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新聞・テレビに毎日踊る言葉の「政治家」とは何か。菅直人や小泉純一郎に見る公約を平気で破る人間がなぜマスコミに非難されないのか。そもそも「政治」とは何なのかを私見をもって問うてみたい。
民主政治になる以前の形態は国王や皇帝などの絶対君主による君主制、すなわち独裁国家である。似たようなものは寡頭制と呼ばれるもので、共産党の一党独裁国家の中国などがこれにあたり、政治家は国民によって選出されない。この意味では我が国も官僚による寡頭政治国家である。
君主制の対立概念が共和制であり、これは君主が存在しない多数による合議制の形であるが、特殊なものでは上記の中国などの寡頭共和制も存在する。それ以外は民主主義の基本と言われる民主共和国の範疇に入る。
どのような形にせよ、政治とは統治に他ならない。その意味でわが国の政治家に欠けている事は、民主主義という言葉に惑わされて本質を見れない「統治」という概念の欠如である。多数により政権を委託されたのであるから、その委託された根拠(公約)に基づき、国家の運営を粛々とすべきなのだが、我が国の政治家たちは自分たちで運営をせず、過去から続く官僚制度の枠で政治というものの判断を狭めている結果、官僚による支配から脱却できない。統治に必要な制度のために三権分立という権力の集中が排除されているものの、法治国家という基本のもとに成立している民主国家の根幹となる立法権は政治家が持っている。すなわち、政治家は行政権と司法権を持たない統治者なのである。主権在民の意味はここにある。我が国の政治家には統治権という概念がないので、その根幹である立法権を官僚に委ねるという考えられない事を長年続けてきた。明らかに自民党という政権が、官僚機構という行政府とつるんで国を歪めた結果に他ならない。確かに選挙により選ばれた者が、立法行為を行う事は易しい事ではないだろうが、根本的な理念を放棄した時点で国家形態は変わってしまう。
政権交代して分かったことは、明らかに大多数の政治家も国民も「誰が国家の統治者なのか」という基本的な概念のなさを露呈した事だろう。従って、何かを決定する際に必要となる情報すら集める事も出来ず、結果として普天間問題も辺野古の移転に戻すような間違いを犯したし、財源がないという世論操作によって公約の破棄を簡単に行う安易な方法に走る菅直人やその同調者が多数いたことを露呈したのだ。マスコミは世論という言葉で政治家を欺き、政策ごとに決定を官僚側に都合のよう方向に持ち込むことに簡単に成功している。民主政治は国民の声が最も重要だという詭弁により、政治家たちが右往左往させられている。本来の選挙によって獲得した世論こそが国民の声であるにも拘らず、このような子供だましの手口に簡単な惑わされる国会議員たちに驚かされるばかりであるのは私だけではないだろう。
本当の意味の政治家になって、必要な事を全て法律によって規定して、官僚達による恣意的な国家の運用を止めなければならない。彼らの身分保障を剥奪し、政治家の行う統治とは国民によるものである事を知らしめる意味でも、必要な法律を国会議員たちが策定する事をしなければならない。国会議員に対して必要な情報を提供しない者や、税金を私的に流用する者、指示に従わない者などは公務員としての資格はもとより、懲戒免職や降格ができる法律を直ちに策定すべきである。そのためにも、国会に立法行為に必要な人員と組織を設置する法律の策定から開始すべきである。
政権交代は始まったばかりである。つまらない個々の政策がどうのこうのではない、本来あるべき統治ができる国の形に変える事こそが求められているのである。それが実現されれば、国民ももっと政治を真剣に見つめ、選挙についても自ずから投票率は増えざるを得なくなり国民主権という本来の民主国家が確立できることになるはずである。過去から続くことを何も考えずにつづける事こそ変えさせなければならない。国会議員にはその覚悟を求めるべきである。
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