06. 2011年2月28日 16:28:50: hsS8ppCeBQ
今後も、「デモ」に参加したい方々は、「塚原勝美氏=愚民党さん」の「ご自身作成の経歴紹介ホームページ」をぜひ読んでくれ。質問は、直接、御本人にしたらいいぞ。阿修羅上でも、そうおっしゃってるんだから。 愚民党さんは、つい1年前まで、ここ阿修羅掲示板上で【しんぶん赤旗記事を引用して、精力的に小沢批判】を繰り広げて来られた。30年以上も、【共産党員】をやって来られたんだろ?塚原さん。なんで突然、【小沢一郎を総理大臣に!】に変われるんだ?「思想」「信条」、そんなに急に変われるものなのか? ◆2.27極左主催小沢支持鎌倉デモ:主催者の愚民党さんの「小沢支持派偽装転向」以前の「小沢叩き」の数々 作成日時 : 2011/02/26 20:24 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201102/article_91.html >>1974年日本共産党へ入党。(21歳) >塚原容疑者が所属する「戦旗・荒派」は、昭和六十一年十月十四日、国鉄の分割・民営化や成田空港二期工事に反対し、三島市と沼津市内で盗んだ乗用車を使い、東京・霞ケ関の検察庁合同庁舎などに火炎弾を打ち込むなどのゲリラ事件を起こしている。 ↓◆塚原勝美後援会 17歳からアンダ−グランドひとすじの道を歩んできた塚原勝美にご支援お願い申し上げます。【塚原勝美経歴】 http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/8479/katumi01.html ↓(全文) ---------------------------------------------------------------------------- >共同通信・全国有力新聞記事情報 KYODO2 >このサービスは基本料金の他に 150円/分の追加料金が必要です。 > 1. ご案内 2. サービスの使い方 > 3. サービスに入る (\) >>3 >ただいま接続中です.しばらくお待ちください >10分間何も入力されない場合,自動的に終了します >共同通信・全国有力新聞横断検索に接続されました。 >収録記事数は現在1,760,168件です。 >●どの処理を選びますか? > 1:検索を始める (SEARCH) > 2:検索した結果をさらに絞り込む (AND) > 3:検索した結果をさらに広げる (OR) > 4:検索した結果をさらに絞り込む (NOT) > P:検索した結果を出力する > H:検索履歴を表示する > E:ひとつ前の画面に戻る > T:データベース選択画面に戻る > OFF:終了 ><検索例> 漢%・蓮->デ―タベ―スとパソコン通信について カタカナニユウリヨク:->1 データベース パソコンツウシン >->>1 >キーワードが指定されていません。もう一度入力し直して下さい。 >->塚原勝美容疑者 >「塚原勝」に関する記事は3件あります。 >「美容疑者」に関する記事は133件あります。 >「塚原勝美容疑者」と思われる記事は1件になります。 >以上により、ご質問に該当する記事は1件となります。これを「¥1」という集合で保 >存します。 >->P >●どの処理を選びますか? > 1:見出しのみを出力 2:見出しと前文を出力 3:見出しと全文を出力 > E:ひとつ前の画面に戻る > T:データベース選択画面に戻る > OFF:終了 ><出力例> 見出し番号10から15まで出力する場合:->1 10,15 >->3 >#0001 ◎手配の活動家逮捕 日雇い求職票を偽造 県警鉄道隊−静岡市 90.11.02 > 静岡 朝00版23面03段 589文字 SS97629 静見 =02付一社 > 静岡県警鉄道警察隊は一日までに、神奈川県警伊勢崎警察署から > 有印私文書偽造・同公使の疑いで指名手配されていた過激派「戦旗 > ・荒派」の活動家で東京生まれ、住所不定、塚原勝美容疑者(37 > )を逮捕した。 > 調べによると、塚原容疑者は、八月中旬、架空の名前を使った日 > 雇い求職票を偽造して横浜港労働公共職業安定所に提出し、日雇労 > 働被保険者手帳(通称・白手帳)を不正取得した。 > 県警鉄道警察隊員が十月三十一日午前三時ごろ、JR東海道線静 > 岡駅に停車中の東京発大垣行き普通列車内で警ら中、洗面所でたば > こを吸っていた不審な男を職務質問したところ、塚原容疑者と分か > った。塚原容疑者は、機関誌やビラを所持していた。 > 塚原容疑者が所属する「戦旗・荒派」は、昭和六十一年十月十四 > 日、国鉄の分割・民営化や成田空港二期工事に反対し、三島市と沼 > 津市内で盗んだ乗用車を使い、東京・霞ケ関の検察庁合同庁舎など > に火炎弾を打ち込むなどのゲリラ事件を起こしている。 > 県内では九月二十七日に静岡市内で過激派・中核派のアジトを警 > 視庁が摘発、活動家二人を逮捕した。県警も即位の礼、大嘗祭(だ >まだ続きがあります。(改行:続き表示) >-> > いじょうさい)に向け、職務質問の徹底など過激派ゲリラに対する > 警戒・警備を強化している。 >以上で終わりです。「C」・「F」表示の記事は、本文の出力はできません。 >->OFF >共同通信・全国有力新聞記事情報 KYODO2 >このサービスは基本料金の他に 150円/分の追加料金が必要です。 > 1. ご案内 2. サービスの使い方 > 3. サービスに入る (\) --------------------------------------------------------------------------- 窓から見える徳川家康 駿河城の後 あれは遠い1990年10月最終日 静岡警察署の前に広がる朝焼けの園 沈黙の記号よ 物語よ 釜が崎暴動 大阪 西成へ たどりつけず 手錠 私の最終の80年代を飾れ 牢獄 鬼怒天皇物語の語り部 とねり 0ではなく 1の記号に出発する朝 新横浜駅に向かう新幹線まっすぐに 語り部は降りた 新横浜駅の階段を 1990年11月 牢獄は記号より 電子会議 (1:発言 2:コメントを読む 改行のみ: 読む) 通常モード LOG IN −−− 94/06/18 23:59:46 LOG OUT −−− 94/06/19 00:02:57 1953年東京・調布市都営住宅生まれ。 1歳で栃木県矢板市豊田村に里子。 3歳で豊田村ましろくに東京から引越してきた家族に呼び戻される。 父が病弱だったため、一貫として貧乏生活。 小学生時から詩とまんがを描き始める。 中学1年から高校3年まで新聞配達で体力を鍛える。 石森章太郎『漫画家入門』に学び、スト−リ−漫画を描く。全国まんが同人誌運動に中学2年で参加。 北海道から九州の会員に郵送によって回覧する唯1冊の肉筆回覧誌に感動。 その後の人生を決定する。 高校生になり虫プロ「COM」に何度もまんがを投稿するが入選せず。 矢板高校において漫画研究会『新風』を友人と創設。 肉筆回覧誌『新風』ガリ版月刊誌『創造』を発刊。 矢板高校・氏家高校の漫画少年・少女と出会い、漫画研究会を大きくする。 全国漫画研究会をつくるが1回だけの肉筆回覧誌だけで終わる。 まんが家をめざしていたが、70年安保闘争の怒涛により、 栃木県北反戦青年委員会に加盟。 70年安保闘争を栃木県反戦高校生デモ隊でたたかう。 全国反帝高校生評議会に参加。 宇都宮大学社会主義研究会に出入りし、栃木県下の反戦高校生と討論する。 矢板高校において反戦高校生会議を組織・建設。 学内民主化闘争を推進する月刊ガリ版印刷雑誌「さわがに」を仲間とともに発刊 全クラスに配布して、校内問題となる。 数々のビラをまく。 入管法改悪阻止の運動を推進。 1970年12月社会主義青年同盟(解放派)栃木県委員会に加盟(高校3年17歳)。 バリ封鎖の卒業式粉砕を画策したが失敗。処分をくらう。 71年印刷工として、栃木県反戦工場労働運動を推進。(18歳) 1971年沖縄返還粉砕連続闘争を首都において、たたかう。 「おれは、ひとりで東京の集会に連日自己動員していっているのに、 あなたたち 先輩はなぜ、首都決戦に参加しないのだ!栃木から行っているのは、 おれと 宇都宮大学治自会の学生だけだ」栃木県書記長とケンカをする。 このとき男は30歳になり結婚をするとなにもできないことを発見し 一生結婚はしまいと誓う。 