の将来性を見込んだのかもしれない。」とある http://www.giincolle.com/giin/125/ より抜粋
父・小沢佐重喜。夜叉の異名を持つ浅草の香具師、北朝鮮の満州派]の潜入工作員であるという根拠は? 1898年(明治31年)11月25日、岩手県胆沢郡水沢町(現・奥州市)の農家に生まれた。父の徳太郎は、田畑をそれぞれ三反歩ずつ所有する、いわゆる中農であった。徳太郎は百姓でありながら農閑期になると寺子屋に通い、勉学に励んでいたといわれている。ところが、徳太郎はかなりの大酒飲みで、のちに小沢家が没落していく原因となる。酒代のために田畑を手放した徳太郎は、田小路の鈴木家で下男として働き、トメと結婚した頃には馬車引きをして生計をたてていた。家の中ではいさかいが絶えなかった。佐重喜も子どもの頃から徳太郎に逆らい、ことあるごとに口論を繰り返していた。
佐重喜には六人の兄弟姉妹がいた。家が貧しく、すでに妹も長兄も奉公に出されていた。佐重喜自身も幼いときから徳太郎の手伝いをさせられたが、それでも隙を見ては学校に通っていた。妹たちが家の手伝いのために半分も学校に行かなかったのに、佐重喜の場合は一日だけ休んでほとんど授業に出席するという熱心さもあった。 だが、小学校5年で退学し鍛冶屋、大工の弟子入り等を経て15歳のとき、母からもらった僅かな金を手に東京に向かった。下野中学校(現・作新学院)に入学し3年生に進級するときに、開成中学校の編入試験を受けて合格する。東京では新聞配達や人力車夫をしながら中学校に通った。中学校を卒業すると、鉄道省に勤めながら日本大学法学部の夜間部に進学した。昼間は働き夜は勉強した。1923年(大正12年)に大学を卒業すると、その年の12月に25歳の若さで弁護士試験に合格し翌年弁護士事務所を開業する。wikipedia コシミズさんに言わせると、世界はすべてユダヤ人に、日本はすべて朝鮮人に支配されており、異議を申し立てる者はすべて、CIA工作員か朝鮮邪教の信者で、最近では阿修羅までその一味らしい。
触らぬ神に祟り無し。 |