沖縄返還粉砕首都決戦において、闘争とは方針を生み出すためにあることを機動隊に蹴られ、ぶん殴れながら学ぶ。 地元栃木県北において自主上映運動を推進。反核映画・反戦映画・パリ・コミュ−ン等を上映 1971年10月栃木県委員会執行委員に選出される。(18歳) 社青同県北支部担当となる。 1972年3月、宇都宮に勤めていた印刷会社を退職。 1972 年、地元矢板における秋木工場閉鎖阻止連帯会議を組織、 栃木県県労会議の事務所に出入れする 秋木闘争支援栃木県青年労働者集会を組織・成功させる。(19歳) 1973年1月、社青同解放派での栃木県での運動に挫折。 1973年1月社会主義青年同盟栃木県委員会(解放派)から脱落。 19歳、1973年1月東京に出発。日本民主主義青年同盟品川地区委員会に加盟。(20歳) 新左翼に欠落していた戦前革命運動と議会選挙闘争を学ぶ。 1973年12月挫折。1974年1月栃木県矢板市に戻る。 民主主義青年同盟矢板地区委員会に移動。議会選挙運動をにらう。 1974年日本共産党へ入党。(21歳) 1975年、人口3万人の矢板市で二人の共産党議員を誕生させる。 宣伝担当として、印刷を担当。エレファックス印刷機で多色刷りチラシで 政治ビラの革命を実現させる。一斉地方選挙、栃木県委員会印刷担当。 1977年9月共産党運動に挫折(24歳)10月、横浜市に逃亡。 大田区池上のアニメ−ション会社に入社。「サザエさん」色指定担当。 1980年5月韓国光州蜂起に衝撃を受ける。(27歳) 1980年から再び三里塚闘争に参加。 1983年5月、寺山修司死亡。5月5日、三里塚で空に寺山修司が登っていく幻影をみる。 「革命の演劇か」「演劇の革命か」その寺山修司の問いに答えるべく 再度、革命の前衛でおのれを鍛えるべく決意する。 戦旗・共産主義者同盟(ブント)の労働者共闘会議に加入。(30歳) 1984年から1989年まで日本革命生活・アジト共同生活。革命主体論、哲学、経済学を学ぶ。(31歳〜36歳) 横浜・川崎・相模原・湘南に おいて三里塚闘争支援・反戦運動を組織。1989年4月、自己の空洞をみすえ、 日雇労働運動 と革命党の路線との自己矛盾に苦しみ、アジトから逃亡。(36歳) 共産主義者同盟から脱落する。その後、全国日雇労働運動に全力をそそぐ。 東京・山谷/大阪・釜が崎/横浜・寿町/名古屋・笹島/九州・福岡の日雇労働者の仲間とともに山谷労働者福祉会館を建設。(37歳) 1989年から1991年1月まで全国日雇労働組合協議会・ 寿日雇労働者組合執行委員。大成建設、熊谷組、飛島建設、ゼネコン現場 闘争を担う。 1990年秋反天皇反だいじょううさい闘争、大阪西成釜が崎暴動勃発。 1990年11月末、寿から大阪釜が崎労働者暴動支援に派遣されたが、途中、 大阪への参入を阻止する警察庁指令による全国指名手配として 静岡駅にて逮捕される。翌日、新幹線で新横浜まで護送され 伊勢崎署に投獄される。 NHKニュ−ス、全国新聞・神奈川新聞にて実名報道され、 「新聞に名前が載るような人になりなさい」教えを受けた中学時の数学女性教師との 約束をなしとげる。 連日10時間の取り調べ、黙秘闘争貫徹。 12月末、処分保留で、寿にもどる。 またしても全国新聞と神奈川新聞に「処分保留」出獄の実名報道。 革命と表現の原点を70年代において、敗北につぐ敗北の過程で形成。 1989年事態・東欧ソ連邦崩壊によって、世界革命への展望を喪失しつつも、 横浜寿町で日雇労働運動、外国人労働者への労働災害、 賃金不払い等の問題解決に死力をつくして奮闘する。 1991年湾岸戦争の勃発そのデジタル世界の出現に驚嘆し、 社会運動の現場から逃亡する。2年間部屋に閉じこもり、 図書館に毎日通い、世界史・日本史・文学・経済・政治に関する 書物を読み漁り、再度、世界イデオロギ−を建設せんと模索格闘。 そのとき寺山修司演劇論を再読し、 「革命の演劇か」「演劇の革命か」を再度おのれに問うべく 演劇の現場に飛び込むことを決意する。(38歳) 1992年39歳から演劇活動に入る。 1992年てんびん座に入る。 1992年10月、てんびん座公演「橋」藤沢湘南台市民シアタ−で舞台監督。 1993年8月、てんびん座公演「サルトル・狂気と天才-キ−ン」東京芸術劇場出演。(40歳) 1994年7月、白石征演劇「十三(とさ)の砂山」湘南台市民シアタ−出演。(41歳) 1994年10月、とりふね舞踏舎「私が生まれた日」湘南台市民シアタ−出演。 1995年5月、白石征演劇「瓜の涙」錦糸町ホ−ル出演。(42歳) 1996年2月、塚原勝美現代美術個展開催。 1996年3月、とりふね舞踏舎「さんげったん」藤沢市民会館出演。 1996年5月、白石征演劇「十三の砂山」錦糸町ホ−ル出演。(43歳) 1996年6月、とりふね舞踏舎「大地の月」イタリアミラノ公演出演。イタリア公演中に父が死亡 1996年9月、遊行舎「小栗判官と照手姫」遊行寺公演、制作・出演。 1996年12月、遊行舎「あかちょうちん」藤沢青少年会館出演。 1997年3月、遊行舎「瓜の涙」博品館公演、制作。 1997年8月、万有引力「100年気球メトロポリス」遊行舎参加「鰐」、制作・出演。(44歳) 1997年9月、遊行舎「小栗判官と照手姫」遊行寺公演、制作・出演。 1998年3月、遊行舎「中世悪党伝」藤沢市民会館公演、制作・出演。 1998年5月、遊行舎「十三の砂山」渋谷ジァンジァン公演、制作。(45歳) 1998年8月、遊行舎「小栗判官と照手姫」遊行寺公演、制作・出演。 1999年3月、遊行舎「中世悪党伝第2部」藤沢市民会館公演、制作・出演。 1999年5月、万有引力「100年気球ラビリントス」参加。(46歳) 1999年8月、遊行舎「小栗判官と照手姫」遊行寺、愛媛県公演、制作・出演。 1998年10月、宗田千恵子ひとり語演歌芝居、俳優座劇場公演、演出助手。 1998年11月、天井桟敷復活「人力飛行機ソロモン」青森公演参加。 1998年12月、とりふね舞踏舎湘南台市民シアタ−公演、出演。 2000年1月、遊行舎「瓜の涙」阿佐ヶ谷公演、制作・出演。 2000年5月、遊行舎「天使のウインク」相鉄本多劇場公演、制作。(47歳) 2000年7月、とりふね舞踏舎「さんげったん」新宿スペ−ス・ゼロ公演・出演。 2000年9月、遊行舎「小栗判官と照手姫」遊行寺公演、制作。 2000年10月から11月3日まで70年代・80年代・90年代、30年間の全存在をかけて「レミング」全国公演参加 2000年12月、遊行舎「誰がために鐘は鳴る」中世悪党伝完結編・藤沢市民会館・制作 2001年3月、とりふね舞踏舎三上賀代舞踏・舞台監督・STスポット 2001年3月、遊行舎「天城越え」宮下和美ひとり芝居・音響・遊行寺 2001年6月とりふね舞踏舎公演の宣伝担当として六万枚のチラシを配布。 2001年6月「ひのもと」とりふね舞踏舎公演出演。(48歳) 2001年10月、遊行舎『小栗判官と照手姫』遊行寺最終公演。 制作・出演。 3万5千枚のチラシを藤沢駅周辺にまき、 500枚のポスタ−を商店街に貼る。観客動員成功。 夏に見た世阿弥の能に影響される。 2001年11月。 とりふね舞踏舎大阪公演出演。 2002年2月。 遊行舎シアタ−X『寺山修司・十三の砂山』公演制作。 とりふね舞踏舎ヨ−ロッパ・スロベニア・クロアチア3月公演出演。 とりふね舞踏舎・ア−トスフィア7月公演に向けて4月から 5万枚のチラシを東京・横浜にて配布。(49歳) 2002年5月韓国民族芸術人総連合主催・韓日協力舞踊公演の舞台黒子をやる。 2002年7月とりふね舞踏舎公演『私が生まれた日』ア−トスフィア公演出演 2002年7月遊行舎10月公演『一遍聖絵』チラシ一万枚東京に配布。8月猛暑のなか藤沢にて一万枚の『一遍聖絵』チラシ配布。1996年から遊行寺本堂での遊行フォ−ラム・中世語り芸公演舞台設営・舞台監督を担い、7年目の2002年公演も成功させる。 2002年10月遊行寺での公演『一遍聖絵』を制作として推進、成功させる。 2002年10月、境野ひろみ暗黒舞踏公演を手伝う。 2002年10月、ダンスエレマン・ダンス公演の舞台を手伝う。 2002年11月、京都精華大学野外『叶和泉』ユニット舞踏公演にスッタフ参加。 2002年12月、早稲田大学での人体科学学会主宰、とりふね舞踏舎小公演に出演。 2003 年1月、遊行舎を退団。暗黒舞踏に集中しようと決意。 2003年2月、シアターX、アジアダンス祭、とりふね舞踏舎公演出演。 2003 年3月、土方巽記念アスベスト館、とりふね舞踏舎三上賀代『献花』舞台監督として成功させる。(50歳) 2003年6月藤沢労働会館、とりふね舞踏舎若手公演『寒立馬NO1』舞台監督として成功させる。 2003年4月〜9月、とりふね舞踏舎新作公演バッケ、東京・神奈川で5万枚のチラシを配布。 2003年9月よこはまドームシアター、とりふね舞踏舎公演バッケ、舞台監督として成功させる。 2003年10 月4日、京都にとりふね舞踏舎、京大・西部講堂公演のために入る。 精華大学の学生制作と共に8千枚のチラシ配布、 70枚のポスターを京大付近商店街に貼る。 2003年10月19日元藤Y子氏追悼公演・京大西部講堂にて演出助手として成功させる。 2003 年10月26日、ナパーム田所による総演出による空間美術・ロック音楽・映像による西部講堂イベントにスタッフとして参加。 12月、岡本太郎美術館土方巽展における境野ひろみ舞踏公演裏方スタッフ 2004年 2月〜7月、日本舞踊の裏方として修行。 7月、とりふね舞踏舎若手公演・寒立馬NO2「日向(ひなた)」舞台監督。(51歳) 8月、境野ひろみ舞踏公演を手伝う。 10月、とりふね舞踏舎、神奈川公演の舞台監督助手。10月、とりふね舞踏舎、京大西部講堂の舞台監督助手。11月、精華大学木野祭、軽音楽部のライブハウス建設を手伝う。宿泊していた京大の吉田寮で出会った若きミュージュシャンを精華大学木野祭のライブハウスに出演させる。 京大の吉田寮でさまざまな人と毎晩酒を飲み交流する。 宿泊していた部屋の本棚には60年代の書物があり、ある無名作家の 71年発行ガリ版印刷小説「ローザ・ルクセンブルク」にインパクトを受ける。 そのとき、自分も小説を書いてみたいとする欲望が起動する。 11月、ナパーム田所による京大西部講堂広場イベントを手伝う。 12月末、京大西部講堂年越しイベント「西部大吉」スッタフ。 2005年 1月、京大西部講堂年越しイベント「大吉」バラシを終了後、神奈川に帰還。 京都人との交流、「西部大吉」スッタフとの交流でインパクトを受ける。 京都アンダーグランド文化のダイナミズムに誘発され、 次は小説という文芸こそが勝負ではないかと帰りの電車のなかでひとり妄想する。 4月、村上龍「半島を出よ」を読む。(52歳) 村上龍に負けてたまるか!と小説創作に突入する。 6月〜7月、とりふね舞踏舎稽古場建設に参加。 8月〜現在、日本経済新聞小説大賞12月31日締め切りをめざして 創作の苦しい日々を苦悶中。 ------------------------------------------ デモを行うこと、デモに参加することが悪いと言ってるんじゃないんだ。デモの企画者も参加者も、「時の権力者は誰か」「誰が国民に対して法(=強制できる)執行の権限を持っているか」を、よく考えてほしいんだ。 「デモ」「一揆」で、市民、国民が幸せに暮らせるんなら、人類は、もうとっくの昔に、幸せに暮らせているはずなんだ。 もうこれ以上、【利用される】のはやめにしたい。【無駄な流血】はやめなきゃ。自分自身はもとより、子、孫、青年達が、未来の人間達が、俺達の浅はかな言動で、今のツケ、これまでのツケを、全部引き受けさせられるんだぞ。この日本国の、世界の、権力構造、政治情勢、経済情勢をしっかりとわかった上で、再度、自分自身の立っている場所、位置を、客観的に、俯瞰的に眺めてみてくれ。【極東有事】【戦争】に繋がるような行為は、絶対にやったら駄目だ。アメリカ様が、【戦争経済】で喜ぶだけだ。また、【東アジア諸国】は、ズタボロになるだけだ。 ネット情報を生かして、【デモ企画者、実行委員の経歴、素性、職業、連絡先】等も、自らいろいろ調べてみてくれ。一人静かに「考えて」ほしい。「考える」と「信じる」とは、「似て非なるもの」だ。「対極の精神活動」だ。「人(にんべん)の言うこと=信じて」どうするんだ?他者の脳ミソじゃ考えられん。自分自身の脳ミソで考えてくれ。誰も、他人の体じゃ生きられんぞ。(拝) |